少し以前になるが近くの書店で光文社古典新訳文庫が並んでいる一角を見ているとルソーの『社会契約論/ジュネーブ草稿』があったのでパラパラめくってみた。めくりながら書棚に視線を移すと中江兆民の『三酔人経綸問答』があるのに気がついた。あまり読まれていない本だ。むしろ最晩年に著した『一年有半』のほうが知られている。にも関わらず、マイナーな方を古典として含めたのには何か編集サイドの理念があるのかもしれず面白いと思って買った。『三酔人経綸問答』、1887(明治20)年に出版されたということは、日清戦争よりも以前の時代である。
中に以下の下りがある。全文引用すると冗長なので投稿者の一存で抜粋しつつ引用したい。現代語訳原文は光文社文庫版の73頁から77頁にかけてである:
豪傑の客: それならば、もし凶暴な国があって、我が国が軍備を撤廃するのに乗じて、軍隊を送って来襲してきたら、どうしますか?
洋学博士: ぼくはそのような凶暴な国は決してないことを知っています。もし万が一そのような国があったとしても、われわれはそれぞれ自分で対処するだけです。・・・静かにこう言いましょう。あなたがたに無礼を働いたことはない。幸い非難される理由もない。・・争いも、いさかいもしなかった。・・・一刻も早く立ち去って、国に帰りなさいと。彼がなおもきかずに銃砲をわれわれに向けるなら、ひるまずにこう言いましょう。きみたちは何たる無礼かと。あとは弾を受けて死ぬだけのこと。
豪傑の客: まさかこれほどとは・・・世界の情勢を論じ、政治の歴史を語ったあげく、最後の一手とは結局、全国民が手をこまねいて敵の弾丸に倒れて、有終の美を飾るというのですからね。
洋学博士: ヨーロッパの学者で戦争を否定する者はみな、攻撃は道理に反するが、防衛は道理にかなうとしています。つまり、・・正当防衛の権利を国の場合にあてめようというわけです。ぼくの考えでは、これは哲学の本来の趣旨にそむいています。なぜなら人を殺すことは悪事です。・・・ですから、人がぼくを殺しても、ぼくは人を殺してはならないのです。・・・全国民を生きた道徳の象徴として、後世の社会の模範とするためなのですよ。
豪傑の客: だいたい戦争というものは、学者の説によればどれほど忌まわしいものだとしても、実際上どうしても避けることのできない勢いなのです。また勝つことを好み、負けることを嫌うのが動物の本性です。・・・怒るというのは正義感のあらわれなのです。・・・争うことのできない者は意気地なしです。戦うことのできない国は弱い国です。兆民の分身とも思われる南海先生が弁じ始める前の序盤の会話である。
引用文中「後世の社会」という語句があるが、中江兆民がこの本を出版したあと、日本が最終的に歩んだ道は洋学博士君の理念ではなく、豪傑の客が展開した軍国主義戦略であった ― とはいうものの、日清戦争以前の日本に「軍国主義」という言葉はなかったに違いない。現に日本が軍国主義であったその時にも「我が国は軍国主義国家を目指す」などという言葉はなかったはずだ。ただ「富国強兵」は明治維新のそもそもの根本理念でもあり、その根底に尊皇攘夷思想があったことは否定できない。明治の精神を反映しているのは、洋学博士君ではなく、豪傑の客であったと、振り返ってみれば明らかなのだ。中江兆民は、その意味でも文字通りの啓蒙思想家、日本人の蒙を啓く人であろうとした人物である。
いずれにせよ、洋学先生の平和主義的非戦論は、いま読んでも魅力的であるものの、現代日本は既にその前提、というか資格を失っているかもしれない。『あなたがたに無礼を働いたことはない。幸い非難される理由もない。・・争いも、いさかいもしなかった』と、このような主張に耳を傾けてくれる国はいまはないだろう。この一点で、現代日本は中江兆民が生きた明治中期の日本とはまったく違った日本になってしまっている。歴史は過去に属するが、現代にも生き続け、いま生きる人を束縛するのである。
とはいえ、明治日本がまだなお「坂の上の雲」を見ながら歩んでいた時代、まだ対外拡張戦略に転じる前の時代、非武装平和国家を理想とする外交戦略が誰にも教わることなく、日本人自身が一つの選択肢としてイメージできていたことは、今後の参考になるはずだし、悪い方向で受け取れば「歴史は何度でも繰り返す」ということでもあるのかもしれない。
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