2025年12月30日火曜日

断想: 混乱の時代。科学、哲学、信仰、何でもありの時代になりました。

最近は《混乱の時代》であるせいか、日本語のネット世界でも「理念」、「価値」、「哲学」、「宗教」、更には「数学」とか「論理学」まで、異種の文化概念が言葉のゴタ混ぜになって、一種異様な言論空間が形成されつつある。

もう言論界なんて聴く気にも、読む気にもなれないネエ

そんな風な年の瀬であります。

要するに、何が正しいのか分からなくなった。そんな世相である。分からないから何もしない。見通しもなく何かをする。失敗すると責任探しをする。不安になって誰かを先制攻撃する。ホッブズ的な「万人の万人に対する闘争」たる世界。不安の根源はここにある。


そんな混乱の時代は、既存の世界が変質していくのを目の当たりにするので、誰もが不安に感じるが、実は混乱の時代こそ進化の時代でもあることは、狭い日本史の空間に限定しても例えば「平安時代末期から鎌倉幕府にかけての時代」があるし、「戦国時代から豊臣政権成立」までの時代もある。新しくは「桜田門外の変から西南戦争の終息」までの約20年間も挙げてよいが、こちらはごく短期間で日本社会は新時代への歩みを始めることができた。ひとえに《外圧》のお陰といってよい。


昨秋に寺で相伝を受け、それから朝の勤行と日曜の写経が習慣となり、書き写した「一枚起請文」も52週分になった。来年からは月単位で『仏説阿弥陀経』の写経も始めよう。


その『阿弥陀経』は、要するに「一心不乱に念仏せよ」、趣旨はこれに尽きると言えるような短い経典である。ずばりWiikisourceから引用すると

舍利弗 不可以少善根 福德因緣 得生彼國

舍利弗 若有善男子善女人 聞說阿彌陀佛 

執持名號 若一日 若二日 若三日 若四日 若五日 若六日 若七日 一心不亂 

其人臨命終時 阿彌陀佛 與諸聖衆 現在其前 是人終時 心不顛倒 

即得往生 阿彌陀佛 極樂國土

この部分が該当する。つまり、ここの本旨は

人は少々の善いことをしたからといって、だから極楽浄土へ往くことが可能になるわけではない。しかし、阿弥陀如来の名を七日間、一心不乱に念仏すれば、臨終の際に阿弥陀仏が現前して、平静な心のままで寿命を終えて、魂は極楽浄土へと往ける。

善行などの自力ではなく、仏の他力によって心は救われる、それに必要なのは念仏だけである。こういう主旨である。

これを日本の仏教界で文字通り「徹底」したのが法然であった。「専修念仏」というのは実にラディカルである。


この「一心不乱に」という個所だが、小生にはその狙いがずっと分からなかった。というのは、法然の直弟子であり、浄土真宗の宗祖でもある親鸞の思想に沿えば

念仏によって人は救われるのではない。人を救おうとする阿弥陀仏の願いが先にあり、阿弥陀仏の意志によって人は救われるのである。阿弥陀仏の願いによって人は浄土に往けるのであるから、念仏を繰り返し唱える必要はない。

こうなるはずだからだ。親鸞は法然に劣らず実にラディカルである。

実際、法然の『一紙小消息』を小生は毎月曜日には読むことにしているのだが、その始めの所に

行すくなしとても疑うべからず、一念十念に足りぬべし。

こう書かれている。やるべきことを余りして来なかったからと言って、資格がないと思う必要はない、という意味だ。十回、いや一回だけの念仏で足りる。法然はこう書いている。しかし、これは阿弥陀経が求める「一心不乱」とは方向が違っている。ところが読み進んでいくと

行は一念十念なおむなしからずと信じて、無間むけんに修すべし。一念なお生まる、いわんや多念をや。

念仏は絶えず唱えたほうが善いのだと書いている。

大学のゼミで、上の二つをゼミ生に話せば、

どっちが先生のホンネなんですか?

と確認してくるに違いない。法然は、一念で十分と口では言いつつも、心の中は「多念論者」であったのか?これでは表裏があるではないか?批判的な向きは、この点のほころびを必ず突いてくるであろう。


最近になって、こう考えることにした。

念仏は(理屈では)1回でも十分だ。しかし、真面目に一日千遍の念仏を何年も続けられる人は、「信」という不可欠の心を既に有しているから出来るのだ。

考えても御覧なせえ。

本当に阿弥陀仏の実在を信じているわけではなく、心のどこかで疑いをもっている状態で、毎日千回の「南無阿弥陀仏」を口で唱える気持ちになれるだろうか?それも自分が死ぬまでずっと欠かさず、一日千遍の念仏を続けることができるだろうか?心の中は実は科学主義で、阿弥陀仏や極楽浄土の実在を否定している人物は、一日千遍もの念仏は、バカバカしくてとても実行する気にならないはずである。まして、それを10年も20年も続けるとか、法然がしたような毎日三万遍の念仏を自らに課するとか、そんな「行」は、とてもじゃないが、引き受ける気持ちにはならないに違いない。

「信」をもたず、心の中に疑いをもっている人は、「この道を行くのは自分には合っていない」と、こう判断することで自ら納得するはずだ。浄土系の他力信仰は、禅宗など自力信仰と同じ程度に難しい道である。決して「易行」ではない。

物理、化学、生物学など自然科学でデータによって立証されていることのみが真理であると考える人にとって、信仰は素粒子や元素、更には化学反応など物の世界を理解することからは離れるので、とても難しいのである。


親鸞は「信」こそ始まりであって、最も重要であるから、「信」があれば念仏は本来は重要でないと考えたが、逆のロジックをたどると、「信」があれば阿弥陀仏と極楽浄土の実在を信じ、あとは自然に念仏が習慣になるはずである。結果として自然に多念になる。

「多念」がバカバカしいと感じたり、時間の無駄であるとしか思えないのは、その人は本当の意味で阿弥陀仏の実在や、念仏の意義を認めていない。つまり「信」の心がない。まだ始まっていない。そういうロジックになるのではないか。

もちろん目指すべき境地である菩提心に至るには阿弥陀仏の極楽世界のみに道が限定されているわけではない。柳宗悦は著書『南無阿弥陀仏』で

人はみな他力他力と喜ぶが、己は阿弥陀様の自力が有難い。

妙好人・庄松の言行録を引用することで第16章『自力と他力』を結んでいる。自力と他力とをことさらに区分して対立構造を持ち込むことは非生産的な煩悩に過ぎない。


最近はこんな風に考えることにしている。

う~~ん、本年最後の投稿はこんな話になったか・・・たしかに最近になって唯物論から親・唯識論へと走った小生の「転向」を象徴している。

2025年12月26日金曜日

断想: 懐かしき小室直樹の小室節をみるとは

小室直樹といえば亡くなってもう10年以上がたつが、生前は傍若無人にして時に天才的見解を語る評論家として名前だけは知っていた。ただ、仕事があまりに忙しく、氏の著書はほとんど読まないという状況が続いた。

