2024年1月26日金曜日

ホンノ一言: 「京アニ事件」の判決について

またまた、ひろゆき氏が世間を騒がせているようで・・・と思ったのは、「京都アニメーション放火殺人事件」の公判で被告人S.Aに対して死刑が宣告されたことに関連して、「死刑になるための人を助けた医療関係者の努力を考えると、『死刑だから助けなくていい』という判断があってもいいような、、、」とSNSに投稿したところ、前新潟県知事の米山氏が「まず判決が確定するまでは死刑になるかどうか分かりません。判決確定後も、執行までは再審もあり得ます。それ迄は、被疑者・死刑囚としての制限は受けても人権を有し、病気は治療するのが法治国家です」という主旨の反論を加え、それで結構、論争になっている。

小生も今回の判決については

小生: 放っておけば死んでいたはずの主犯を必死に蘇生させて命を助け、助かったら今度は国家権力が『その方の罪は重大にして非道。斟酌するべき情状は認めがたし。よって死刑とする』って言い渡して、改めて法の名の下に死んでもらう。これはサ、ちょっと俺の感性には合わないナア。

 カミさん: 犯人に動機を聞いて、きちんと裁判をして、遺族の人もそれを聴きたいんじゃないの?

小生: いくら司法手続きがいるとか、社会にとって必要だと言っても、犯人が死を選ぶ自由を認めず、あくまで法を優先させて、その後になって国家が改めて犯人を殺すっていうのは、どれほどの悪人であっても人が持っている人権を国家が侵している。そう感じるけどネエ・・・

小生: そう思う人は少ないと思うヨ。

そんな話をしたところだ。

要するに、

犯人が被害者を殺害するという行為をとることによって他人の人権を侵したことは事実だ。しかし、だから国家はその人を殺してもよいという理屈はどこから出てくるのか?『時と場合によって、国家は人を殺してもよい』という思考から、正義のための戦争、自衛のための敵基地先制攻撃は、すぐに結論されて来るに違いない。

何度も投稿しているように、小生は死刑廃止を支持する立場に近い。そして、いかなる場合にも《戦争 << 外交》が政治の基本だと認識している。

ちなみにEU、英国では死刑が廃止されているが、例えば銃乱射事件発生時に犯人を現場で射殺する警察行動は(頻繁ではないが)時に報道されている。「緊急避難」の代理行為であると小生には思われるが、死刑廃止の法理と現場における(合法的な)射殺行為と、この二つがどんな論理で基礎づけられ、関連付けられているのか、一度調べてみたい問題だ。


判決文を詳細に読むほどの関心はないことを断っておきたい。単に感じた事を覚え書きにしておきたいだけである。報道によれば「36人を殺害したS.A.被告」と説明されているが、<36人の犠牲>という事後的結果に対して、被告人の行為がどの程度まで寄与したかという量的分析は精緻にされたのだろうか?小生は統計畑でメシを食ってきたのでどうしてもこの点に関心を覚える。


例えばアメリカで頻発している銃乱射事件、そうでなければオウム真理教による「地下鉄サリン事件」であれば、主犯が多数の犠牲者の死に対して(ほぼ)唯一の責任を負うと、疑いの余地なく明々白々に認識できる。

他方、「京アニ事件」発生当時の報道によれば、火災発生時に緊急避難するための非常口や非常扉が十分に確保されていなかった、そんな記憶がある。更に、廊下に敷いているカーペット等に可燃性(?)の高い繊維が使われていた、また螺旋階段で吹き抜けになっており火災に対して脆弱であった。そんな記憶もあるのだが、間違いだろうか。

仮に上の記憶が正しいなら、建物(と事務所)の火元責任者、安全管理責任者の油断が、結果的に非常に多数の犠牲者発生につながった。そんな仮説もありうるのではないか。


もちろん被告人の放火行為がなかりせば多数の犠牲者発生もなかった。この認識は正しい。しかし、被告人の放火行為があったとしても、もし十分な防火体制、緊急避難システムが備わっていたとすれば、犠牲者の数はどの程度になると予測されるか?類似の放火事例からある程度は推測可能ではないか?少なくとも議論は出来るはずである。

こう考えるとすれば、

完璧な防火体制の下で予測される犠牲者数=被告人の放火による純粋の殺傷効果

であって、 

事後的結果-被告人の放火による殺傷効果=防火体制等の不完全性による犠牲

こうとらえるのが理屈だろう。 少なくとも経済政策の効果を評価する際にはこうした手法を採る。

ここでは大分類された2種の要因だけで話をしたが、実際の議論においては大分類、小分類ごとに具体的な要因を列挙し、犠牲者発生に至る波及経路を議論しておく必要がある。こうした実証的議論を通して、初めて極めて多数の犠牲者が出るに至った真の原因を捕捉することが出来るはずである。


観察された事後的な結果に対して、被告人の放火行為と建物管理側の過失の両方が要因として挙げられるなら、結果の全責任を一人の被告人に負わせるのは道理に合わない。

小生にはこんな風に考えられますがネエ…、ま、門外漢の感想ということで。法廷では上の問題点もキチンと審理されたのでしょうから。

こんな事は書きたくありませんが、

どうせ死んでいたんでしょうから、改めて死刑を宣告されても、モトモトってものでしょう。ネエ、あなた。

死刑を宣するとしても、その分、気分が楽でありんした・・・そんな心理が奥底にあって、その分、因果関係の究明が粗雑であったとしたら、それこそ

人の命をなんと考えているのか?

と、「義憤に堪えざる」ところでございます。

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