前回投稿は舌足らずであったかもしれない。
宗教意識の違いがその人の行動規範やその国の社会類型を大きく決めていくという点については、マックス・ウェーバー以来、相当大きな研究蓄積が既にある。なので、オウム真理教事件についても、今後、宗教社会学の観点から刺激的な分析が進められていくに違いないと、そう予想している。
ホロコーストや自爆テロ、人種差別等々、現在の地球においてなおも沈静化どころか激化しつつある現象は、その多くが宗教起源の問題である。
補足したいのは、一神教と多神教のもたらす違いである。
仏教は釈迦如来が普遍的に信仰の対象になっているかといえばそうではない。浄土信仰は阿弥陀信仰であるし、その脇には観音菩薩や勢至菩薩、地蔵菩薩がひかえている。真言宗になると大日如来を信仰の対象とする(ようだ)。仏像・仏画も阿弥陀三尊を描いているものもあれば、百済観音、廬舎那仏を表現しているものもある。非常に多様であり、キリスト教の世界とはかなり異なる様相になっている。それでも、戦国末期の一向宗門徒(=現代の浄土真宗)のように厭離穢土(=現世否定)が刷り込まれ、欣求浄土(=阿弥陀崇拝)が支配的な意識になれば体制破壊的な行動を繰り返すエネルギーとなる。
その信仰の現世否定は、カネや権力への執着をたちきり人格を高潔にする動機になるが、同時に常識を軽蔑し、法の支配を敵視する動機にもなりうるのだ。そして矛盾する多くの神々がいる宗教世界よりも唯一の神の僕となる一神教において行動はより純粋化するはずだ。
神々の世界においても独裁的色彩と民主的色彩と。その違いで人間行動の違いがもたらされているようだ。
以上、素人的な仮説。というより、多分、専門家にとっては初歩的命題にすぎない。そんな気もする。
さらに飛躍した仮説:
太平洋戦争中、日本海軍と米海軍とで制空権重視という戦略革新では共通点があったものの、山本五十六長官率いる日本海軍はなおも戦艦や巡洋艦を主力決戦に向けて温存する傾向が目立ち、他方アメリカ海軍の方は空母を中心にした輪形陣をしき、それが対空砲火をより濃密にし、日本に対する戦術的優位を築く大きな要素となった。この違いの理由として、日本海軍の側にあった戦略思想「漸減邀撃作戦」(攻撃する米海軍を潜水艦で漸減し最後に日本近海で決戦に持ち込む発想)が山本長官の意識にあった。そんな見方があるのを知った(例えば別宮暖郎『帝国海軍の勝利と滅亡』)。「作戦思想」というのは、軍だけではなく現在の民間企業や官庁にもあるのだが、一度それが形成され、浸透し、組織が継続すると、その発想を完全に自分の脳内から払拭するのは難しい。思想はどこか宗教に似ているものだ。そう思ったりもするのだな。とすれば、宗教や信仰にとどまらず広く思想や理念についても、それらが体制破壊的なエネルギーに転化する可能性をつみ、創造的破壊(=イノベーション)に結びつく動機へと誘導する「やり方」(としか言葉を思いつかない)をとることが社会にとっても企業にとっても最重要なことだろう。「破壊」と「創造的破壊」とをどう識別するのかという根本的問題をとりあげずして、こんなことをいうのは可笑しいのだが。
それにしても、このような認識はマルクス的な観点とは真逆である。小生、マルクスの下部構造論には基本的に賛成しているので、自分の中で整合をとる必要もある。
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