氏の著書を初めて読んでみたのは、亡くなったすぐ後の頃だったかと思うが、何を読んだのだったかな?・・・忘れてしまった。忘れたが、この時代に読むにはもう遅すぎたかな、とそんな感覚があったことだけ覚えている。リアルタイムで新著が出るたびに読んでいれば、その鋭さに感服していたのかもしれない。

このように縁は薄かった小室氏であるが、最近、小室氏が書いた次のような短文が引用されているのを見かけた(文中、小生の裁量で意味のとおりにくい個所に修正を入れてあること、ご容赦を):

政治は元々極めて野獣的なものであるから、「政治倫理」と言う事自体、既に大きな矛盾を内包している。此処の処が、どうしても日本人には分からない。

 日本人は、政治の倫理の中へ、無制限に一般普通人の倫理を流入せしめるからこそ、却って、其れ自身、独自的でなければならない政治倫理は、自分自身を確立する事が出来ず、政治はアノミー化する。政治の倫理は、庶民の素朴な正義感と正面衝突する。

 政治家の任務は、「国民を幸せにし国家を安全にする」事にあるのだから、其の目的を実現する為には、普通の人間に許され(ない?)場合が屡々(しばしば)ある。

 政治の世界は、一般人の生活世界とは違うのである。そう言う政治世界で有能な政治家である為には、政治家たるもの、権力欲に滾(たぎ)っている人間でないと駄目である。

 此の事を、国民ははっきりと理解すべきである。

 権力欲のない政治家は、国を滅ぼすのである。だから「出たい人より出したい人を」(などと?)言うスローガンは、ナンセンスも甚だしい。俺が俺がと、権力欲の権化の様な人物でなければ、国を富まし隆盛に導く事は出来ないのである。

 権力欲が全然ない近衛文麿は全然ダメで、権力欲が余りない片山哲や鈴木善幸が殆どダメだった事を思い出すといい。

 リヴァイアサンの様な怪獣でないと誠実(まとも)な政治は出来ない。

 何時(いつ)の世でもそうだが、特にデモクラシーズ(デモクラシー諸国)が存続し得る条件は、其の上、立憲の常道が守られ、ジャーナリズムが正常に機能している事である。

URL: https://note.com/howan2878/n/ne8843cc1d385 

いやあ、小室氏ですか、懐かしいなあと思った。それに書かれていることは、まさに小室節にして、正論そのもの、最近流行している単語を使えば「ド正論」である。

これは正論じゃな

それが最初の感想。次に、感じたのは
それにしても「ド正論」だと認識しながら、それを行為につなげていかない現代日本社会の傾向は、とどのつまり、いったい何なンでしょうね?
と、改めて最近の非論理的なバカバカしさをも同時に感じたわけである。


昭和の妖怪といえば安部元首相の父上である岸信介と相場は決まっているが、昭和の怪物といえば田中角栄というのが多数意見であるような気がする。

その田中角栄という政治家は、令和初期の現代日本社会なら、強引な金権政治手法とブルドーザー的な実行力が大衆から忌避されて、マスメディアの標的となり、数多くのスキャンダルが早々に暴露されてすぐさま失脚していたに違いない。しかし、田中角栄が登場した時代は、上の小室的社会哲学が一定の支持を得ており、
政治家とは強制力をもつ権力を堂々とふるう人物である。
この当たり前のことが社会でマア、マア(?)認められていたという時代背景がある。


それにしても、《リヴァイアサン》、この言葉が出ました。

小室氏と同年代の社会哲学者が愛用した用語である。人間社会は『万人の万人に対する闘争』であると喝破した英人・哲学者トーマス・ホッブズは「国家」とは人類を見下ろす海の怪獣《リヴァイアサン》であるとイメージ化したのであった。小室氏の世代は、この枠組みが大好きで、伝統的立場に立てば「王権神授説」、近代的立場に立てば「社会主義礼賛」という選択に至ると言っても可である。

何と令和初期の現代日本人の感性と乖離しているであろうか?


しかしながら、現代世界は複数のリヴァイアサンの間で展開される覇権闘争の観を呈していて、アメリカ政府、中国政府、それから欧州も(?)、ロシアも(?)、第三世界も(?)、来るべき闘争の時代に覚悟を固めつつあるように、小生は感じる。

いずれにしても、18世紀から19世紀にかけて成立したヨーロッパ起源の《市民社会》を理想とするイデオロギーは、ヨーロッパ文化の地盤沈下とともに色褪せて行くのではないか?小生はそんな方向を予想したりしている。フランス起源の《G7サミット》。20年後にも存続しているイメージがわいてこないのだ。

それが善いことか、悪いことか、には小生は関心をもたない。ただ、世界がどう変質し、どの方向に向かいつつあるのかを考えたいだけである。それに世界の潮流を変えることなど、どんな政治家や独裁者にも出来ないことである。そんな力も権限ももっていない。政治家(とは限らないが)というのは、変化する世界に対応していくことだけである。対応が適切なら有能、不適切なら無能。ある程度、世界の行く末を先取りしてフレームを提示できる政治家が登場すれば、歴史的な大政治家ということになる。

引用した記事が令和7年10月6日という時点で世間に投稿されていること自体、平成から令和にかけて日本に浸透した《何だか分からない戦後日本的なイデオロギー》を服を着かえるように脱ぎ捨てる兆しなのか?そんな予感も感じたりするわけだ。

これは善いことだ。

日本社会も変わりつつある。つくづくそう思うのだ、ナ。

2025年12月25日木曜日

断想: 「熊」で終わった「涙コボルる」の世相

今日になって昨日の投稿を読み返してみると、結局のところ最後の方の

高校無償化も給食無償化もいいが、

カネをあげるより、カネを稼ぐ力をつけてやるほうが遥かに重要だ。

最近の日本社会や日本政府は、子供に小遣いをあげるばかりで、忙しいからといって、なにも教えてあげない親のようなものである。

言いたいことはこの一点に尽きるか、と。

今日届いたPaul Krugmanのメールマガジンにこんな下りがあった:

Today is Christmas Eve. We’ll be celebrating in New York with family and friends. I advocated for a traditional NY Jewish Christmas — i.e., Chinese food — but we’ve settled on Korean for Christmas Eve and family dinner at the apartment on the day itself.

