2011年6月18日土曜日

非現実的夢想家に刺激されて―リンク集(6/18)

原発事故の国際的保障体制構築に向けて議論が進んできている。こんな方向が出てくるであろうことは、そもそもの当初からある程度予想はできていた。フランスが主導権を握ろうとしていることは、メディア報道のほか、以下のOECDパンフレットからも伝わってくる。

New avenues for improving international nuclear safety

これを見ると、もはやスリーマイル島、チェルノブイリと同じ知名度でFukushimaの名が世界に広く知れ渡っていることが歴然とわかる。う~~ん、そうなのかあ・・・と小生は感嘆、というと少し違う。不謹慎でもある。そう、慨嘆である。そんな心情に陥るのである。Tokyo、Hiroshima、Nagasaki、日本にも世界的に有名な地名があるが、Fukushimaもその仲間入りである。この内、三つは核絡み、というのも因果なことではある。村上春樹氏がカタルーニャ国際賞を受賞した6月9日、「非現実的な夢想家」と題したスピーチで語ったとおり、
我々は技術力を結集し、持てる叡智(えいち)を結集し、社会資本を注ぎ込み、原子力発電に代わる有効なエネルギー開発を、国家レベルで追求すべきだったのです。たとえ世界中が「原子力ほど効率の良いエネルギーはない。それを使わない日本人は馬鹿(ばか)だ」とあざ笑ったとしても、我々は原爆体験によって植え付けられた、核に対するアレルギーを、妥協することなく持ち続けるべきだった。核を使わないエネルギーの開発を、日本の戦後の歩みの、中心命題に据えるべきだったのです。
本人自らが「非現実的」だと言ってますからね。それはそうなのだが、心情的には思わず賛成したくなるほどの痛みを、Fukushimaという地名の響きから感じるのだ。ナイーブに過ぎますか?

他方、大震災が生産活動にどのくらい甚大な影響を及ぼしたのか、この点についても精密な検証が公表されてきている。経済産業省が公表した


は、必見と思う。本文で記されているが
3月の前月比▲15.5%は、20年10月から21年2月まで続いたリーマンショックに伴う急速な低下の中で最大の低下幅であった21年2月の同▲8.6%を大きく上回る急激な動きとなった。これは単月の低下幅としては昭和28年に現行の鉱工業指数体系が確立して以来最大である。
リーマンショックが地滑りであれば、東日本大震災は陥没だった。文字通り、突然、奈落の底に落ちた。日本を襲ったショックの巨大さがよく分かる。とにかく昭和28年以来、データ作成開始以来の最大のマイナスだったのだから。

それから、よくまあ、短期間の内に生産体制が持ち直したものだ。2008年9月のリーマンショック以降の急降下が底打ちして、生産が持ち直し始めるまでに、優に6ヶ月はかかっているのだ。大震災以降、生産現場でなされた回復への努力は誠に英雄的だ、小生は心からそう思っている。

これに対して、日本国のトップ層、並びに社会の木鐸は一体どうしてしまったのでしょうね?ここでも小生は感嘆、いや慨嘆の念を禁じえないのである。


小生なら「報道を避ける報道、政治を避ける政治家」とタイトルをつけたいところである。G8にも入る先進国の総理大臣が、やりたいことをその時々の世間の風を見ながら、社会保障と税制の一体改革やら、TPP参加やら、原発事故対応から新エネルギー推進へと、まるで食い散らすようにツマミ食いを重ね、美しく形容すれば花から花へと飛び回る蝶々よろしく、汚く言えば痩せた野良犬のように節度もなく語ることを変えながら、ただ「やらせてくれ」と力む姿も、同じ国の国民として恥ずかしい。と同時に、知恵なく、愛なく、誠なく、ただ一般大衆の受けを狙う首相に対して、正論を語る政治家が執行部に誰一人としていない民主党も、もうお終いにしてほしい。

Why are reforms so politically difficult?(Voxより)

上は、論壇Voxで公表された記事だ。何故「政治改革」は困難なのか?この問は、今や世界共通の問題になっているのですね。著者によれば、改革の志が理解されず、結果がマイナスに評価されて、次の選挙で敗北するかもしれないというリスクを負担するよりは、現行システムを(これまでの為政者に責任を転嫁しながら)何とか維持していくほうが安全で賢明な選択だと、そう政治家が考えるからである。ふ~~む。言い出してはブレっ放しの日本の政治家にも当てはまっているかも。

ということは、社会が不安定化し、明らかに将来不安が高まるとき、政治家が現行システムを保守することの誘引が弱まり、改革に挑戦して成功することへの動機が強まるので、求められる真の改革に着手する確率が高まる。そういう仮説である。

実際、GDPギャップの変動(←標準偏差で測定している)が大きく、経済が不安定化している国であればあるほど、財政赤字縮小に向けた政策が実行される頻度が高いという傾向を著者たちは確認している。これが上のワーキングペーパーの眼目だ。

