2019年2月10日日曜日

一言メモ: 「独立した第三者委員会」の役割とウソ

最近、何かと言えば「独立した第三者委員会」を設けて云々、「身内による調査」は信用できない云々、不祥事を社内で調査するのはダメ云々、第三者なら客観的調査ができる云々・・・と、要するに部内者はダメで、部外者ならOKという世間の流れが明瞭に見て取れるようになった。

小生が某官庁で雑用をしていた時代の常識とは、まあ言ってみれば「真逆」である。その頃、強調されていたことは「自浄作用」という言葉であった。

そういえば「自浄作用」というキーワードは聞かなくなったネエ・・・もう「自浄」など期待しなくなったか、それで「部外者の目」ということになっているのか?

「第三者委員会」になぜこれ程期待するのか、その本質的理由は小生はまだ理解できない。単なる流行かと感じたりもしている。

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こんな記事が日経にある:

賃金構造基本統計の不適切調査を巡り、政府が6日、原因究明を総務省行政評価局に担当させることを決めたのは、同統計を所管する厚生労働省の内部調査に委ねたままでは中立性への疑念が解けないためだ。ただ同じ政府内の「身内」が調査することに変わりはなく、独立した第三者による調査ではない。

(出所)日本経済新聞、2019年2月7日

厚労省の行政手続き(統計調査上の手抜きは明らかに手続き的な問題だ)を、総務省の担当部局が検証することまで「身内」と言い始めるなら、どんな調査なら望ましいのか?

仮に「第三者委員会」というものが設立されたとしよう。そこには政府関係者は入らず、したがって役人OBも入らず、純粋の民間人のみで委員会は構成されるとしよう。これならまったくの「第三者」である。

しかし、こんな「第三者」が関係者に事実関係を聴取するとして、関係者は自分に都合の悪いことを正直に話すだろうか?まったく信用できないと小生は思うが、世間は信用するのだろうか?自分に都合の悪いことを話さないだけではない、所属する組織に都合の悪いことも話さないのは確実である。ひょっとすると、都合の悪い点については嘘を述べるかもしれない。

もし第三者委員会に正しい証言を引き出させようと思うなら、その委員会に監察権限を法的に与えなければならないのは当たり前である。しかし、法律で監察権限を与えるのであれば、その段階で第三者委員会は政府機関になり、第三者委員会の活動が人権侵害とはならないよう行政府か、立法府か、司法府かいずれかによる監督が必要である。でなければ、権限を有する第三者委員会の暴走を抑えられないだろう。

この議論をもっと続けることもできるが、議論の発展は概ね予測できるだろう。

要するに、政府とはまったく関係のない「第三者委員会」などは役には立たないし、役に立てようとすれば何らかの意味で公権力の監督下におかなければならない。日本は(今のところ)「日本国」であり、憲法も一つ、権源も一つ、法制度も一つ、つまり調査権限・監察権限・捜査権限いずれでもよいが、法的権限を有するなら全て身内になってしまうというロジックになる。

航空機事故では監督権限をもつ国土交通省に事故調査委員会が設けられる。統計調査を全般的に審査する権限は総務省、つまり中央省庁再編以前の行政管理庁にある。たとえ政府部内の厚労省であっても、まずは権限に基づいて総務省が監察を行うのは当たり前の理屈だ ― 「監察」というほどの力を法的に与えられていない点が問題の核心だが。

もし補強の余地があるとすれば、総務省担当部局の下に調査(=監察)委員会を設け、統計専門家を委員に任命するというやり方がある。そうなれば各種の事故調査委員会と同じしつらえとなる。これをしも「身内」と言い出せば、もはやお手上げであり、日本国は統治困難状態になりつつあると判定されても仕方がない。激しい反動が心配になる。

