フランスの元大統領であるフランソワ・ミッテラン氏は歴史に残る左翼政治家で、小生の好みには合わなかったが、同氏が醸し出すフランス的薫りには、なぜだか魅かれざるを得なかった。
実際、本ブログ内を「ミッテラン」で検索すると複数の投稿がかかってくる。2023年11月9日付だから丁度1年前になるが、こんな事を書いている:
日本人はいまだに個人主義を消化しきっていない。そもそも個人主義という理念そのものがキリスト教を精神的土台とするヨーロッパで育ってきた価値観である。アジアの島国・日本に移植しようとしても、そうそう同じに育つはずはない。どうしてもそう思われるのだ、な。故に、民主主義もまたその精神の上で未消化のままであるのだ。それを裏付けるものではないか。そう考えることにしている。
人の役に立ちたい、仕える人 ― 顧客志向なら客を主とする姿勢になる ― に喜んでほしいという願望が、現代日本社会で尊重される価値観として支持され、評価され、社会で共有されているという正にその状況の下で、多くの<人権侵害>が隠れて進行してきているのである。多分、そういうメカニズムがある。
利他主義が堕落すれば常に上目をつかう「奴隷の態度」になってしまう。
フランスの故ミッテラン大統領に隠し子がいる事実が発覚したとき、女性記者からそれを指摘された元大統領は"Et alors?"(それが何か?)と答えたそうだ。
小生が円借款を担当している時分、仕事で比国を訪れると空港外には多数の低所得階層の人たちが集まっていて、いわゆる「施し」を求めていたのを「忘れられぬ風景」として記憶している。その様子は、行ったことはまだないが、当時のインドでも、インドネシアでも似たようなものであったろうと推測する。
そして、同じヨーロッパでも(粗雑にまとめてしまうと)カトリック国(そしてラテン・アメリカでも?)では、「持たざる人」は神からの「福音」、というか「施し」を期待するのだと、何かの本で読んだことがある。人間は神ほど完全ではない。故に、すべて人はおのが職分を果たせば足りる。そんな感性があるのだ、と。他方、プロテスタント国では、それこそ
天は自ら扶くる者を扶く
Heaven helps those who help themselves.
こんな気風の方が強いのだ、と。個人はすべて独立している、と。
とすれば、いずれにしても、大方どこでも
それが何か?
と応える人たちが、政治を行っているわけだ ― 政治に限った事でもないが。
日本では上に引用した投稿のテーマにもなっているが《利他主義》が強い。政治家にも「利他主義」を求める。政治家の利他とは公への奉仕のことだ。「公」とは戦後日本では「私たち国民」である理屈だ。なので、私たちは誰でも政治家の利他行為を望む。政治家の利己行為を憎む。どうやらそんな気風が戦後日本社会にはあるのかもしれない。故に、日本では政治家がミッテラン氏のように国民一般に
それが何か?
とは応えられない。常々思うのだが、政治家が低レベルの利他主義にはしって有権者に上目使いで迎合するようであれば、もうおしまいである。
だから、国民民主党の玉木代表には何の思い入れもないが、突然、ふって沸いたような不倫問題で苦境に立たされているのは、
この責められ方は日本独特なんじゃないかネエ・・・
と、そう感じます。好き嫌いは別として・・・
不倫どころか、隠し子があったとしても、
それが何か?
小生は、そんな社会に健全な強さと合理的社会観、更には自信を感じる。強い社会は強い個人の集合のことである。弱い個人が組織プレーをして対抗するとしても、持久力には限界があり、長期戦は無理なものだ。小生思うに、日本流の「利他主義」は、《もたれ合い》につながりやすく、実は《たすけ合い》になっていかない。そう観ているのだ。
そもそも論でいうと、モラルは本来「守るべきルール」というより「強い個人」を作るためにあるのではないだろうか?それが出来るようになるための修養、鍛錬だと思ってきたが、違うのかな?
で、今回の不倫騒動。小生はまったくの外野。野次馬にすぎないが、今回のTさん、弱い夫と強い妻の組み合わせであったのだナアと、感じる。ただ、世間はTさんとは他人なのだから、家族関係で何かを言う立場にはない。件の女性も、
かくすれば かくなるものと 知りながら ・・・
つまりは『身から出た錆び』ですヨ。不公平だろうと、不平等だろうと、世間はいろいろ言ってますが、身を切って何かしてくれるわけじゃあない。世間はこんなものです。後でも書くが、今の世相をみてごらんなセエ。こちらも「強き女性」であってほしいものだ。ただ、Tさんも女性の身の振り方くらいは心配してさし上げればとは、思いますがネエ・・・感想はこんなところです。で、後日談をもしメディアがきいたら
それが何か?
そう答えればイイと思います。ついでに
この世は凡夫ばかりなり。あなたも私も一緒でしょ?