上の資料に掲載されているFigure1によれば、日本経済は全体の中でも安定的に運営されているほうだ。スウェーデン、ギリシャ、それからフィンランドなど、財政健全化政策に乗り出した国は、どこも経済が日本よりは不安定である。不安定であるがゆえに、国民は高い危機意識をもつ。それが単なる人気者ではなく有能な政治家を求める国民心理をもたらす。選ばれた政治家は、おのれが果たすべきミッションを明確に理解しているがゆえに行動にブレがない。決然と国民に耐乏を強いることもできる(もちろん耐乏オンリーを説くような阿呆は、次回選挙で落選するであろう)。

こう考えると日本は、まだまだ崖っぷちに立っていないということか・・・いや、一人当たり国民所得ではこの20年間に随分多くの国に追い越された。これからも世界の順位を更に下げていくと思う。それでも危機意識がない!?日本人は貧乏慣れしているのかね?厳しいビジネスよりは、ほどほどでいいと思っている?

小生は、ここでも政府、官僚、マスメディア、知識人が、国民に広く伝えるべき事実、情報を、率直に分かりやすく国民に伝えていないからである、と思うのだ。

条件が変わったのに考え方はもとのまま(野口悠紀雄、東洋経済オンラインより)

野口氏は、「東日本大震災によって日本経済の条件は大きく変わった。・・・それに合わせて、経済に対する考え方を大きく変える必要がある。企業はすでに対処を始めている。市場条件の変化に適切に反応しなければ、淘汰されるからだ。ところが、経済政策の立案者、ジャーナリスト、エコノミスト、そして大多数の国民は、これまでと変わらぬ考えを続けている。・・・現実に追いつくことが必要だ。そうでないと、経済政策や制度が経済活動の足を引っ張り、変化を阻害する」、このように構造変化の歩みを速めつつある日本の中で、経済の現実から一歩離れた政治家、官僚、マスコミ、専門家の意識の遅れを大変危険であると指摘している。特に政治家や官僚は、日本国の方向を決めるだけの政治的権力をもっているだけに、その彼らが「非現実的な夢想家」に堕してしまうと、国民もろとも間違った方向に走り続けてしまう。そう警告している。

こうなると、形を変えた「大本営△△作戦」と同じですな、戦時中の。小生も、このあたり、非常に同感なのである。

こうならないためには、日本という国に世界が期待していること、日本にできること、日本の強みと弱みを正しく知識として吸収して、どんな風に暮らしていくことが今は可能なのか?どんな風に暮らすことを私たちは望むのか?この問いかけを、人に指示されるのではなく、自分たちで結論を出す気構えが、いま一番大事なのではなかろうか?


2011年6月17日金曜日

緊縮財政が、たった一つの選択なのか?

6月18日号のThe Economist(英国の経済誌の方である)の"Economics focus"コーナーは、"The Great Repression"というタイトルである。意味は「大抑制」とでも言おうか。要は、金融機関の経営を政府が抑圧する政策。たとえば、「経営の安定のためには、総資産の△△%以上を安全資産で運用するべし」とか、「支払準備金を総預金残高の△△%以上に保つべし」とか、そういった安全経営基準を強化する政策がそれにあたる。有名なバーゼル基準の一つである自己資本比率規制もこの仲間である。

日本の預金準備率は、預金種類や預金残高によって違いはあるが、高くても1.3%である。中国については、いま現在ネット上を流れている速報によれば、「中国人民銀行が、今月20日から預金準備率を0.5%引き上げるとのこと。預金準備率の引き上げは今年に入って6回目となる。これによって、大手金融機関の預金準備率は過去最高の21.5%に達する」。これだけ高い支払準備を要求されると、中国の金融機関が自由に使えるお金は大幅に抑制されることになる。

普通、民間銀行がもつ支払準備金は各銀行が中央銀行に持っている当座預金口座に預けられる形をとる。つまり、せっかくの預金を中央銀行に寝かせて死に金にするわけだ。もしもその中央銀行が、国内金融市場から国債をいくらでも買い入れてもよいとのお墨付きを国会から得られれば、銀行にお金を預ける国民は、実質的にはかなりの部分を国債という形でしか運用できなくなる。その国債の金利を低く設定すれば、金利については政府の言い値で国民は資産を運用せざるをえなくなる。

これほど手間の混んだ経営抑圧である必要もない。もっと直截に「民間金融機関は総資産の△△%以上を評価の安定した安全資産で保有しなければならない」と法で規定しておいて、その安全資産は財務省令で規定するとでも決めておき、政府の長期国債を安全資産の中に含めておけば、政府は完全に金融機関の経営の手足を縛ることが可能になる。

リーマンショック以降、大量に累積した政府債務を解消するには、以上述べたような「金融機関抑圧政策」が有効であるというのが、The Economist 誌の記事の概要だ。元資料は、IMFのWorking Paperでタイトルは"The Liquidation of Government Debt"。著者は、Carmen ReinhartとBelen Sbrancia。前者のラインハート女史は、最近、ケン・ロゴフ氏と共著で「国家は破綻する」をものしており、それが世界的大ベストセラーになっているから、ご存じの方も多かろう。