今日はクリスマスイブ。ニューヨークで家族や友人とお祝いします。ニューヨークの伝統的なユダヤ教のクリスマス、つまり中華料理を提案していましたが、クリスマスイブは韓国料理、当日はアパートで家族と夕食をとることにしました。

(日本の専門家の一部には同氏に否定的な向きもあるようだが)何だか現代アメリカ社会で学問的な生活を送っている人の感性が伝わってくるようだ。


どこかのネットで『なぜ日本人はかくも幼稚になったのか』というテーマで書かれた記事を読んだことがあって、元記事はどこだったか探していた。

見つけて改めて読み返してみたが、

  • 幼稚とは、肝心なことに目をつぶっているということ
  • 幼稚とは、自己を顧みない、という人として基本的な心の動きが欠けているということ

(残念なことに故人になったが)福田和也氏の上のような指摘が軸になって近年の学校と教師・生徒の状況を批評する内容になっていた。

URL:https://www.kk-bestsellers.com/articles/-/4184686/2/

肝心なことに目をつぶっているということ。それが幼稚ということか?

確かにその通りだネエ。小生は「臆病」と認識していたが、これ自体が幼稚化現象そのものである、と。確かに幼児は(ごく少ない例外を除き)一般に怖がりで臆病だ。なぜ臆病かと言えば、認識能力と理解力が十分に育っていないからだ。「純粋」と形容するのは、その人が幼稚であるからで、実は「未熟」であると評するのが正しい。

国内メディアが幼稚化し、それは視聴者である日本の大衆の幼稚化に忖度、というより媚びる放送姿勢を意味し、そんなマスコミが作り出す「世論」に政治家が媚びる。政治家も幼稚化しているんだネエ・・・と。そして問題の核心は触れられないままに時間が過ぎる・・・


20年か30年かが過ぎたあと、日本国がどうなっているか予想もつかないが、将来のその時の人は令和初期という今の時代をどう評価し、書くのだろうか?

1930年代に異常化した日本社会と比べるかもしれないし、いわゆる「大正デモクラシー」、理想は高かったものの明治の遺風に反発するだけの、何だか浮わっついた口先・民主主義の時代と比べているかもしれない。

どちらにしても後世に誇れるような世相ではない。

望みは失せて 涙コボルる

そんな時代であります。

せめて『方丈記』を書き残した鴨長明のような文人が現れてほしいものだ。世の中がどれほど堕落しても、幼稚化しても、優れた才能が宿る人物は現れるものだ。たとえ社会や政府が愚かな戦争に(とは限らず他にも下らない政治目標は多々あるが)邁進する時代でも、世相にあらがい、大衆に媚びることなく、自分を表現し文化的遺産を残す人はいるものだ。実際、日本の暗黒時代にあっても文化的創造に努力した人はいたし、それらは何十年のあとにも今日の日本に残っているのである。

 

2025年12月24日水曜日

断想: 日本の長期停滞。主因が何かなど、分かり切った話ではないか?

少年期に教えてもらった将棋や碁を今度はAIアプリで楽しむことを知ったのはごく最近だ。そのことは本ブログにも投稿したが、愛用するアプリも段々と絞られてきて、いまは二つを頻繁に代わるがわる立ち上げてはパチ、パチと打っている。

一つはKaTrain、もう一つはBadukPopなのだが前者をインストールすると"Baduk AI Softwares"というフォルダーが生成されるので、両方とも韓国系開発者が創ったか、主導したのだろうと思っている。"Baduk"は韓国でいう「碁」である。

前者"KaTrain"のエンジンに使われているKataGoはGoのために開発された優秀なAIで、開発者であるDavid J. Wuはどうやら中国系アメリカ人(ではないか)と思われる。Wikipediaには

DeepMindが発表したAlphaGo ZeroとAlphaZeroの論文に基づいてDavid J. WuがKataGoを作成した。

と説明されている。

いずれにしてもKatagoは”MIT License”によるフリーソフトだ。KaTrainでも使われているし、(ひょっとすると)BadukPopでも使われているのかもしれない。こうしたソフトウェア開発に今度は韓国系の流れが段々と広がってきているわけだ。

注目されるのは、KaTrainは(メインは英語なのだろうが)日本語を含む複数言語で使える点だ。BadukPopは英語、韓国語、簡体字中国語、繁体字中国語の四つに対応している。だから小生は英語で使うことになる。

一つ言えるのは、複数言語で提供するのが理想だが、何かハードウェアなりソフトウェアなりを開発する際には、最低限でも英語を使うことを大前提とする大切さだ。

最近、日本棋院が「囲碁シル」、「碁であそぼ」といった入門(からかなりのレベルまで)向けのAI碁ソフトを提供しているのだが、英語すら残念なことに使えない ― そういえばインストールの時にも言語の選択はなかった。


日本人が何かを説明したり、教えてもらったりするときに、英語を日本語と同じ程度にコミュニケーション・ツールとして使うことは、まず意識しない。何かニュースを日本のメディアで日本語で伝えられた時、海外ではどう伝えているか、まずは英語で聞いてみるということは、ほとんどの人はしない。とにかく日本語だけで済ます。そんな習慣なのだ。英語でそうなのだから、まして中国語やスペイン語、ヒンズー語、アラビア語といったグローバル言語に向けた発信などは、日本人の意識にはないといってよい。

思うのだが、なにも外国語で難しい文章を読んで理解できるようになれとか、すばらしい演説を英語で出来るようになれとか、そんなハイレベルなことは個々人にまかせるとして、日本語以外の言葉で当たり前に意思疎通をしたり、メモを書いたり読んだりするくらいの言語能力くらいは、政府の責任で義務教育のうちから身につけさせてあげるべきだろう。

それがどのくらい役に立つものか難しい教育理論はいらない。自明だろうと思うのだ、ナ。

どの外国語を身に着けるかは、個々の子供の選択にまかしてもいいだろう。全員が英語を身に着ける必要はない。中国語ができる子もいれば、スペイン語が得意になる子がいてもいいではないか?それに何も小学校のうちに日本語と同じ程度に使えるようになれと考える必要はない ― 日本語だって下手な人間は多い。


失われた40年とか、日本人の働き方の低生産性とか、否定的な側面ばかりが指摘されるのが、このところの流行になっているが、これらの主因は何かといえば人様々、専門家は自分の言いたいことを言っているだけである。

しかし、一つだけ確実に言えるのは、高齢者になっても働ける間は働こうという一種の「社会運動」だが、現役勤労者が今の2倍も稼げているなら、おそらく起きなかったろうということだ。もし収入が今の2倍もあれば、若者は社会保険料の負担に苦しむこともなく、社会保障の財政危機に陥ることもなく、市販薬と成分・効果が似ている「OTC類似薬」(例:ロキソニンS、アレグラなど)を医療保険適用外にしろという議論もなかっただろう・・・そんな単純なロジックがある。

そして、現役勤労者の収入がなぜ増えなかったかと言えば、1990年代から2000年代にかけての急速な円高、生産拠点の海外流出、ニュービジネスに対する行き過ぎた規制等々、政府の愚行や不運な点もあったが、基本的には若い人の知識、スキル、言語能力が世界の中では今一つであったことが長期停滞を招いた最大の主因だ、と。そう思っている。