これがありのままの真実というものだ。マ、TVドラマにもなりませんワナ・・・
***
(再び)マア(で恐縮です)、これは明らかに財務省(か警察)辺りの情報リークだと観ている。
連想してしまうのが、(不倫よりはよほどスケールが巨大だが)民主党政権発足前後の「陸山会事件」である。クロニクルに時系列を追ってみると
2007年7月 参院選で民主党大勝。第一次安倍内閣退陣。「ねじれ国会」へ。
この期間、民主党支持率の上昇が続く
2009年3月 小沢一郎議員の公設第一秘書が東京地検特捜部に逮捕される
2009年7月 麻生首相、衆議院を解散
2009年8月 民主党、衆院選で大勝。民主党政権発足。鳩山由紀夫首相。小沢一郎幹事長。
「政権交代」が流行語大賞をとる
2010年1月 東京地検、小沢一郎議員の資金管理団体「陸山会」、秘書、ゼネコン鹿島建設を一斉捜査。
2010年6月 小沢一郎議員、民主党幹事長を辞任。
2011年3月 東日本大震災
大体、こんな風に進んでいた。
さすがに《国策捜査》という言葉が云々されたものである ― というか、なぜ鳩山政権は幹事長が直接関係する捜査に対して指揮権を発動しなかったか、と。今でも分からない。少なくとも、政治に密接に関連する事案の捜査活動には、内閣、国会の承認が要るという理屈だ。司法が認めるとしても、国会の判断が上位になければならないと思うが、違うかな?
それはともかく・・・、今回は、《不倫報道》である。もしも玉木氏が男女関係において清廉潔白であったなら、政治資金収支報告書の何らかの不記載があったと報道されていたかもしれず、不記載もなければ地元有権者に何らかの物品が配布されていたと報道されていた可能性がある。これもなければ、宗教団体との親密な関係、過去に遡った発言等々、何らかの報道がされていたのではないかと推測する。
何故なら、財政膨張を危惧する財務省には動機があり、政権にある少数与党にもあるからだ。他にも動機をもつ者がいるが、それはここで記すまでもあるまい。
単なる「疑惑」で十分なのだ、報道するのは。真実かどうかなど現代日本の世間は問題にはしない。
何ごとによらず「なぜいまこのタイミングで?」と不思議に思うなら、「得した者を探せ」という格言は常に当てはまる。
マ(何度目だろう?)、ただ全ては「状況証拠」に過ぎない・・・
***
今でも残念に思うのだが、当時の民主党政権の公約の中で
- 中学卒業まで子ども手当2万6千円を毎月支給
- 月7万円の最低保障年金
- 後期高齢者医療制度の廃止
この三つはまだ記憶に、ボンヤリではあるが、残っている。
しかしながら、鳩山由紀夫首相が消費税率引き上げと一体化して進める決断を避けたために、結局、撤回されるか、減額されるかした。そして、今また、同じような政策課題が検討課題になりつつある。
どうやらこの日本国では、昨日まで野党であった一政党がエッジのたった政策を主張すると、何かの捜査が始まるか、スキャンダルが暴露され、《にわか出頭人》は排除され、後になってから(戦後日本では)自民党政権か、もしくはメジャーだと認められた勢力が、自民党に代わって実行する。何だかこんな経験則が日本にはあるのかもしれない。
全体の進行が極めて保守的なのである。特に登場人物は滅多に入れ替わらない。「初もの」は排除される。非常に保守的な傾向が日本社会にはある。島国であるからなのか。
それでもって、行ける所まで行く、と。
***
ネガティブ・キャンペーンは、政党間競争で勝つには、最もコスパが良い戦術である。
しかし、政治家の不倫が許せないと放送しながら、若者は闇バイトに応募して強盗殺人を行い、高齢ドライバーは生活に不便だと車を運転して、案の定、事故を起こす。
全部をまとめると、
何という、マア、素晴らしい世相でございましょう・・・
死刑の継続を望みながら、体罰禁止に賛同する世の中も似たようなものでございます。
これは義務 あれはルールと 自らを
しばるが人の 生きる道なり
ドイツの哲学者・カントを手本とする普遍的モラルを追い求めていた戦前のエリート達が始めたのが太平洋戦争であります。ガリ勉の一知半解とはこの事でござんしょう。
カントの道徳哲学は(当然ながら)ヨーロッパ的な個人主義を前提している。個人主義の理解が未熟な日本で西洋流の道徳を追求すると、相互監視に熱心になるばかりで、生きづらい社会をもたらすだけだ、というのが小生の社会観だ。
中国が、G7を代表とするような欧米民主主義国、いわゆる「西側陣営」で是とされる価値観や社会哲学を拒否しているのは、この辺りを直観的に理解しているからだろうと推察している。この点だけは、さすがに賢明なもので、肝が据わっている ― 明治以来の慣れもあって、日本人にはとても無理な行き方であるが。
世に名高き《衆愚政治》がいま正に眼前にあり。昔の人はこんな世相を《末法》と言ったもので御座いましょう。
やはり今は
Vox Populi, Vox Diaboli
人々の声は悪魔の声
になっている、そんな時代なので御座いましょう。
【加筆修正:2024-11-13、11-14】
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