それでは、もしも同じ総務省の統計局が所管する「国勢調査」で手抜きがあればどうするか?その場合、現業官庁の内部に行政監察を担当する部局が同居していることの矛盾が露呈するだろう。即ち、2001年1月の中央省庁再編成には多分に「いそぎ働き」の側面があるのであって、大問題が発生しないうちに適切な組織再編を行っておかなければならないという結論になる。現在のまま、総務省内で行政トラブルがあるとすれば、たとえば立法府内に「監察委員会」を設けざるを得ない。が、国会の「国政調査権」という概念範囲に入るのか、疑問なしとしない。また、それが今回のように技術的背景を伴うトラブルであるなら、国会を舞台に延々と迷走を続け、国益を大いに毀損するという事態が予想される。

2019年2月8日金曜日

一言メモ: 「行政の事なかれ主義」は100%排除するべきか?

本日の投稿は前稿の続きである。

痛ましい虐待事件に関連してこんな投稿がある ― まったく新聞・TVメディアだけではなく、最近はネット媒体からも格好な批評素材をとってこれる。頭のトレーニング、老化防止には最適である。

行政は何事もなく、無事にいくことを望む。前例を踏襲する。それが「事なかれ主義」だ。仕事が減点主義で評価されるからで、その結果、消極的になってしまう。それが行政側の不適切な対応の原因である。
最後に毎日社説は「子供の命を預かる学校など最前線の意識が乏しければ、痛ましい事件はまた繰り返される」と訴える。かつて聖職といわれた教育者にも、その原点に返ってほしい。
URL: https://blogos.com/article/356575/?p=2


述べられていることは、「基本的に」その通りである。内容を否定するべき理由は何もない。

しかしながら、小生は極度のへそ曲がりである。だから述べておきたくなった。

この種の「問題解決」を目的とした提案には共通のウィークポイントがある。それは、この世界にオールマイティの方法なり、「正しいに決まっている」やり方は一つもない、ということである。つまり、何かを提案する場合、期待されるプラスの効果と起こりうるマイナスの作用の両方を明記しておかなければ提案には値しないということである。

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オールマイティな方法など一つもないというのは、実は小生の専門分野である統計分析にもあり、俗に"No Free-Lunch Theorem"(タダ飯は決してない、という定理)と呼ばれている。具体的には、どんな問題にでも適用可能なベストの分析法は一つもない。与えられた問題の内容をよく理解し、 問題発生の背景・経緯を十分に把握したうえで、もっとも適切な分析メニューを選びなさいというのが結論である。

上の提案では「行政の(=公務員)の事なかれ主義を排せ」と提案している。が、提案するからには「公務員の事なかれ主義・前例主義を排する」という提案のプラスの面とマイナスの面の両方を正しく認識し、この問題にはプラスの効果がマイナスの効果を上回るという根拠を述べなければならない。

いま言った<事なかれ主義・前例主義>の対極にある姿勢を一言でいうなら<積極主義・成果主義>ということになるだろう。ズバリいえば、「功を立てれば評価する」という発想に近い。

この考え方は一般に受け入れられやすい人事戦略なのだと思う。しかし、現実にはそうなっていないとすれば、それには理由があると考えるべきだろう。

本当に官僚集団が成果を追い求め、前例のない試みであっても積極的に挑戦することをためらわない方が良いのだろうか?そうなれば、いわゆる<国民>は利益を享受できるのだろうか?

もし1931年当時、関東軍司令部に石原莞爾がおらず、陸軍全体が前例踏襲と事なかれ主義に徹していれば、満州事変は起こらず、その後の日中戦争も起こらず、したがって太平洋戦争も起こらなかったに違いない ― もちろん別の問題が発生しただろうが。

権力を有する公務員は前例踏襲・事なかれ主義でよいと小生は思う。公務員の前例踏襲と事なかれ主義を背中からプッシュし、問題解決へと叱咤激励しなければならないのは、国民の側の責任である。もし国民の側が何かを要求し始めた時に、前例との不整合や負の波及効果を心配してブレーキをかけようとする公務員がいるとしても、そのこと自体は決して問題ではない。そのほうが望ましい。そんな風に思われるのだ、な。

2019年2月6日水曜日

余計な一言: 家庭内暴力と躾けの曖昧さをどうする?