このワーキングペーパーの中で、巨額の政府債務から脱却するには、三つの策があると著者はいう。

実際には採れない理想も含めれば四つになる。その理想とは、「上げ潮路線」。国債の金利よりも高い経済成長をずっと長期間続ければ、必ず借金は返せるという理屈がそれだ。しかし、実際問題としてこれは難しいと言っている。

だから選択肢は三つだ。一つ目は徳政令。デフォールトである。政府が「返せません」と宣言し、一方的に償還期限を10年から30年に延長する。二つ目は緊縮財政。政府の収入には一定の限界があり、その限界の中で、その年の借金返済をまずとっておき、残りの部分で何とかやっていこうという政策である。やれないなら国民に増税を強いる。政府が我慢するか、国民が我慢をするか、どちらかだ。これは日本の官僚が大好きな「国民耐乏論」そのものである。三つ目が、いま述べた金融機関抑圧政策である。

これでなぜ政府債務が返せるのか?金融機関に流れこむ資金の相当部分を、あらかじめ低金利の国債に充当することを強制することによって、資産の利回りを低くする。もしインフレが進むなら、そのインフレ率より利回りを低く抑える。すると実質金利がマイナスになる。こういう政策を30年程度続ければ、巨額の政府債務であっても必ず返済できる。国債が大量に償還される期間は、事後的な実質利回りがマイナスになっていたことに資産運用者は気がつくことになるわけだが、仕方がないわけだ。これが金融機関抑圧政策であり、この政策を、今後世界各国が実行することになるだろうと予測している点で、「大リプレッション」と名付けているわけだ。

実際、第2次大戦直後に対GDPで216%あったイギリスの国債が、10年後には138%にまで軽減されていた。アメリカも、1945年から55年までの期間中、インフレが進んだこともあって、国債の対GDP比率を50%は軽くすることができたと試算している。もちろん戦後はブレトンウッズ体制である。国際的な資本移動が規制され、かつ固定為替レートを維持することが大原則で、今のようにレートの上がりそうな外貨を自由に買えるわけではなかった点も大きい。今日のような資本移動が自由なグローバル金融市場を相手にそんなことができるのか疑問に思うかもしれない。しかし、自己資本比率規制だってその一種なのだ。要は、決め方一つで金融抑圧政策は実行可能である。それが二人の著者の言いたいことである。

日本の財政再建についても、いま、震災復興財源を国債増発にするか、増税にするかを議論している最中だが、国債償還については何らかの形で金融抑圧政策を採らざるをえないだろうというのが、先日紹介した岩本康志氏の予想でもあった。この点は、どうやら世界的な潮流になりつつある。

もちろん疑問も残る。デフレが続く場合は、いくら金融機関を抑えつけても資産利回りをゼロにするのがせいぜいで、それでも実質金利はプラスである。その実質金利ほどは経済成長できるのかが問題になる。日本の場合は、デフレと財政赤字が複合しているので、デフレ治癒に効力のある政策がもう一ついる。その意味では、財政再建を目指したラインハート達の提案は、それ単独では、Japan Diseaseを治すに十分ではないと思われる。

おそらく数年後には、中国の人民元が変動相場制に移行して、中国金融市場も自由化されていくことになるだろう。そうなると、日本の国内資本が、利回りの高い中国にあっという間に流出する可能性がある。元高・円安が進み、同時に日本国内では株安と国債価格暴落が起こる。こんな可能性が、多くのエコノミストによって心配されている。しかし、多くの専門家が心配する事態は、予想されるが故に、そうならないように事前に対策が施され、実際にはそうならないものだ。その施される対策が、おそらく為替取引のリスクをカバーするための安全経営基準の強化になるだろう。外国の高利回りの金融商品を購入する場合には、相当の死に金を中央銀行に積み増すことを強制されるという規制強化策が実施されよう。そうすれば海外に資金は出られない。これ即ち、金融市場に輸入課徴金を課する政策と同じであって、金融自由化とは逆の方向へ歩むことになる。

いつでも反自由化政策は国内の事情から選択される政策である。

リーマンショック後遺症から脱却できないでいる世界は、日本がそういう政策を実施しても反対しにくいだろう。というより、ギリシア、アイルランド、ポルトガルなどのソブリン危機に怯える欧州が率先して金融抑圧政策に目を向けている。

今はそんな時代である。日本の財政当局も、世界の潮流をよく見ながら、財政金融と震災復興そして国民生活。この三者のバランスをとってほしいものである。ただただ耐乏生活を日本国民にお願いするという政策は、一つの選択肢ではあるが、工夫次第でやり方はいくらでもある。行政で食っているプロであれば、「芸術」とすらも思われる程に洗練された高度の行政技術を展開してほしいものではないか。



2011年6月16日木曜日

外貨準備取り崩し論に対する官僚の反対について

大震災からの復興財源として増税か、国債増発かの議論が堂々めぐりしている。最近は、政府が保有している外貨準備を取り崩して「財源」に充てるべしとの議論も盛んになってきた。具体的には外貨の相当部分が米国債に運用されているので「米国債を売れ!」という主張にもなるわけであり、「これは気持ちがいいよねえ、日本人としては」・・・ま、しようもない単なる感情論ですな。しかし、外貨準備売却論はよい筋をついていると、小生には思われるのだ。

