前稿ではプラトンが『国家』の中で描写した民主主義の劣化・堕落について言及した。とはいっても、直ちにプラトンが反・民主主義者であったとはいえない。ただプラトンが生きた当時の民主主義の現実をみて、それを称賛する気持ちにはなれないという批判的心情が、著作からは伝わってくるだけのことである。
プラトンがまだ23歳であったB.C.404年、アテネはスパルタを盟主とする敵国に降伏し、27年間の長きにわたったペロポネソス戦争の敗戦国となった。
アテネでは早速に親スパルタの「三十人政権」が発足、「行き過ぎた民主制」は否定され、「貴族・富裕層を中心とする寡頭制」へと移行した。
ところが、一度は国政を主導する地位を得ていた民衆が「民主制の復活」を願ったことから、政情は常に不安定で、ついには政権内部で意見が対立、内部分裂し、粛清と暗殺が相続く事態となった。ついには、民主制支持派と寡頭制支持派との内戦に至ったが、調停が成立し、アテネは一応「民主制」へ戻ることになった。
しかし、内戦はアテネ市民を深く分断し、相互の猜疑心がながく尾を引くことになった。黄金時代が二度と戻ることはなかったのだ。
プラトンの師匠であるソクラテスの裁判と死刑判決は、そんな混迷した世相から発生した事件である。B.C. 399年、プラトン28歳の年であった。
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『国家』でも詳説されているように、いわゆる「民主制」には良い所も悪い所もある。自由と平等、寛大な多様性、変化をおそれず進歩を求める気質の形成は、民主主義の最も良い所だと述べられている。反面、自由が善であると規定され、それが極端にまで行き過ぎると、行動を規制する者は全て悪となり、無政府状態を招く。一部を引用すると
先生は生徒をおそれてご機嫌をとり、生徒は先生を軽蔑し……若者は年長者と対等に振る舞って、言葉においても行為においても年長者と張り合い、他方、年長者たちは若者に自分を合わせて、面白くない人間だとか、権威主義者だとか思われないために、若者たちを真似て、機知や冗談でいっぱいの人間になる。
こんな社会状況を招くことになる。最後には、
人間たちに飼われている動物たちまでもが、……きわめて自由にして、威厳ある態度で道を歩く慣わしが身について、路上ではこちらからわきにのいてやらないと、出会う人ごとにぶつかってくる…
何だか現代世界の《ペット様のお通りでございます》といった風な「町の風景」を連想させるものとなる。
この辺りは、単に哲学書というより、『戦後アテネ世相編』と言えるような側面がある。
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思うのだが、民主主義の長所が優勢な時代と短所が優勢な時代と、二つの時代は交互にサイクルを描くように交代するのではないかと思っている。
比較的、分配が平等な状態で、人口増加と経済成長が始まる時代は、成長の果実を広く薄く享受できる民主主義の方がうまく行く。自由を何より尊重する気風が広まる。
しかし、成長の持続は社会の不均一性を高める。
多様性の容認と社会の不均一化は、同じ現象の表と裏である。そもそも不均一であるにもかかわらず、全ての人間に等しい処遇を与えようとすれば、違いのマネジメントが必要になる。しかし「違いのマネジメント」は「区別のマネジメント」となり、やがて「差別のマネジメント」と識別困難になる。不均一を区別しながら、差別はせず多様化の名のもとにアウフヘーベンするなど、そもそも矛盾しているのだ。不可能とまではいわないが、そんなマネジメントは、自然なロジックとして、「統合されるべき社会」に最高の価値を与えることによって、肝心の「自由な個人」を否定する結果になりやすい。「リベラル左派」にとってのガラスの天井がここにある。
人民の独裁で混乱するよりエリートへの委任で安定する方がマシである。で、寡頭化する。不均一は差別ではなく正当化され固定化され、故に民主主義が終焉する。ちょうど古代ローマが共和制を廃して帝制へと移行したように。
共和制ローマも大いに発展したが、黄金時代は帝制移行後のいわゆる「五賢帝時代」に到来し、その頃ローマ帝国の領土は最大となった。民主制と経済社会の発展の間に相関はない(と思うのはずっと以前に投稿している)。上の二つのどちらか一方が、他方の原因でも結果でもない(と思っている)。国制の選択は、時代の要請に応えるための努力から結果として定まってくるものだと、理解するべきだろう。
どうも抽象的にいうと、こんな歴史観に共感を覚えるわけで、とにかく
(王制)、寡頭制、民主制、(独裁制)は自然に交代する。
「体制遷移の法則」まで洞察できれば良いのだが、今のところ、こんな風に思う今日この頃だ。
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