生活水準の低下には働く人々の実力不足という根底的な原因がある。世界に通用する実力があるのに、いつまでも実力相応の収入を得られないという理屈はない。

日本は社会主義ではなく資本主義の国であるから、収入とは一人一人のミクロの収入を指すのであって、マクロの社会的平均を議論しても意味はほとんどない。故に、収入の停滞は日本人一人一人の実力を反映した結果である。


だって考えてごらんなさい。野球やサッカーでは日本出身の超一流選手が続々と登場しているのだ。スポーツで能力を発揮できるのは、言語が必須ではないし、基礎学力が不可欠というわけでもない。だから実力が発揮できるのだ。しかし、商品開発やビジネスアイデアの発信にはグローバル言語を使わねばならない。ほとんどの日本人はこれがほとんど出来ない。

教育さえしっかりとしていれば、あらゆる分野で日本人は潜在的能力を世界で発揮できていたはずである。

こう思うと、いまの若い人たちは何と哀れな時代に生まれたことだろうと、実に暗澹たる気持ちになる。

何かといえば「グローバル化」という言葉を使いつつ、何をすればいいのかには頭を使わなかった国。それが日本である。

高校無償化も給食無償化もいいが、

カネをあげるより、カネを稼ぐ力をつけてやるほうが遥かに重要だ。

最近の日本社会や日本政府は、子供に小遣いをあげるばかりで、忙しいからといって、なにも教えてあげない親のようなものである。 

国も社会も、子を育てるという行為がどんなことなのか、分からなくなってしまったのだろう。


2025年12月22日月曜日

断想: 頭脳を備えた木鶏こそ最高のトップである

福沢諭吉の『学問のすすめ』だったか、『福翁自伝』の方であったか、しかと覚えていないのだが、福翁が若かった幕末という時代、尊王攘夷に燃える志士たちは長い日本刀を腰に差して、何かといえば守旧派を惨殺しようと血眼で斬るべきターゲットを探していた、マ、福翁の語る「思い出の世相談」というところだ。それで、より過激なテロリストはより長い日本刀を差しているというので、福沢は刀の長さを測る測定単位を《バカメートル》にすればよいと提唱した。そういう話である。


いまの世相に当てはめるなら「親中派」と「反中派」に二分類して、対中外交を冷静に進めようとする政治家を「媚中派」と罵る手合いを呼ぶのに、《狂日派》という言葉は意外と的を射て福翁の「バカメートル」に通じるところがある。

狂日派でも、妄日派でも、凡日派、煩日派でも、同じニュアンスになる。

サッカーのW杯でも、野球のWBCでも、《狂〇〇派》が人間集団全体をリードする舞台は多い。

しかし、外交や国防、財政など社会の運営においてコアな領域では、エンターテインメントとは無縁であるから《狂〇〇派》は求められていない。というか、出方を先読みされて、相手に利用されるだけである。


碁でも将棋でも、初心者のうちは、とにかく石を殺したがる、駒をとりたがるものである。

亡くなった父は

いまだ木鶏たりえず

が好きであったが、木鶏は木鶏でも頭脳を備えた木鶏は、最高のトップである。

先日も書いたが

対中外交の失敗は対米外交の失敗につながる敗北の方程式である。

対中外交には失敗して反中姿勢をとったが、対米外交で失敗をリカバーできて米政府は親日姿勢を選んだ。だから日本は救われたという、そんな前例は知らないし、将来にもそういう可能性は期待しがたいと思う。米政府は(せいぜいが)仲裁的立場をとる。この程度は期待してもよい(かなあ?)と観ている。

しかし、戦前期の満州事変を国際連盟が調査した報告書である『リットン報告書』にも(コアの部分で日本の利害が肯定されていたにもかかわらず)猛反発した日本人のことだ。日本を支持せず、日中の仲裁を始めようとする米政府をみて、日本人は「同盟国にあまりに冷淡である」」と恨みを抱き、対米不信の気持ちを高めるに違いなく、その反応はアメリカにも伝わるであろう。アメリカにはアメリカの立場があり、利益があるという側面に目を向けない・・・

何だか目に見えるようでありますナア・・・

(日本はずっと非民主主義的であったので)サンプルサイズは一例のみだが、日本史上空前の「大崩壊」の記憶がいまだ褪せないうちに、またぞろ同じ失敗を繰り返すなら、文字通り『バカは死ななきゃ治らない』と第二次世界大戦の旧・戦勝国の国々から論評されることでありましょう。

【加筆修正:2025-12-23】




2025年12月21日日曜日

前々稿の(ちょっとした)修正

 前々稿でこんな下りを書いた:

… … 与えられた漢字を書道作品として書くのは、AIには難しいかもしれない。

逆なら出来るはずだ。つまり、書道作品を画像として読んだうえで、それがどの漢字に該当するのかを判別する。それなら現在でも出来る分類(Classification)だから出来る(はずだ)。では、漢字が行書体、更には草書体で書かれているときはどうか?実は、そんなとき、漢字は最も芸術に近くなる。もっと極端な場合として、数行の文章が連綿体で書かれているとき、AIは個別の文字に正しく切り分けて、更に画像認識をして文字を同定させていけるだろうか?

極めて否定的なことを予想で書いているのだが、あとで調べてみると、連綿体で書かれた古文書を解析して現代文字に変換してくれるソフトは既に提供されていた。

たとえば「古文書カメラ」だ。 <古文書 読み取り ソフト>でGoogle検索してみると、この他にも複数のソフトがかかってくるから、大したものだ。

不明を恥じる。

ただ、

前稿の本題は、文字を与えて画像をつくれるかという問題で、上のような画像をテキストにするOCR技術とは逆にあたる。この点では、ヤッパリというべきか、毛筆フォントを使うのでなければ、良い方法はないようだ。

毛筆フォントの書体と手元のフォントの種類に作品は制約される。自由な創作は無理である。

AIは進化したが、アートとしての書道作品を創れる領域には、いまだ達していないようだ。

それにしても、絵画より書道のほうが難しいとはネエ・・・面白い。

2025年12月20日土曜日

ホンの一言:日本では産業空洞化が進み、中国では国家理念の空洞化が進む

円安進行と物価高が止まるのか? 止まらないのか?

