本稿は前稿の続編である。
小生はずっと
この世界に実在するのはモノである。この世を支配しているのは物理法則と化学的性質である。生命現象も特別な化学プロセスである。
と、マア、こんな風に考えていたので、例えば「善悪」、「美醜」とか、ましてや「民主主義」、「人権」などという曖昧な概念は、自然界にそんなラベルが貼られていることはないので、実際には存在しない。そう考えてきたわけで、これは前稿でも触れている。
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とはいえ、引っ掛かりは以前からあって、例えば経済学では「生産の境界(Boundary of Production)という問題がある。
18世紀フランスで活躍したケネー、チュルゴ―らの重農主義思想では、自然に対して直接に働きかけて得られる第一次産業の生産物のみが「生産物」である。製造業が提供する「パン」、「菓子」、あるいは「机」とか「自動車」などは単なる加工品で、真の生産物ではない。こう考える。
フランスで重農主義経済学に触れたアダム・スミスは、これを発展させて「国富」とは金、銀などのマネーではなく、「価値」を生む「生産資源」である、つまりは「労働力」である、と。こう考えた。だから、労働者の労働によって生まれる製造業の生産物も真の「生産物」として把握された。生産の境界が拡大されたのだ、な。
現在では、有形物に加えて、更に諸々のサービスも生産の境界の中に繰り入れられるようになった。人々の満足度が向上し、多くの人が喜んで対価を支払う以上、形に残らなくともサービス業従事者も生産に参加している。こんなロジックだ。
なので、よくこんな話をした:
目の前に「机」がある。しかし、重農主義思想の下では、これを机とは観ず、木材と考える。真の生産物である木材が、机という形をいまとっている。机を二つに切ってしまうとする。机があったと観ていれば、机がなくなったと理解するが、そもそも生産物として机があるわけではなかった。切り分けても木材である以上、経済的価値の次元では何も失われていない。
よく屁理屈をこねては周囲を煙にまいていたものだ。
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いま振り返ると、上の屁理屈をもう少し掘り下げて考えていればよかったのだと思う。
あそこに人がいる。しかし、あれが人だというのはどういう意味だろう?そこに在るのは、個々の細胞の集合体であると観てもよい。というより、主に蛋白質が集積した物質でも間違いではなく、もっと要素に還元して「炭素とその他ミネラルを含む集合体」と把握してもよい。実際、そこに在るのは数種の元素の集合体なのだ。これが実在しているモノである。いや、いや、要素還元論的に世界を眺めれば、全てのモノは元素の集合であり、現象はすべて原子の運動であるのだ。
その元素の集合体を「一人の人間」と認識するのは、何層もレベルの上がったマクロ的概念を通してそう認識しているわけだ。つまり「人間」というのは、実在する原子の(あるいは個々の細胞の)集合が、知性までも備える多細胞生物として振る舞うその在り方全体を指す抽象概念である。
人間の行動は、確かに人間を構成する原子の集合が物理化学法則に沿って運動することで実在化するものだが、そう認識するよりは人間ならもっているはずの人間性に着目するほうが、人間を良く説明できる。この「人間性」もまた抽象概念である。
似たような問題は、以前にも言及したことのあるドイッチュ『無限の始まり』でも述べられているわけで、例えば第5章「抽象概念とは何か」では
知識はそれぞれが、自らの複製のために生物や脳を「使う」(したがって、それらに「影響を与える」)抽象的な自己複製子……
という風に、「知」というのは抽象概念から構成されているものだと述べている。
その後にチェスをさすコンピューターが人間に勝つ情況を例に挙げてこう書いている:
実際にあなたに勝つのはプログラムであって、(半導体の素材である)シリコン原子でもコンピューター自体でもない。その抽象的なプログラムは、無数の原子の高レベルの振る舞いとして物理的に実在化されているが、プログラムがあなたに勝った理由の説明は、プログラム自体に言及せずに表現することはできない。…そうした抽象概念は、その説明に必要とされる形で存在し、実際に物理的対象に影響を与えているのだ。
こう述べている。つまり、目の前に観察される現象を理解するのに、因果関係に基づいて個々の原子の振る舞いを物理化学的に分析するより、コンピューターがそう振舞うように最初からプログラムされていたのだ、と。そう説明する方が、物事の本質をついているだろうという一例である。
因果関係という枠組みから物理化学的に理解する見方も一方にはあるが、人間に勝つためにプログラムされているという「意図」と「計画」があると、つまり目的論的に世界を観る立場もある。
そういうことだ。
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以前の投稿で、モーツアルトの音楽について何度か投稿している。が、モーツアルトの音楽はどこにあるのだろう?
部屋でそれを聴くとき、それはCDとCDプレーヤーが演奏しているのだろうか?そうではない。それは何十年も昔に、小生が好きな演奏家が演奏した時の「音」を録音したものだ。プレーヤーという再生装置はそれを音に戻しているだけだ。では、音がモーツアルトの音楽なのか?そうではない。各音程の音が、モーツアルトが書いた楽譜どおりに響くので、その音の流れが音楽になるわけだ。即ち、モーツアルトの音楽は、有形物として存在するのではなく、モーツアルトの音楽的才能、つまりは「知」が創造した高レベルの抽象的な存在である。それが自己複製をしながら、物理的な音に具象化され、最後に我々の耳に届いているわけである。
抽象的実在である音楽に、我々はしばしば「美」を感じる。それは「美」という抽象的な価値が実在しているからだ。音楽を聴いて、そこに美を感じとり、感動の涙を流すのは、抽象レベルで起きていることが、生身の身体という物理的存在に影響を与えるわけだ。なぜ涙を流すのかについて、物理化学的、生理学的分析を行うよりは、音楽を聴いたためだと理解する方が、良い理解であろう。
ここまで書くと、正にプラトン哲学を連想するのは、小生にとどまらない(はずだ)―実際、ドイッチュも第10章で「ソクラテスの見た夢」を置いている。
プラトンの思想の根本は「イデア」である。要するに、ラディカルな唯心論者としてプラトン(それからソクラテス)を(今のところ)理解している。
「他力」、「浄土」、「信仰」という人間の行為を考えるとすれば、こんな視点からだろう。
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