それに対する反論は色々ある。まずは円高を招くという指摘。ドルを売って、円に戻す以上、円の対ドルレートを上げる副作用があるのは事実だ。次に、政府が保有している外貨準備は、元々、政府が外為市場に介入する資金を調達するため政府短期証券を発行し、その見合いで得た円資金でドルを買ったものだ。だから政府が米国債を売ったとしても、それはそのまま短期証券返済に充てられるだけであり、故に復興事業の財源とはなりえないのである。こういう論理もよく耳にする。

確かに22度末現在の日本の対外資産と負債を整理すると、以下のような数字になる。



資産側(単位:10億円)
直接投資
証券投資
金融派生商品
その他投資
外貨準備
資産合計
67,691
272,518
4,287
129,700
89,330
536,526



負債側(単位:10億円)
直接投資
証券投資
金融派生商品
その他投資
負債合計
17,502
152,451
5,267
136,810
312,031


資産負債を差し引きすると、対外純資産は何と251兆円の巨額に上る。その内訳は民間分門が205兆円、公的部門が46兆円だ。

外貨準備を売ればよいという提案は、上の表の資産側に立っている外貨準備89兆円に着目したものだ。反対論の「外貨は政府短期証券との見合いで保有しているにすぎない」という指摘は、日本と外国の債権債務関係を示した上の表には出てこず、日本内部の貸し借りの話しになる。確かに、日本全体が外国に持っている資産ではありますが、それは政府が民間から借りた金でドルを買ったまでであり、そのドルは政府のお金ではないのですよ。持ち主が別にいるのです。そう言う意味である。

財務省の公表結果を見ると、公的部門が対外純資産46兆円をもっていることも分かる。これを売却したらどうかと提案すれば、今度は「この項目はお金としてすぐに使えるわけではなく、色々なものに投資されている。それをお金に戻すには時間がかかる。売れるかどうかの確証もない」そんな反論が返ってくるであろう。

こうして議論は、果てしもなく細かい話となり、必要となる知識・情報はますます狭い領域に限定されたものになり、最後には細かいことをよく知っている人たちが「私たち専門家に任せておいてください」という結論になる。これこそ官僚政治のエッセンスなのである。

経済学は細かい点には執着しない。基本的な関係だけをとりあげる。個々の行政技術とは別の見方をする。だから官僚国家は有能な経済学者を育成することを本音では嫌う。

そもそも政府だろうが、家計だろうが、企業だろうが、資産を売却するのは、借金を重ねるのと同じである。どちらにしても純資産が減るのだから。借金をしようにも、これ以上貸してくれる銀行がなくなるから、その金額分、資産を売らざるを得ないのだ。国債をこれ以上新たに増発するわけにはいかないので、売却が容易な外貨準備の存在を指摘しているのである。

ところが、日本政府が言っていることは、「玄関を修理しないといけないのだが、家の財産を売るわけにはいかない。預金も伯父さんから借りたものだから取り崩せない。銀行からも借金を増やせない。だから、みんなの小遣いや家計費を削るしかない。こらえてくれ。」家族にそう頼み込む一家の世帯主と同じである。

やり方を工夫すれば、家族の生活水準を低下させることなく、災害で損壊した玄関を修繕することができるにもかかわらず、「貯金を取り崩すことはできない」と執着するが故に、多数の人に忍耐をしいて、設備を修繕する。こうした政策理念そのものが、日本人全体を追い込み、心を貧しくし、日本人の幸福度指標を低いものにしていることが分からないのだろうか。まるで1930年代に社会主義国家建設に邁進していたスターリン時代のソビエトと同じ理念ではないか。

共産党が支配する中国は、人民元のレート上昇に介入するために既に3兆ドルを超す外貨準備を保有している。日本は1兆ドル強で世界第2位。あとはロシアの5千億ドル、サウジアラビアも大体同じ、以下多数の国が続いている(週刊エコノミスト、6月14日号、22ページから引用。日本は2011年4月末、中国は2011年3月末、他は2009年データ。元データはIMF)。誠に、外貨準備に関しては、日中が断トツ、堂々の2強である。

こんなに巨額の外貨準備を政府が手元に持つ必要があるのだろうか?その外貨は元々民間のものなのですと言うのであれば、資金が必要な現在、民間に戻せばよいではないか?意味があるかどうかも定かでない市場介入のために持っておくなど、それこそ死に金ではないか。

明暦の大火で焼亡した江戸城天守閣を再建するための資金調達を議論したとき、保科正之が必要もない天守閣再建にカネを使うより、江戸市民の生活再建に活用しようではないかと提案した故事を忘れたのだろうか?

政府の外貨準備を売却しても、それは確かに「財源」ではない。しかし、ドルを売却すれば円資金ができる。日本政策投資銀行に使わせればよいではないか?被災地融資枠を20兆円位簡単に増額できるではないか?復興事業に参加する経営者、企業に低利長期融資するだけで、相当の恩恵が及ぶではないか?地方債を買えるではないか?被災した土地を国あるいは自治体が買い上げる資金にもなるはずではないか?