昨日、日銀が政策金利を引き上げたが、引き上げを公表しているその時にも、円安は進んでいた。理屈に沿えば、日本が金利を上げて、アメリカが金利を下げれば、マネーはアメリカから日本に向かうので円高になるはずだ。しかし、現実は逆であった。

それは今回の政策金利引き上げは、市場金利の上昇トレンドを後追いするものでしかないからだ。長期国債の暴落は長期金利高、そんな中で短期金利を低く維持するのは短期で調達して長期で回す動機を提供するので非常に不健全だ。

長期金利高は短期金利の先高観を内包しているので、日銀も短期金利を上げざるを得なかった。


では、なぜ長期金利が上がっているかと言えば、日本国内の設備投資や住宅投資が旺盛になっているからではない。大胆な財政拡張(=大盤振る舞い?)を不安視する人が多いからだ。

これだけ円安になっているにも関わらず、海外に流出した生産拠点が日本に回帰する動きは鈍い。トランプ政権の関税引き上げの狙いとも重なるが、一たび流出した製造業の拠点が戻ってくるというのは、余程のことがない限りないことだ。海外で生産を続けてドル・ベースで儲けるほうが安心できるのである。だから

日本の産業空洞化は止まらない

高市財政はその穴埋めを国家が担おうというものだ。故にカネがいる。しかし高市政権は財源拡大の基本戦略を示していない。国債(=借金)に頼っている。だから国債が暴落して長期金利が上がるのである。事後的には、財政赤字主導のクラウディング・アウトになっている。

日本は今でも経常収支が黒字である貯蓄超過国であるから、本来なら豊富な資金を消費に充てられるように、新たなサービス市場の成長を担保する開業規制を緩和するべきなのであるが、

新しい試みはしないでほしい。今まで通りで十分。

こんな心理が蔓延している   ―   ちなみに小生のカミさんも最近は同じことをいう。有権者から嫌われることを何よりも怖れる政治家とマスメディアが共同歩調をとっている。まさに大衆が政治路線を決める民主主義国家の弱点が顕在化している。それが現代日本社会のいまなのだと観ている。

日清・日露戦争に至るまでの明治初めから中盤まで、日本は発展に成功したが、おそらく民主主義を採っていれば、国内の混乱を解決できずもっと迷走していたはずだ。多くの問題があったにもかかわらず明治・日本が「成功」したのは、天皇が統治権をもつ君主制と有能な専制政治家の功績である。この点では小生は非民主的だと自覚している。

そんな

海外から不安視される高市財政であるが、対中外交でも(軽い?)失策をした。

ちょっとした「言い過ぎ」であったので、カサにかかって対日攻勢を強める中国に怒りを感じる日本人も多いのだろう。高市政権の支持率は高いままである。


しかし、中国の姿勢に怒りを感じ始めたところから中国の国内事情に鈍感となり、それが対中外交の次なる失策をうみ、さらなる日中関係の悪化につながり、ついに日中関係の悪化が対米外交にも波及して、日本の対米不信がうまれ、互いの疑心暗鬼から日米関係も悪化したというのが、戦前の日本政府がたどった道である。

対中外交の失敗は対米外交の失敗につながる敗北の方程式である。

小生はそう思っている。

今回も同じ道を歩まないという保証はない。囲碁や将棋と同じで、敗着はずっと後になってわかるものである。その時には「ここしかない」と思って打つのである。


他方、中国ももはや共産主義国家ではないし、社会主義国家でもない。というか、社会主義国家建設に真面目に取り組んだことがあるのかというのが、20世紀後半の北京政府だろう。社会主義建設に見事に失敗し、1970年代末から共産主義を(実質的には)放棄し、資本主義を是として発展してきた。しかし、資本主義の勘所である《自由》を北京政府は認めていない。自由を容認せず、片方ではマルクス流の史的唯物論を是として、精神的・文化的創造には極めて冷淡である。唯物論なのだから外国文化は無視すればよいのに、流入には極めて警戒的である。精神(=上部構造)は経済(=下部構造)に従属するという割には、実に矛盾している。

中国ではいま現在でも「国家  >>  個人」であり、政治は共産党独裁である。しかし、共産党が掲げる政治理念と経済モデルは実質的には破綻している。

中国では国家理念が空洞化してきた。

故に、北京政府の統治する中国では、目指すべき国家目標が国内には見当たらず、結果的には自己利益だけが動機になっている、しかしそれは政府が容認している動機ではない。そんな理屈だろうと思う。自己利益を否定しがちな日本よりよほど活力はあるかもしれないが、どこか漂流しているような社会心理が蔓延しているに違いない。

かつて東アジア世界を魅了した中国文化をモダナイズして再生させればイイに、自由な文化的創造を抑える本能が北京政府には残っているのだろう、達成すべき国家理念を自ら捨て去っている。

結果として

超大国・中国の復活

共産党独裁の下で共産主義理念が空洞化したいま、こんな唯物論的な目標達成だけが、おそらくただ一つ国民が合意できる理念なのだろう。


しかし、こんな理念では世界中から人々が集まってくるはずはない。王朝国家・中国の盛時、中国の都には多くの外国人が世界中から集まってきていた。いま世界中から人が集まりつつあるのは、中国ではなく、日本の方であろう。

日本は、産業は空洞化したが、国家理念は空洞化していない。

文化の連続性、文化の継承が絶えない限り、その国は(体制はともかくとして)続いていく。そう思うのだ、ナ。

高市首相は、安部・元総理と同じく、相当の経済音痴であるのは歴然としている。が、「日本」という国を愛しているという点では、総理大臣にふさわしいのかもしれない。

今後、エラーを連発して選手交代にならないよう祈っている。

【加筆修正:2025-12-21】



2025年12月18日木曜日

昨日の続き:書道の作品創造はAIには苦手か?

絵画を描く仕事はもうAIにも出来る。絵画どころか動画創作(?)すら可能になりつつある。

AIのそんな進歩に期待して、昨日も投稿したように、漢詩を漢字の文字列として与えて、それを書道の作品として画像ファイルを作ってもらおうとしたところ、意外やまったくできないのであった。


それどころか漢字を間違えて書いていたりするし、横書きを縦書きに直すように指示すると、文字の前後がまったくメチャクチャになったりする。

どうやら個々の漢字コードに対応付けて画像認識されたイメージセットがあらかじめAI側でデータ化されているわけではないらしい。

ChatGPTやCopilotでダメでも中国発のDeepseekでは出来るのじゃないかと期待したが、そんな機能はないそうだ。自分は人工知能であって漢字をアートとして処理するのは苦手であるというか、そんな言い訳をしているのが、マア可愛らしいといえば、かわいい。

ChatGPTに聞くと、Deepseekは漢字を書道作品に画像化する機能は備えていないと回答するから、商売敵の長所・短所はよくわきまえているようだ。


ただ思うのだが、確かに与えられた漢字を書道作品として書くのは、AIには難しいかもしれない。

逆なら出来るはずだ。つまり、書道作品を画像として読んだうえで、それがどの漢字に該当するのかを判別する。それなら現在でも出来る分類(Classification)だから出来る(はずだ)。では、漢字が行書体、更には草書体で書かれているときはどうか?実は、そんなとき、漢字は最も芸術に近くなる。もっと極端な場合として、数行の文章が連綿体で書かれているとき、AIは個別の文字に正しく切り分けて、更に画像認識をして文字を同定させていけるだろうか?・・・例えば


URL:https://shogopin.wordpress.com/2013/03/21/%E9%80%A3%E7%B6%BF%E4%BD%93/

平仮名混じりの和文だが、これでも文字の識別は容易な方である。しかし、人間が自由に崩した文字を人間が読みこなすのも実は大変なのだ。AIに出来るか?

