2024年1月18日木曜日

断想:「思想」や「主義」に「賞味期限」というのはないのかも

 前回の投稿の末尾にこんなことを書いている:

ちなみに、リカードが問題とした「分配問題」は19世紀という時代が進むにつれて一層先鋭化し、不平等化の進行はマルクスの『共産党宣言』(1848年)、『資本論』(1867年)を超えて更に進み、第一次世界大戦直前まで続いた。

不平等化や格差拡大の進行は、それが悪いことだと認識する人が現れたとしても、更にはそう認識する人が社会の多数を占めるようになったとしても、「政府」の政策によって問題が解決されるに至るという事態には、中々ならないものである。

先進資本主義社会で19世紀の不平等化の流れが逆転したのは、第一次世界大戦でヨーロッパの社会インフラが破壊されつくし、ヨーロッパに存在した帝国が解体され、王朝や貴族、財閥、富裕階層の大半が没落したからである。加えて、19世紀後半から浸透してきた福祉理念、社会主義、共産主義思想が、19世紀社会で信じられてきた価値観に根本的疑念をつきつけ、否定することが出来たからでもある。

要するに、確固とした社会を根本的に方向転換するには、支配階層の入れ替わりが不可欠であるし、それが正しいのだと考え直すだけの価値観の転換が要るのだ。

敗戦直後、昭和20年代の日本においても、同じような社会状況があったわけである。

こう考えると、例えば「かつての経済大国・日本」であるとか、「モノ作り大国・日本」、「日本の誇る匠の技」等々、事大主義的な「日本賛美」がマスコミやネットを賑わせている間は、日本社会の基本は変わらないと観るべきだ。

もっと絶望しなくてはならない。もっと喪失感に打ちひしがれる。そんな社会状況が到来しない限り、これまで通りの理念や価値観が、何だかんだと言われながらも、日本社会を支配し続けていくのは間違いない。大仰な企ては何もしないことこそ、最も楽な道であるからだ。

根本的な建設よりは基本を残しながらのリニューアルの方が難しい、と言われる。だから、命をかけて汗をかく人が現れない限り、日本の経済社会の基本は今のままである。

こう予想されるのだ、な。

前稿で引き合いに出したマルクス=エンゲルスの『共産党宣言』であるが、「そういえば幾つか具体的な政策提言もされていたナア」という記憶があって、再確認してみた。

以下はその政策リストである。

少し言葉遣いは旧いが、和訳したのは堺利彦と幸徳秋水だから歴史的文章でもある。たまたま青空文庫にあったから、これを引用することにした。

一、土地所有權の剥奪、および地代を國家の經費に充てること。

二、強度の累進所得税。

三、相續權の廢止。

四、すべての移出民および反逆者の財産の沒收。

五、國家の資本をもつて全然獨占的なる國立銀行をつくり、信用機關を國家の手に集中すること。

六、交通および運輸機關を國家の手に集中すること。

七、國有工場の増大、國有生産機關の増大、共同的設計による土地の開墾および改善。

八、すべての人に對して平等の勞働義務を課すること。産業軍隊を編成すること。(殊に農業に對して)。

九、農業と工業との經營を結合すること。都會と地方との區別を漸々に廢すること。

十、すべての兒童の公共無料教育。現今の形式における兒童の工場勞働の廢止。工業生産と教育との結合等。

この政策提言リストを改めて見直すと、とても176年前に公表された出版物にある内容とは思えない程、現代的であるのに吃驚する ― 逆に、科学技術が進歩した割には社会というものがいかに進歩しないものなのかを痛感する。 

上の提案1「土地所有権の否定」は共産主義の根幹をなすものだ。これをみて共産主義アレルギーを起こす人は多いだろう。しかし、現代中国も土地の私有権は否定されている。売買されているのは土地利用権である。それでもいわゆる《国家資本主義》は運営可能であることを中国が例示している。寧ろすべての工場設備(=資本設備)の私有を禁じると書かれていないのが驚きに値するはずだ。つまり『共産党宣言』は、それ程には急進的ではなく、提案7にあるように『国有工場の増大・・・』と書くにとどめている。