短期証券は財投債にそのまま振り返ればよい。

こうしたことの検討をすべて閑却し、ただただ「皆さんの収入から頂く租税を増やすしか方法はございません」。こうオウムのように政府に言い続けさせようとする官僚がいるとすれば、智恵がなく、誠がなく、愛がなく、ないない尽くしで、頭の悪い人たちであると思われるのだが、いかがであろう?

2011年6月15日水曜日

「脱原発」の潮流は巨大な津波になるか?

イタリアの国民投票で脱原発が可決されベルルスコーニ首相も敗北を認めた。このところの一連の動きを石原自民党幹事長が「理解はできるが集団ヒステリー」という言葉で形容したことが、一部で批判されたりもしている。

4月19日号と言えば大分以前になるが、週刊エコノミストが「電気がない!」特集を組んでいたので、図書館でパラパラとめくってみた。関心を引いたのは「世界の原発計画への影響―原発は再び冬の時代へ」という記事だった。そこで欧州、新興国、米国と分けて、原発に対する政府の対応、世論の動きを整理してくれている。

その後の動きで分かっていることも加えながら、現状の覚書きとして、ここに記しておきたい。

【1】欧州

欧州は1986年のチェルノブイリ原発事故の経験があるから福島第一への反応も早かった。国民投票で脱原発を決めたイタリアも、そもそもチェルノブイリ後の87年に原発廃止を決定、稼働していた20基の原発は90年には全て閉じられた。そろそろいいかと思った矢先、福島で事故が起こったわけである。同時期に、英国もポーランドも原発新設を見送る決定をしている。欧州は、チェルノブイリの惨状を見て、原発に「待った」をかけたのだ。そんな流れの中で、再びFukushima Nuclear Accidentが勃発した。当の日本人の政治家がヒステリーと称するのはどうでしょうかねえ?

ドイツ:
3月15日。メルケル首相が、80年以前に稼働した老朽原子炉の3ヶ月間停止を指示。
その後、6月6日に脱原発を閣議決定したことは先日報道のとおり。

スイス:
3月14日。新設予定3基の審査凍結。
その後、5月25日に脱原発を閣議決定。

イタリア:
4月23日。新規原発審査を1年間凍結と決定。
その後、6月15日に国民投票を実施。脱原発を可決。

ブルガリア:
耐震性強化策の実施を決定

フランス:
サルコジ大統領「当面は、脱原発はありえない」と声明。

英国:
10基の新設計画。政府は「英国では政策変更の必要性なし」と主張。
直近(4月か?)の世論調査で「原発反対」が37%、支持の10%を大きくうわまった。

ポーランド:
原発導入計画があり。世論調査でも推進が65%、反対の35%を上回る。国民投票には応じると首相発言。

スウェーデン:
原発依存率5割。2009年に原発寿命延長を可決。

【2】新興国

最も原発建設に熱意をもっている。

中国:
3月16日。新規原発建設計画の審査・承認を一時停止。
第3世代原子炉は福島のような第2世代よりは格段に安全と政府説明。

イスラエル:
同国初の商業用原発計画を「再考する」と首相発言。

ベネズエラ:
原発計画を断念すると大統領が発言。

タイ:
原発計画凍結を決定。

トルコ:
原発計画を停止する考えはないと首相発言。

【3】米国

世界最大の104基が稼働中。原発依存率は20%。しかしスリーマイル島事故(1979年)から30年間、原発新設は凍結。オバマ大統領就任後から政策見直し。10年1月の大統領教書で原発再開を宣言。

福島後に実施された世論調査では、原発建設支持派が43%と大きく減少。「国民の安全のため責任ある対応が必要」と大統領がNRCに安全性見直しを指示。3月25日。NRCは、新設予定のボーグル原発2基について問題なしと発表。ゴーサインとなる。

【4】国際機関

OECD: グリア事務局長「原発は欧州の電力供給で重要な位置を占める」
IEA(国際エネルギー機関): 田中事務局長「地球温暖化対策のためには原発は不可欠」
IAEA(国際原子力機関): 天野事務局長「原子力発電は安定したエネルギー源」

ここまでの整理で抜け落ちているのはロシアだが、ロシアは再処理サービス込みの原発プラント輸出、エネルギー輸出を国策にしている。エネルギー立国である。一般に東欧諸国は、エネルギー面でロシア依存から脱したいという希望を本音ではもっているはず。国内原発建設を断念して脱原発に舵を切れるかどうか。フランスだって原発が好きなわけではない。エネルギー自給率上昇を目指す国家戦略に基づき、努力すること40年。その結果、現在の原発依存率8割という状況がある。

こうみてくると、原子力発電も国家の戦略そのものであることが分かる。太陽光など新エネルギー開発も一つの戦略。原発維持も一つの戦略である。いずれの戦略をとるかで、関連産業の盛衰、その国のエネルギー価格の高低、その国の産業構造、国民の就業構造、ライフスタイルに至るまで全てが影響を受ける。―― 小生はベンチャー好みだから、新エネルギーに賭けたいという気持ちが、あることはある。