そもそも与えられた書道作品を画像として解析・認識できないのに、漢字を書道作品として書けと指示したところで、認識もできない画像を生成できる理屈がない。

・・・という理屈になるので、AIによる書道は(当面の所と期待したいが)諦めた次第。


今のところ現実的な解は

  1. 毛筆フォントの最大サイズを使う。ただ、一つの漢字には一つの形しか対応しないので、フォントの制限が創造の制限になる。これでは書道とは言えない。
  2. まず筆で書いてからスキャナーで画像化する。原始的なようだが、今のところ採用されている方法らしい。


漢字はそれぞれが音と意味が構造化されて出来た記号である。AIは勝手に異字体を発明して小生を吃驚させるが、どの文字のつもりかが伝わればやってはいけないわけではない。しかし、そんな異字体を読まされるAIは当惑するであろう。漢字にはそんな自由がある。読み方は国ごとに勝手に読んでいい。文字形から意味が定まるので書体だけではなく音も任意なのである。

文字から意味を取り去ったアルファベットも使い勝手がいいが、音を伝えるだけなので、スペルは国ごとに変化する。

一長一短がある。

中国が(日本も?)漢字を捨てることはホボゝないことだ。

2025年12月17日水曜日

ホンの一言: 表意文字・漢字の扱い、これは英語圏AIの弱みかも?

令和8年の元旦に出す年賀状は、水彩画を挿入していたこれまでとはデザインを一新して、いま暮らしている街の風景画のカットの他は文字だけにした。

謹賀新年と令和八年元旦という文字の他は、

蛍燈映戸読書夜

雪影侵窗歳序移

だけをプリントする。あとは筆で短い文を加筆する。これからはこれで行こうと思っている。


上の七言絶句の元の詞は周知の「蛍の光」である。これをChatGPTで唐詩風に翻訳してもらった。そのうちの第1句と第2句である。第3句と第4句は

今旦啟扉辭舊室

同門握手各分離

である。これが人手を煩わせた訳であれば修正を求めるのも遠慮らしいが、AIなら簡単だ。唐詩の調べをもっと格調高く出してほしいと注文すると

螢燈照牖書聲細

雪影侵窗歲序遷

曉色啟扉辭舊舍

同遊一散各飛煙

と出してきた。第1句の 「牖」という字は日本では標準的でないが、書斎の明かりとりの小窓を指すなら「窓」ではなく「牖」である。ユウと読む。字はすべて旧字体、というか正字体を使っているのがイイ所だ。


ただ、ここまでは素晴らしいのだが、上の漢詩の第1句と第2句を年賀状のデザインに入れようと、

漢字を書道風に書いて画像ファイルにしてほしい

と求めると、これが全く使い物にならない。

そもそも、個々の漢字を同定(identify)して、その漢字を行書体なり楷書体で書いたときの画像を対応付けるという作業が出来ていないようだ。

そもそも「蛍」という感じを書き間違えて奇妙な文字を発明してしまうし、最初は横書きで作った画像を縦書きに直してくれというと、語順がメチャクチャに乱れてしまう。意味がまったく分かっていない証拠だ ― ま、それは最初から分かっていたことだが。

どうやら現行のChatGPTやCopilotは漢字を表意文字としては認識できていないのだろう。だから、 多分、漢字の認識と画像としての認識が連携できていないのだと推測している。


まだDeepseekは試していない。中国初のAIである以上、漢字処理は英語圏発のAIよりは一段レベルが上であったとしても、自国の文字である以上は当然のことである。が、やってみるまでは分からない。

結果は改めて投稿しよう。

2025年12月13日土曜日

断想: 「心の中にのみある」をキチンと理解できる人、少ないかも?

世間でよく言われるが、

宗教によって神々は様々だが、これらはすべて人の心の中にのみ存在するという点では共通している。
同じ趣旨の記事を先日ネットでも見かけたから、現代日本社会の大多数の人々にとっては当たり前の常識になっているのだろう。

確かに神という観念は、心の外の外界に可視化しうる存在物(=物理的存在)としては存在しないという理屈は納得的である。しかし、上のような考え方の根底に

心の中にのみ存在するのだから、本質的には虚構であって、客観的に実在するものではない。すなわち、全ての宗教は人間が作ったストーリーに過ぎない。
これが言いたい事であれば、まったく賛成できない。というか、正反対であるというのは、最近の何度かの投稿で強調してきたことだ。とはいえ、これを再説するのに《唯識論》の要点から始めるのは面倒だ。ただ
「客観は実在するが、主観は心の中にのみある」と考えること自体がその人の主観である。末那識が駆使するその人の大脳が「彼我」の「彼」として構築した映像を「客観」という。
つまり「客観は実在する」と人が言うとき、要するに「我は実在する」というのを裏側から言っているだけだ。「考える」という行為には「考える我」と「考えられる非我」という二項対立が最初から必要なのである。そうでないと人は考えるという行為をなせない。大脳は考えている正に「大脳それ自身」を同時に考えることはできない。これだけを今日は記しておきたい。

「経験科学」という知識を議論し始めると長くなる。




昨年の秋に相伝を受けたことを契機に朝の読経が習慣になった。最初は「日常勤行式」に沿ってやっていたが、最近は月曜以外には「専修念仏」をしている。もし人が『南無阿弥陀仏』というのは人がつくった想像によるものだと言えば、人が考えたものであるのは確かな事実だ。異論はない。

そう意見を投げかける人に問うことがあるとすれば $$ \frac{\partial^2 u}{\partial t^2} = a^2 \frac{\partial^2 u}{\partial x^2}+f $$ という文字列と

南無阿弥陀仏
という文字列が記された固形物を(人類がその時まで生存しているかどうか分からないが)何万年もの未来に発見する人がいるとして、どう考えるだろう?

