2011年6月13日月曜日

モノ作りはもう駄目か?

トヨタの社長が、電力需給の現状をみて、日本におけるモノ作りは限界を超えはじめている。そんな発言をしたよし。

これは一面の真理をついている。というより、日本経済の本筋が、そろそろあらわになってきた、と見るべきだ。

野口悠紀雄氏の「日本を破滅から救うための経済学」(ダイヤモンド社)でも強調している。日本のデフレは、文字通りの物価下落と解釈するべきではない。そうではなくて、グローバル市場におけるサービス高、製品安の価格革命と見るべきだ。日本は、価格革命の中の「負け組」になりつつあるのだ。

その価格革命をもたらした原因は、「冷戦の終結」と「IT革命」。日本は、冷戦の終結がもたらす深い意味合いについて、戦略的・感覚的にいまひとつ鈍感であった。またIT革命の進行についても、それまでの日の丸コンピューターと半導体産業に過剰な自信をもち、IT革命が社会システム、会社組織に要求する課題を理解できなかった。そのために、継続困難な色々なやり方が日本には多く残っている。輸出型製造業の経営環境も、世界経済の本筋の中で、見ないといけない。そんなことを野口氏は言っている。

よく言われる高付加価値とは、いかに顧客満足度を高めるかであって、それはモノ作りというより、満足の提供、つまりはサービス生産にまで足を踏み入れているわけだ。純然たるモノ作りの場に立てば、新興国の低コストに太刀打ちできないことは明らかだ。

小生の弟がいわき市で化学エンジニアをやっている。父親に似たのかその息子も理科系科目が好きだそうである。しかし、大学の工学部には行かないと言っている。エンジニアになって製品を作るのは、もはや日本では難しいと感じているのだろう。その甥は、ビジネス・ミュージックの世界に行きたいそうだ。PCで作曲などをして楽しんでおり、先日はそのソフトを進学祝いに買わされた。その父親は「そんないい加減な仕事で、一生やっていけるのかなあ?」と心配している。

音楽とイラストレーション、ストーリーを組み合わせて複合芸術を構成し、それを不特定多数に販売してビジネス化するという発想は、19世紀ヨーロッパ音楽界が生んだワーグナーの楽劇を連想させないでもない。今流の言葉に直すと、「アート・マネジメント」ですね。実は、この仕事、私のかつての教え子が、某運送会社に勤めているのだが、ゆくゆくはアート・ビジネスを仕事にしたい。そんな話しをしている。

アート・ビジネスは、その場で商品を提供するサービス業ともいえない。アートは、各種メディアを通して販売できる。ネット上で展開することもできる。ダイレクトに展示、提供することもできる。半分はモノである。模倣の困難なオンリーワン・ビジネスを構築しやすいモノである。模倣困難であるが故に、価格支配力をもたらし、高い収益率を実現する。ディズニーのビジネスモデルがそうであります。スタジオジブリもそうである。

サービスには金融サービスもあれば、損害保険サービス、生命保険サービスもある。これらはアングロサクソンが強い。アメリカは、金融バブル盛んなりし頃、国民所得の25%を金融ビジネスで稼ぎ出していた。英米の金融サービスは他国には真似が困難である。もちろん日本は純債権国である。自国の持っているマネーを、世界に投資して、高い利回りを稼ぎ出すことを目指してもよい。しかし、アラブの産油国も中国も日本もマネーの運用は英米に任せている。それを使って、稼いでいる。これは立派なアートだ。芸術である。金融は、更に金融工学というサイエンスという衣までまとっている。音響と色彩ではなく、富を主題としたアートとサイエンスの総合。それでアングロサクソンはこの20年やってきた。

モノ作りはもう限界だ。では、日本人は何をやる?

マネーを増やすことよりも、多くの人に満足を与える、多くの人から感謝される、そう思うならそんなサービスをビジネスにすればいいのである。それができるように、小さい時から教育すればいいのである。豊かになるためである。

日本人が描いてきた大和絵、狩野派、琳派、浮世絵が、全体として伝えている魅力は、日本人よりも外国人が知ってますよ。衣裳芸術もそうです。概して、色彩感覚は同じ東アジアでも中国、韓国の美術から明確に差別化されていると感じる。ドイツの絵画がフランス絵画とはっきり差別化されているのと同じである。モノ作りもそうだ。豊かな世界をもたらすためのモノを作る。これを理念としてほしい。単に用を足すだけのものではなく、買い手の生活を豊潤なものにするモノだ。繊細で心を尽くしたモノ作り。その代わり、価格は高めである。小生は、こんな文化的活動こそ、日本人の本来的な意味での「お家芸」だと思うのだ。はっきりいえば、労働集約的文化活動をメシの種にするべきです。そのためのプロモーションを国家戦略として展開するべきである。そのための人材育成には、授業料全額支給くらいのことはやってほしいものである。それは何もステートアマを養成せよと言っているわけではない。まだ残っている雑多な補助金より、よほど生産的であると言いたいわけです。

財界本流の中の本流企業の経営トップが「モノ作りの限界」について語ったことは、時間がたってみれば、これが分水嶺になっているかもしれない。モノの生産では、やれ猿真似とか、模倣技術とか、散々揶揄されてきたではありませんか?日本人の本来の得意分野でこれからは勝負していく。それをモダナイズして、アート産業を育てていく。個人にまかせるのではなく、社会的に支援していく。工業団地ではなく、芸術の村を作っていく。製造業はオンリーワンだけ残ればいいじゃないか。そういう発想も不可欠だと思うのだが、どうだろう?暴論だろうか?それこそ今後の日本の国家経済戦略ではなかろうか?

本日、時ならぬ寒さに喉をやられて熱っぽい。この辺で。

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