こうした問題を解決するのに、自由な市場による解決が効率的(=速く正解をみつける)か、国家レベルの計画が効率的か、決して定かではない。一般的には、解決までの時間が重要であったり、個別活動の実行手順の前後によって結果の成否が強く影響される場合には、トップダウンの計画原理が分散処理型の市場原理に優越する、と言われている。しかし、エネルギー問題の解決には、非常に多くの情報を評価しないといけない。市場による解決に分があるとも考えられる。しかし不確実性が無視できない時は市場システムは駄目だ。均衡点が複数あると考えられる場合も市場は駄目だ。まあ、専門家だってこんな感じである。

で、国民投票となる。

政府の決定権限と、自由な参入と自由な販売を担保する市場経済。この二つの混合レシピが、今後将来のホットイシューになるだろう。

今度新しく作りなおす「新エネルギー戦略」は、政府にとって想像を絶する超難問になること間違いなし。詳しくもなく、知識もない内閣が、その時の思いつきで口を出しては台無しだ。と同時に、理念がなければ決められない。理念を指し示すのは政治家だ。ここでも政治哲学と行政技術の絶妙のレシピが求められている。

脱原発の潮流が、今後、巨大な津波になるほどの動機を各国が持っているとは思わない。それはそうなのだが、日本国がエネルギーをめぐって乱気流に突入する可能性は、決して無視できないと思っている。

2011年6月14日火曜日

日本、持たざる国?

持てる国と持たざる国などという言語を使うと、それこそ戦前期軍国主義に道を開いた元首相・近衛文麿の思想の轍を踏むことになる。

ちょっと調べ物があって、昨年(22年)版の経済財政白書をひもといた。先日の投稿では、日本の経常収支黒字の半分以上を所得収支の黒字が占めるようになった。そう指摘した。つまり、モノの輸出超過ではなく、過去の海外投資から得られる資産運用収益が急速に増えてきているのだ。―― 所得収支には、資産運用収益の他に、海外で働いた労働所得も含まれる。が、日本ではそれほどの金額には達していない。たとえば欧州大陸では、スイスからフランスに通勤する人もいるので、スイス人が外国であるフランスから給与を支給される場合も結構ある。

日本の弱点は、この海外資産の運用利回りが大変に低い点。よくそう言われる。

世界の中の富裕国は、いまでもアングロサクソン。英国と米国である。両国の対外資産運用利回りは2000年以降、大体11%という高さである。日本は、2000年代前半には6%程度にとどまっていたが、後半には7~9%に上がった。それでも傾向としては米英の半分ちょっとというのが日本国の財テクだ。(上記「経済財政白書、365~366ページ)。

日本の運用利回りを上げた要因は、地域で見るとオセアニアと中南米。意外やアジアではないのですね。対オセアニア投資など、何と年利20%。これは鉱物資源投資だ。資源価格高の恩恵なのですね。だから価格動向次第でもある。

反対に、アメリカ、EUへの投資は低利回りだ。利回りが5%になるかならないか。対アジア投資は、その中間。大体10%強の利回り水準になっている。

トータルすると日本の対外投資利回りは、2007年、2008年には、8%位まで上がってきた。リーマン危機のあった2008年には、英国の損失が巨額に達して、英国も日本と同程度になってしまった。そんな状況である(アメリカは依然として高く10%を超えている)。確かに、日本の海外投資のやり方は下手だなどと批判されてきたが、既にそれほどの遜色はないと言える。日本国内に投資をした場合の期待収益率は、安全投資の国債が1%ちょっと、東電債がこないだまで3%位ですか。これでは涙が出る。どこの企業も日本国内には事業投資したくない。それも道理なのである。

日本は、東日本大震災によるサプライチェーン寸断で生産機能が損壊し、春以降は貿易収支が赤字になった。5月など上中旬だけで1兆円を超える大赤字だ。それでも経常収支全体では、黒字を保ち、対外資産を今なお増やし続けている。6月以降は生産態勢も整い、また再び海外への輸出が再開されるだろう。海外から資産運用収益が流入する金額は今後も必ず増える見込みがある。

簡単にいうと、日本は「豊かな国」、つまり古臭い言葉でいうと「持てる国」へと歩みつつある。不思議だ。一生懸命に持てる国になろうとして、ついには戦争へと突っ走った1930年代。すべてを失ってから、やっと社会システムを改革し、今度は本当に豊かな国へと歩みつつある今の日本。考えさせるものがある。心配な点は、強いてあげれば、為替レートがもっと安定してほしい。それくらいだ。

それでもなお、日本の海外投資残高は、歴史が浅いために、小さい。対GDP比で対外直接投資残高を比べると、イギリスが断トツで60%程度をずっと守っている。ドイツが上昇しつつあるが直近で40%位。アメリカも上昇しつつあるが直近で20%位。日本は、更にその半分。上がっているが10%強だ。―― 韓国も同程度で10%位。中国はずっと低い。そうなっている。(上記「経済財政白書」364ページ)(注)フランスのデータが白書では示されていないが、元データが確認されなかったと推測する。データがあればフランスの対外投資残高も高いはずである。