どちらの文字列も物理的存在として確かに客観的に実在すると言っても可であろう。他の人とも目で見ているその文字列は同一の表象として認識されるのは間違いないからだ。

とはいえ、客観的に実在するのは目で見ている文字列だけであるというなら、それは誤りだ。上の偏微分方程式はいわゆる『波動方程式』で、理系の大学なら2年か3年で学習するはずだ。方程式が伝えようとしている《知の働き》を理解できた人には

方程式が伝えている知の働きと知がとらえた真理が実在するのであって、この文字列はいま消え失せても文字が消えるだけで本質は何も失われない。
そう考えるはずである。そして、知がとらえた真理は生死を超越して永遠不変である理屈だ。なぜなら真理は、古代ギリシア人なら《ロゴス》、現代の英米人なら"Truth"、ドイツ人なら"Die Wahrheit"という単語で表現するはずだが、物質を媒体とする単なる現象ではないからである。物質は時間が経過する中で、老朽化し、消失するが、非物質的な知の成果は物質とは別に現に働いているともいえるわけだ。

働いている以上、そう働かせている主体が(いずれかの空間に)実在していると考えるとしても合理的な思考というものだろう。もちろん測定可能な何かのデータがエビデンスになるとは思われないので、経験科学の成果だけが真理であると断言する人は別の立場にいる。しかし、そうした《科学原理主義者》は、データによって実証されるまでは、いかなる数学的定理も真理とはいえないという羽目に陥るのではないかと逆に心配になる。

物質と非物質との違いは何度も投稿してきたので、これ以上くりかえす必要はない。が、念仏と偏微分方程式は、文字列自体に意味があるわけではなく、思念している心の中でとらえている対象が本質という点では似ている。見えているのは単なる記号である。本当に実在しているのは目で見ている物ではなく、知性がとらえた観念の方である。

だから、最初に引用した『神々は人の心の中にのみ存在するのです』というのは、確かにその通りで仏教では「法界」と言うのだが、これをきちんと理解できる人は(難しいことは避ける?)現代日本社会ではもう驚くほど少数じゃあないかと思っているのだ ― 少し以前は精神的な事柄にも親しんできた前の世代が身近にも生きていたので状況は違っていたが、最近年の高齢者は(年齢の割には)ただ元気なだけが取り柄であるとしか感じられない。

理性ではなく、視覚や聴覚など感覚を通したものだけが実在すると思う人は、自動運転されて走っているバスを目撃すれば

ついに人類は考える自動車を発明したわけか!
タイムスリップしたシャーロック・ホームズよろしく、こう思いこむことでありましょう。仮にそうなりゃ、
人が作った機械が考えるなら、鳥も考えているし、犬だって考えてるだろう。いやいや、宇宙全体、何かを考えているンでございましょう
そんな「汎神論」みたいな、マア、正反対の極地にも通じるわけです。

2025年12月10日水曜日

断想: 世界のスーパーパワーは100年ほどの黄金時代しかもてない?

前稿の続きのようなことを書いておきたい。

世界史には色々なスーパーパワーが登場した。しかし、どれほど長くとも、概ね100年ほどの「黄金時代」を謳歌できたに過ぎない。昔なら5世代かもしれないが、人間の寿命が長くなった現代では3世代ほどの長さでしかない。100年というのは意外と短いのだ。


イギリスは「大英帝国」と呼ばれたこと(それとも自称?)があったが、名実ともに指導的位置についたのは、ナポレオン戦争終息後の1814年に開催された「ウィーン会議」から1914年に始まった第一次世界大戦までの100年間に過ぎない。確かに18世紀末には他のヨーロッパ諸国に先駆けて「産業革命」がイギリスから始まったが、その当時はまだフランスが大陸欧州の主役のような役割を続けていた。イギリスが欧州を代表する指導国になり得たのはフランス革命の勃発とナポレオンの台頭と没落が直接的なきっかけである。加えて、自由貿易と金本位制によって英ポンドを国際通貨として通用させたことも大きい。

中国の清王朝は乾隆帝の時代、大いに国境線を拡大して現代中国の領土の基礎を築いたことが最大の貢献だと(勝手に)思っているが、清王朝の黄金時代である「康熙乾隆時代」も「三藩の乱」鎮圧後の1683年から乾隆帝が没する1796年までの100年少々にすぎない。

古代ローマ帝国の盛時で"Pax Romana"とも呼ばれた「五賢帝時代」も時間の長さで言えば最初のネルヴァ帝が即位した西暦96年から最後のマルクス=アウレリウス帝が亡くなる西暦180年までの100年弱に過ぎない。

日本史で最も長い平和を築いた徳川幕府もその黄金時代と言えば(人によって異なるだろうが)小生は綱吉将軍の下で元禄時代が始まった1688年から松平定信による寛政の改革が始まる1787年までの約100年間だと思っている。寛政の改革は統治組織としての江戸幕府の余命を可能な限り延ばしたという点では歴史的意義をもつ。しかし、中心人物の松平定信がたった6年間在職しただけで老中を退いた後の幕府政治には活発な創造力が欠け、むしろ地方の諸藩の統治能力の方に先進性があった(と勝手に考えている)。幕府政治が輝いていた時間もせいぜい100年ほどに過ぎない。

キリがないので止めるが、後は推して知るべしで、

歴史的節目をなす程の強力な統治システムであっても、その黄金時代は高々100年ほどで終焉する。これが歴史を通した経験則である。

と(これまた勝手に)思っている。


アメリカ合衆国が世界的なスーパーパワーとして登場したのが、第一次世界大戦に連合国の一翼として参戦した1917年。今年はそれから108年後に当たる。

世界のスーパーパワーとしてのアメリカ合衆国の黄金時代は過去のものとなりつつある。そう観るのは、これまでの経験則と合致していると思う。


今後進むのは《世界の変質》だろうと予想している。

すいぶん以前に経済発展と民主主義という問題意識で似たようなことを書いた。

一つの企業の寿命はよく30年であると言われる。30年ほどが経つと成長してきた企業も老化するというわけだ。社内改革を断行せずして、30年を超えて同じ企業を安定的に存続させるのは至難の業である。そんな経験則がよく言われる。

国家も企業もシステムである点では共通している。自ずから寿命があるということだ。文字通り《諸行無常》。100年も経って同じ国家が繫栄していれば、名称は同じでも実質は別の国家になっているという理屈になる。

2025年12月9日火曜日

ホンの一言: 高市首相のチョットした失言がバタフライ効果を生むのだろうか?

確かに高市首相はミスをした。外交経験の不足と自信過剰、支持基盤への配慮など幾つかの理由があったにせよ、「いま言う必要がないこと」を「最悪の場所とタイミング」で発言したのは否定しがたい。

碁や将棋であれば、その時には「悪手」。対局後の検討では「大悪手」と判定される一手に似ている。


純粋のミスであれば撤回もできるが、政治的狙いが混じっていたのであれば、撤回できない。それに、今さら撤回しても有効ではなく、むしろマイナスにしか働かない。手当しなかった「断点」に石を打ち込まれれば、時に「総崩れ」になるものだ。

中国は「守りのほころび」、「日本の弱み」を突いてきている。


米国は中国とBig Dealを欲している。経済的報復の切り札を持っているのは中国側だというもっぱらの評価である ― レアアースや巨大市場としての魅力を指しているのだろう。トランプ大統領は中国と商談を進めたがっている。

