2025年2月23日日曜日

断想: 自らが、自らに対して悪戦苦闘を強いるのは、パワハラではない

今日は月参りで近くの寺から住職がやってきて読経をして帰る。帰りしなには、拙宅が属する浄土系宗派の発行している新聞を置いて帰る。

その中の記事にこんな下りがあった:

授業で学んで以来、心に刻んでいる言葉がある。それは「一丈の堀を飛び越えようと思う人は、一丈五尺の堀を飛び越えようと思って励まなければならない」という法然上人の教えだ。

努力に努力を重ねて、自分の力で、未来を切り開いていくしかない。だから、私は悪戦苦闘という言葉が好きです。

NHKで放映されているアニメ『忍たま乱太郎』の原作・『落第忍者乱太郎』の作者である尼子騒兵衛の寄稿である。

何だかゲーテの名句

知恵は静寂の中で、力は激流の中で

を連想させる。


一丈の堀を超えるのを目的にしている選手に

一丈五尺の堀を超える練習をしろ

と。師の立場を利用して、弟子にこんな風な命令をすれば、弟子からパワハラだと訴えられて、指導者生命を失う師匠が増えているのが、現代日本の世相である。

とはいうものの、この寄稿の主旨は現代日本の世相を嘆くことではない。

先日は、法然上人が暗い夜に灯火がなくても、眼から光を放って読書をされるエピソードをとり上げました。それを覗き見していたお弟子さんに気づかれた法然上人は、『よく勉強なさい』というようなことをおっしゃるのです。覗いていたお弟子さんを叱るのではなく、『勉強しなさい』と優しく言うなんて先生っぽいですよね。土井半助のモデルにさせていただいてよかったなと思いました。

こんな下りも後に続いているので、《良い師匠》というもののイメージを表現したかったのだろうと推察できる。


一丈を超えようとすれば、一丈五尺の練習をする必要がある。それは師には分かっている。しかし、指導される弟子が自らそのことを理解しなければ、強制労働と同じだ。強いられた悪戦苦闘は苦しむ弟子にとってパワハラである。

しかし、自分の意志で自分に課するのであれば、同じ猛練習でもパワハラではない。

なぜこの練習が必要かという理解の代わりに、ただただ師を信じるという《信》であってもよい。とにかく

自分が自分にパワハラをすることは絶対にない

どんな荒行も、ヤル気になればやる。それが向上しようと決意した人間というものだ。名師匠というのは、むしろ弟子が無茶をするのを止めて、怪我無く才能を開花させることを唯一の目標にする人のことを言うのだろう。

自分の不足する点を自覚し、向上心を感じ、自ら設定した理想を目指して、自らの意志で行う修行は、どれだけ厳しいものであっても、自分の意志のとおりに行為しているので、完全な自由を享受している。故に、ハラスメントの被害者ではありえない。

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