上は、ストックで見た対GDP比。「これだけ財産を持っています」、そんな意味合いだ。では、投資フローの対GDP比はどうだろう。「近頃は、毎年、これだけずつ投資しているんだよね・・・」そんな目線である。これでもやはり、英国、ドイツが高い。日本はアメリカと同程度だ。―― それにしても経常収支赤字国のアメリカが対外投資!?・・・不思議ですよねえ。それは外国から低利で金を借りて、高利で又貸ししているからだ。短期借りの長期貸し。それで巨額の利益を獲得している。すごい!これこそ「芸術」であると昨日の投稿では力説した点です。アートとサイエンスを融合した金融サービスの面目躍如たるものがある。

まあ、このように日本を一家族と考えた場合、資金繰りは全く(もちろん、この世に絶対ということはないけれど)問題はないのである。頑張っている割には、投資利回りが低いのは、歴史が浅く、先行した欧州諸国が美味しい利権を押さえているためだ。残っている部分をゼロから発掘しないといけない。そういう弱みがある。

ただ、これは言える。技術革新によって実物資産は陳腐化するリスクを常に秘めている。そういう点から発想すると、トラディショナルな尺度で評価される資産を多く抱え込んでいないことは、守るべき利権が相対的に小さい。その分、思い切ったイノベーションを進めることもできる。そうも考えられるのではないか。保守的態度は、日本のような国には、決して似合わないのですよ。

日本のFukushimaが引き金を引いた脱原発のうねり。これが、根こそぎ従来型の原発事業を過去のものにしてしまうのか?それはまだ分からない部分が多すぎる。しかし、この潮流が今後10年間に進む研究開発投資を方向づけることは、ほぼ確実だ。その方向転換は、二度の石油危機に匹敵するほどの影響を生産技術に与えるだろう。省石油・脱石油が進んだと同じように、政治が声をかけなくとも、省原発・脱原発が事実として進むだろう。「成長の限界」は、こうして常に突破されてきた。その努力の一つの現われが、メガソーラー事業となって、早くも顕在化している。そう見ておくべきではなかろうか?

もちろんイノベーションとは<技術革新>だ。言葉の定義からして、現時点では、予想できない事業が今後たちあがって、世の中を変えていくに違いない。もし予見できるならば、既に着手されているはずだからだ。

そう考えると、日本の対外資産残高が伝統あるイギリスに比べて、まだまだ低水準にとどまっているとしても、それは物事の表側であって、裏側をみないといけない。それが有利に作用することもある。そう期待する余地も大いにある。今日はそう考えたいところです。

2011年6月13日月曜日

モノ作りはもう駄目か?

トヨタの社長が、電力需給の現状をみて、日本におけるモノ作りは限界を超えはじめている。そんな発言をしたよし。

これは一面の真理をついている。というより、日本経済の本筋が、そろそろあらわになってきた、と見るべきだ。

野口悠紀雄氏の「日本を破滅から救うための経済学」(ダイヤモンド社)でも強調している。日本のデフレは、文字通りの物価下落と解釈するべきではない。そうではなくて、グローバル市場におけるサービス高、製品安の価格革命と見るべきだ。日本は、価格革命の中の「負け組」になりつつあるのだ。

その価格革命をもたらした原因は、「冷戦の終結」と「IT革命」。日本は、冷戦の終結がもたらす深い意味合いについて、戦略的・感覚的にいまひとつ鈍感であった。またIT革命の進行についても、それまでの日の丸コンピューターと半導体産業に過剰な自信をもち、IT革命が社会システム、会社組織に要求する課題を理解できなかった。そのために、継続困難な色々なやり方が日本には多く残っている。輸出型製造業の経営環境も、世界経済の本筋の中で、見ないといけない。そんなことを野口氏は言っている。

よく言われる高付加価値とは、いかに顧客満足度を高めるかであって、それはモノ作りというより、満足の提供、つまりはサービス生産にまで足を踏み入れているわけだ。純然たるモノ作りの場に立てば、新興国の低コストに太刀打ちできないことは明らかだ。

小生の弟がいわき市で化学エンジニアをやっている。父親に似たのかその息子も理科系科目が好きだそうである。しかし、大学の工学部には行かないと言っている。エンジニアになって製品を作るのは、もはや日本では難しいと感じているのだろう。その甥は、ビジネス・ミュージックの世界に行きたいそうだ。PCで作曲などをして楽しんでおり、先日はそのソフトを進学祝いに買わされた。その父親は「そんないい加減な仕事で、一生やっていけるのかなあ?」と心配している。

音楽とイラストレーション、ストーリーを組み合わせて複合芸術を構成し、それを不特定多数に販売してビジネス化するという発想は、19世紀ヨーロッパ音楽界が生んだワーグナーの楽劇を連想させないでもない。今流の言葉に直すと、「アート・マネジメント」ですね。実は、この仕事、私のかつての教え子が、某運送会社に勤めているのだが、ゆくゆくはアート・ビジネスを仕事にしたい。そんな話しをしている。