提案2の『強度の累進所得税』に反対する人が今の日本社会にどれ位いるだろうか?ほとんどの日本人は賛同するような気がする。

提案3の『相続権の廃止』を共産主義思想と観るかどうかは微妙なところだ。例えば、ハイエク(やフリードマン)は、相続税や累進所得税に反対したものだ。というのは、一国の文化の精髄はいわゆる社会の上澄み、つまりは「上流社会」によってこそ育まれるものである―ある意味、「有閑階級」が文化の担い手になるのは当たり前の帰結でもある。文化的な担い手が一つの社会階層を構成しているなら、そうした階層を守ることが国の文化を守ることにもなる。公益にかなう。まあ、概略としてこう発想したわけだ。反対に、相続税100パーセント論者もいる。例えば、野口悠紀雄氏は親から子へ資産を相続させることの弊害を一貫して指摘しており相続税率の引き上げが消費税率の引き上げより望ましいと述べている。今日的な論点である。

提案5から提案7は、簡単に言えば「産業国有化」で、戦後日本にもあった公的企業の活動範囲を拡大していくという路線にあたる。1980年代以降の「新自由主義」の高まりの中で、民営化と規制緩和が世界中で進められ、日本も国鉄や電電公社、専売公社を民営化した。日本人の食を支えてきた食管特別会計も役割を終え、今では備蓄米や麦の買い入れなど限られた業務を行うようになった。

実は、かなり以前の投稿で「公的企業」という存在について書いたことがある。原子力発電をベースロード電源にしたいならバラバラの民間企業でなく「公的企業」に再編成して公共の責任にする方が良いのではないか、と。同じ方向で考えるなら、発電は自由化するが送配電は設備を「公共財」と認識し、公的企業として統一運営するほうが社会は納得するのではないか。こうも思っているわけだ。この40年間の民営化の流れには、実は疑問を抱いているのだな ― 民営化一般ではない。念のため。

日本は、公的企業として経営管理する方が適切な分野を民間企業に任せ、民間の創意工夫が発露するように規制を緩和していくべき分野、例えば教育、医療・保険・介護、サービスで細かな規制を続け、その結果として硬直的な非効率性を解決できないでいる。そんな指摘はこれまで何度も投稿してきた。《日本病》の根本的原因でもあると思っている。

公的企業については他にも色々と議論の余地がいまあると思っているが、社会的に適正な価格設定と優良な就業機会提供、利益の確保は両立可能のはずだ。産業活動から国庫収入を得るのは財源多様化にもつながる。

次に、提案9の『農業と工業との経営を結合すること』というのは、見ようによっては、戦後日本が採って来た自作農中心主義から株式会社の農業参入自由化容認とも受け取れる話しだ。

提案10の『公共無料教育』は、日本が今まさに試行しつつある段階で、望ましいと言いつつも完全に実現できていない政策案だ。『工業生産と教育との結合』は職業教育、職業訓練、インターンシップの充実につながる政策である。

すべての提案が現代的意義をもつとまでは言わないが、(たとえばの話し)現代日本の政界の一野党である日本共産党が

原点に戻ろう

という意味合いで、この『共産党宣言』に盛られている政策リストを改めて提案してみても、日本人は決して「総バッシング」はしないはずだ。つまり、歴史的意味は決して失われていない。逆に言うと、『共産党宣言』が176年も昔に認識していた社会問題は未だに解決できていない、ということでもある。

現代日本人の多くは、大正から昭和に育った日本人とは異なり、(無学な?)マスメディアに煽られて何だか社会主義・中国が嫌いで仕方がないのかもしれないが、改めて「社会主義」の何たるかを勉強してみても損はないだろう。ひょっとして目が覚めるかもしれませんゼ。

そんな風にも思われて仕方ありませぬ。

【加筆修正】2024-1-19


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