オリンピックは参加することに意義があるというのは、その通りだが、若年で金メダルを獲得しようとすれば、運も必要だが、才能も必要だ ― もちろん強化費というカネも要る。
簡単に言えば、10台や20歳そこそこでオリンピック金メダルを獲得する人は、「天才少年/少女」と形容しても過言ではないのだろう。
今回のパリ五輪を視ていると、10台、20台前半の若年層の活躍が著しくて、
スポーツ界にはどんどん天才が登場しているんだネエ
と、感嘆を禁じ得ない。
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それに対して、学術分野はどうだろうか?
純粋学問の成果は、長期的には産業に応用され、日本人の生活水準にも反映される理屈だ。その科学分野で日本が立ち遅れれば、いずれ産業技術は海外からカネを払って導入しなければならなくなり、日本が丸ごと下請けに似た存在になるわけである。下請けの哀しい境遇は、現在の日本経済をみれば想像がつく。
その学術分野の進展を図る指標(の一つ)が論文数、中でも「引用数の高い論文数」は世界的な影響を測る有力な指標である。
ところが、昨年夏のデータだがサイエンス・ポータルの記事によると
被引用回数の「トップ10パーセント論文」では日本はイランに抜かれて13位。更に、極めて注目度の高い論文である「トップ1パーセント論文」に目を向けると、日本はスペイン、韓国に抜かれて、前年の10位から12位に後退した。なお、単純な論文数では日本はドイツに次いで5位を維持している。
つまり、怠けることなく勤勉に頑張っているのだが、世界から注目される内容ではない、ということだ ― よく分かります。実に、身につまされる程、分かります……
注目度の高い論文を書くには、研究者の才能と研究費の両方が必要であるし、もう一つ挙げると、身近に優秀な研究者が集まっていて知的刺激を与えあっているという研究環境が決定的に重要だ。これらの総合的結果が論文というアウトプットになって現れる。
トップ1パーセント論文を書ける人物は、もちろん運とカネ、環境という要素もあるが、才能がなければどうにもならず、学術分野の「天才」であると形容してもよい。
こう考えると、スポーツと学術のパフォーマンスは、どこか似ている所がある。
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不思議なのは、
スポーツ分野では若い天才が続出しているのに、学術分野ではなぜ天才が現れないのか?
このアンバランスな現状である。
同じ文科省でも「スポーツ庁」は頑張っているのに、「文科省本省」はダメだということなのか?それとも、スポーツ選手を育成しているシステムは合理化されている一方で、優秀な研究者を養成する教育環境、研究環境は悪化している。そういうことなのだろうか?
近年、「研究費が足らない」とはよく聞くが、それはスポーツ界も同じではないのだろうか?
スポーツ界だけが恵まれているのだろうか?
実績に表れているこのアンバランスが不思議でしようがない。
何だか、頭脳では連戦連敗だが、運動能力では高く評価される最近の日本人。何か、現場は日本人が身体をはって汗を流す。本部と研究開発は欧米人(?)が頭脳で仕事。何やら、そんなイメージが世界で定着しそうで、気になる。
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これとは全く別の話題だが、今夏の原爆記念日の祈念式典。
広島は、ロシアとベラルーシは招待せず。イスラエルは招待。パレスチナは招待せず。
長崎は、ロシアとベラルーシは招待せず。イスラエルは招待せず。パレスチナは招待。
いうなれば、ロシアとベラルーシは2敗。イスラエル、パレスチナとも1勝1敗。
故に、ロシアとベラルーシに対しては極めて厳しい姿勢。イスラエルとパレスチナに対しては、ロシア、ベラルーシほど厳しくはないが、与することはせず、一方の側に立たず。
(結果として)日本はこんな立場を選んだ。
一方、日本以外のG7構成国(≒西側先進国)は長崎には出席せず。イスラエルの側に立ち、パレスチナには与せず、となった。
道理をいうなら、ロシア、ベラルーシを含め、一貫して全ての国を招待するべきであろう。が、そうすれば不測の事態が発生する懸念があり、警備費を増額する必要もある。やむをえない。所詮、二つの地方都市の行事である。
それはそうとして、ロシア=ウクライナ戦争開戦後にうけた扱いを観るにつけ、今回のイスラエル=ハマス紛争もそうだが、今なお英米(及びユダヤ資本?)にシバカレているドイツ人たち、というかドイツという国が気の毒になる今日この頃です。
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