アート・ビジネスは、その場で商品を提供するサービス業ともいえない。アートは、各種メディアを通して販売できる。ネット上で展開することもできる。ダイレクトに展示、提供することもできる。半分はモノである。模倣の困難なオンリーワン・ビジネスを構築しやすいモノである。模倣困難であるが故に、価格支配力をもたらし、高い収益率を実現する。ディズニーのビジネスモデルがそうであります。スタジオジブリもそうである。

サービスには金融サービスもあれば、損害保険サービス、生命保険サービスもある。これらはアングロサクソンが強い。アメリカは、金融バブル盛んなりし頃、国民所得の25%を金融ビジネスで稼ぎ出していた。英米の金融サービスは他国には真似が困難である。もちろん日本は純債権国である。自国の持っているマネーを、世界に投資して、高い利回りを稼ぎ出すことを目指してもよい。しかし、アラブの産油国も中国も日本もマネーの運用は英米に任せている。それを使って、稼いでいる。これは立派なアートだ。芸術である。金融は、更に金融工学というサイエンスという衣までまとっている。音響と色彩ではなく、富を主題としたアートとサイエンスの総合。それでアングロサクソンはこの20年やってきた。

モノ作りはもう限界だ。では、日本人は何をやる?

マネーを増やすことよりも、多くの人に満足を与える、多くの人から感謝される、そう思うならそんなサービスをビジネスにすればいいのである。それができるように、小さい時から教育すればいいのである。豊かになるためである。

日本人が描いてきた大和絵、狩野派、琳派、浮世絵が、全体として伝えている魅力は、日本人よりも外国人が知ってますよ。衣裳芸術もそうです。概して、色彩感覚は同じ東アジアでも中国、韓国の美術から明確に差別化されていると感じる。ドイツの絵画がフランス絵画とはっきり差別化されているのと同じである。モノ作りもそうだ。豊かな世界をもたらすためのモノを作る。これを理念としてほしい。単に用を足すだけのものではなく、買い手の生活を豊潤なものにするモノだ。繊細で心を尽くしたモノ作り。その代わり、価格は高めである。小生は、こんな文化的活動こそ、日本人の本来的な意味での「お家芸」だと思うのだ。はっきりいえば、労働集約的文化活動をメシの種にするべきです。そのためのプロモーションを国家戦略として展開するべきである。そのための人材育成には、授業料全額支給くらいのことはやってほしいものである。それは何もステートアマを養成せよと言っているわけではない。まだ残っている雑多な補助金より、よほど生産的であると言いたいわけです。

財界本流の中の本流企業の経営トップが「モノ作りの限界」について語ったことは、時間がたってみれば、これが分水嶺になっているかもしれない。モノの生産では、やれ猿真似とか、模倣技術とか、散々揶揄されてきたではありませんか?日本人の本来の得意分野でこれからは勝負していく。それをモダナイズして、アート産業を育てていく。個人にまかせるのではなく、社会的に支援していく。工業団地ではなく、芸術の村を作っていく。製造業はオンリーワンだけ残ればいいじゃないか。そういう発想も不可欠だと思うのだが、どうだろう?暴論だろうか?それこそ今後の日本の国家経済戦略ではなかろうか?

本日、時ならぬ寒さに喉をやられて熱っぽい。この辺で。

2011年6月12日日曜日

日曜日の話し(6/12)

趣味が高じて、画集はたくさん買った。愛読しているイッキ描きブログの菊池理氏に影響されて、ブックオフで画集を探すことも増えてきた。

画集では冴えないが、作品実物の凄い美しさに吃驚する画家、画集と本物が大体同じ画家、画集で魅力を感じるほどには本物から感動を受けない画家。この三通りがある。

東京へ行くときは、なるべく時間をみつけて、美術館や展覧会に足を運んでいるが、嬉しいのは本物が想像を超える最初のタイプの画家ですね、やはり。

セザンヌは、私にとってはその典型。画集であれほど冴えない画家はいないのではなかろうか?ずっとそう思ってます。「ほんとに、この人、上手なんだろうか」とね。しかし、セザンヌの作品本体の色の美しさは信じられない程である。

最近の経験は、昨年、丸の内の三菱一号館美術館でみたカンディンスキーだ。彼はロシアに生まれ、モスクワ大学で法律、経済学、統計学を勉強し、大学で社会科学者になることを目指していた。それが30歳になって、突然炎のごとく、芸術への渇望を覚えた。画集の解説には、そんな風に書かれている。ドイツ・ミュンヘンに絵の修業に行き、ほか数人と集団「青騎士」を立ち上げる。カンディンスキーは元祖抽象派なのだが、小品もロシア風イコンも描いていて、それが誠に素晴らしい。小生のPCのデスクトップは下の絵を飾っています。


この絵、あまり有名な作品ではなく、何となく(というか、誠に)僚友クレーの風合いが感じられる。ただ小生のPCでは、"Kandinsky02.jpg"というファイル名になっている。中々確認がとれないのですが、私の中ではカンディンスキーになっている。そんな絵なのだが、ずっと使っている。モネの「積みわら」をみて、最初何が描いているのか分からないままに「いいなあ」と感じたのが、画道の出発点であったよし。