その弱みを中国は突いてきている。

日本とアメリカはつながっていなかったのだ。その状態で高市首相は「いう必要がないこと」を国会で発言した。

その「ほころび」を中国は突いてきている。


日本の外堀を埋め、日本を外交的に孤立させる好機が《棚からボタ餅》のように北京政府の上に降ってきたわけだ。

日本が圧力に負けて高市首相が(事実上の?)発言撤回に追い込まれれば、日本には《アメリカは頼りにならず》という痛恨の記憶が残るだろう。

アメリカが対中商談に執着すれば、日本に対中譲歩を要求するだろう。日本の不信をかい西太平洋の重要根拠点を失ってでもアメリカが対中ビジネスを選ぶ可能性はある。

アメリカは手を広げ過ぎた。帝国ではないのだ。帝国を維持するのは膨大なコストがかかる。正に"Business of America is business"である。大アメリカではなく、小アメリカでもよい。その方が安上がりに豊かな国をつくれるというものだ。

そういうことかもしれない。しかし、それは中国が西太平洋海域を勢力下におさめる第一歩になるだろう。


地政学上の大きな変動が進む分岐点にさしかかっているのかもしれない。

トランプ政権の大局観が間違っていれば、それが第一の理由になるのだが、その大変動の始まりは同盟国・日本の新米首相が想定問答を無視して自分の言葉で語った《軽い一言》であったということか?

しかし、

戦場で歴史的大敗北をもたらした原因は、一人の兵が乗っていた馬が小さな小石を踏み損ねて驚いて悲鳴をあげたことである。その小さな事故が味方にとっては最悪のタイミング、敵にとっては最良のタイミングで起きた。

これを《バタフライ効果》というが、太平洋海域の地政学的パワーバランスが大きく変動する(ことがあるとして、その)契機となったのは、高市首相のチョットした言い過ぎであった……、事後的にそんな風になる可能性が絶対にないとは言えないだろう。

2025年12月3日水曜日

ホンの一言: TVが「反社会的」な主張をすることもあるのか……

今朝もいつものようにカミさんと馴染みのワイドショーを視ていたところ、食べたものが喉につかえるような事を又々あるコメンテーターが語っていた:

米を増産すると前の農水大臣が話していたのに今は「お米券」を配って増産はしないという。お米券って筋の悪い方法ですよ。需要が多いから価格が騰がっているわけですから、お米券を配ったりするともっと騰がります。それより増産する。増産してもらって価格が下がったら農家に所得を保障してあげる。そうしたら価格は下がります、云々……

確かに理屈は通っている。増産してもらってコストがカバーできなかったら所得補償をする。農家は喜んで米を作るだろう。

キロ当たり100の費用をかけて米を作る。ところが市中の販売価格はキロ当たり60だ。このままでは農家経営が破綻するから政府が40を補填してあげる。そうすれば次年度も農家は米を作れるから安心だ。

こういう理屈だ。


しかし、この方法は農業生産の非効率性を温存するという理由で廃止された《食糧管理制度》とどこが違うのか?

イレギュラーな米価暴落時に農家所得を補填してあげるのであれば、マア、良い。しかし、毎年必ず損失が出るという経営構造になっているのに、それでも損失を補填してあげるというなら、バブル崩壊のあと「ゾンビ企業」が「不良債権」となる中、延命融資を継続した日本の銀行と同じことをやることになるのではないか?

農家の所得補償にあてる財政支出にも財源がいる。その財源は(理屈としては)税である ― もちろん国債発行もありうるが、さすがにこれを主張する御仁はおるまい。

要するに

高コストの米を食べる日本人に米を低価格で食べさせるため、その費用を日本人全体で負担する。

こういう発想である。

しかし、高価なコシヒカリやアキタコマチを愛する日本人のために、なぜその他の日本人がコストを負担しなければならないのだろう?『どうせ国民の税金で農家所得を補填するなら、最初から高い価格で買ってあげれば一番簡単でしょう』と突っ込みも入りそうだ。そんな突っ込みが入れば『高い価格では買ってくれないから困るんです。安くなっているのが困るんです。経営できないンです』、マア、これがTVコメントの話の本質である。


キロ当たり60の販売価格では生産できないという日本の農家の高コスト体質がコメ問題の根底にある。上の数字例だが、なぜ市中の販売価格が60まで下がるのか?人口が減っているとか、消費者の財布が厳しくて需要が増えないというのは違う。確かに高いコメを買い支える需要が出てこないのは事実だ。しかしこれは一つの側面でしかない。もっと大事なのは、それ以上の高価格になると高関税を払ってでも海外の安価な米を輸入できることだ。

コシヒカリなどの銘柄米にこだわっている御仁はいざ知らず、普通の人はカリフォルニア産のカルローズ米で十分だ。少なくとも小生は美味いと思う。故に米価上昇には限度がある。上がり過ぎれば関税込みの輸入米の方が安くなる。許可制ではないので貿易商社は外国米を自由に輸入できる。

日本のコメ関税は定率関税ではなく、キロ当たりの従量制である。米価があがれば関税もあがるわけではない。故に、世界でインフレが進行すれば日本の米作農家を守っているコメ関税というハードルは相対的に低くなる。コメの関税障壁はインフレ進行の中で瓦解するのである。そうなっても、日本がコメ関税を引き上げられる世界情勢ではない。下手にコメ関税を引き上げると、コメ輸出国は報復として対日輸出課徴金を使うでしょう。そうなると、日本人は高い国産米、課徴金込みの高い外国米しか買えないことになる。そうなりゃ、経済戦争になるっていうものです。

遠くない将来、いずれ日本のコメは実質的には自由貿易に近くなるだろう。


問題の本質は、日本の農家の高コスト体質にある。そして、高コスト体質の原因はわかっている。合理的な米作経営にすれば日本でも低コストにできる。低コストで高品質のコメを日本でも作れる。

いまは最も非合理的な米作をしている農家のコストに合わせて米価を決めている。合理的な米作をしている経営者は高い米価で利益を得ている理屈だ。合理的経営を増やし非合理的な経営を減らす。そうすれば日本でも低価格で高品質のコメを作れる。経済学の基本だ。学生でもレポートできる初歩中の初歩である。農水大臣が先ずやるべきことはこれだろうと、小生は思うが、日本社会は違った筋道で思考しているようだから、まったく訳が分からない。

コメの生産が非合理的であるだけではなく、日本社会全体が非合理的であるようだ。

具体的に合理的な米生産とはどこが合理的なのか?非合理的というのはどこが非合理的なのか?……、ここまで書くと身もふたもない。AIに質問すれば何時でも回答してくれる。

いずれにしても、高コスト体質の米作農業を肯定して、それを温存するためにカネを投入せよというのは、それ以外の必要な分野にはカネを回すなというロジックになる。まさに《反・経済成長》、《反・科学》。小生には、本日のワイドショーの見解は《反社会的》であると感じました。マア、「言うべきことは言うな、しかし何かを言え」とでも台本に書かれていれば、この位になるかナア、という事ではあったかもしれないが決して感心できる内容ではない。

【加筆修正:2025-12-05】