千葉県野田市内の小学校に通学していた女児が父親に折檻(?)、イヤイヤ、ワイドショーの話を全て信じるとすれば、虐待を受けて死に至ったという事件。連日、TV各局のワイドショーの話題になっている。

そこでは微に入り細を穿つような詳細な話が展開されている。

それにしては、逮捕された父親は、いかなる略歴を経た人物であるのか、勤務先はどこなのか、どんな仕事をしているのか、なぜ沖縄から千葉に転居したのか、それは転勤なのか、同僚が抱いている人柄の印象は、等々ほとんど父親の輪郭が分からずじまいになっている。加害者の個人情報がワイドショーでほぼ何も触れられていないのだな。周辺の関係した人々のことを取材しては、いわゆる「尺をかせいでいる」。

これまでに発生した同種の事件を報道する際には、逮捕された人物、その家族、親族とも、文字通り洗いざらいワイドショーで紹介するという編集で、まさに加害者の身の回りにいる人も含めて「社会的制裁」が臆面もなく繰り広げられたというのが最近の世相だった。

テレビ業界で何か個人情報保護、人権保護に関連して、新しいルールなり、内規が回覧されたのか?それは本年の1月になって発効したのだろうか?まあ、ルール変更があったとしても、こんな具合の悪いことはテレビ局の方が自ら明かすようなことはせんわな・・・そんな風に思ったりしている。

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本日は一言メモ・・よりは長くなってしまったが、覚え書きという事で。

ワイドショーの誰か、その日のコメンテーターが話していた。

家庭内で一切の体罰を禁止するべきではないでしょうか。世界では躾と称する体罰は親であっても禁止する国が増えているんです・・・

確かに増えているのが現状だ。

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最近のように折檻の仕方が分かっていないのではないかと感じるような若い親たちを見ると、体罰は一切禁止という法律も必要かもしれないと思ってしまう。

が、これには大前提があるし、根本的矛盾が日本社会には残されている。

というのは、親が体罰をできなくなるとする。それでも、子供たちは他人に物を投げたり、壊したり、嘘をついたり、殴ったり、色々なことをするものだ。体罰ではなく言い聞かせることになるのだが、後になってから言ってもダメなことは経験から明らかだ。なので、自分の子でなくとも、ダメなことはダメときつく叱る世の中でなければ、子供が成長する過程で正邪善悪を学習できるチャンスが極端に減ってしまうであろう。

つまり、親であっても体罰を禁止するということは、子供の養育、人格形成は社会の責任として、みんなで見守っていきましょう、責任を分かち合っていきましょう、という社会的約束に他ならないのだ。

そんな社会的約束を結ぶ覚悟が日本人にはあるだろうか?

確かに社会全体で、許されない行動をした若年者を誰であれそれを見た人が直ちに叱責するという習慣ができれば、親による体罰よりも望ましい(かもしれない)。両親が同じことをガミガミと口先で注意し続けるよりは、赤の他人から適時適切に叱責される方が子供は素直に耳をかたむけるだろうと想像する。

しかし、現在の日本社会はそんな社会ではない。

昔はガミガミ親父があちこちにいたが、自分の子供が何かで叱られると、叱った大人をにらみつける。そんな若い親たちのほうが今の世相では普通なのである。自分の子に余計なことは言わんといて・・・そんな感覚を日本人は共有してしまっているのではないだろうか。そして、その独立独歩の家族のあり様は、小生、決して嫌いではない。

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何より将来への見通しが大事なのである。

モラルの感覚を十分に発達させることができないままに成長したとしても、日本には日本の法律があり、外国には外国の法律がある。法や道徳を守る感覚が乏しければ、意識するしないによらず、失敗を犯しがちである。

そんなとき、当初の何度かは説諭、つまり説教をされるのであるが、成長したあとでは素直に従う感覚が身についていないだろう。そこで繰り返す。すると、最後には処罰されることになる。

家庭内で体罰は禁止。他人が自分の子をたたけば暴行。それはいい。しかし、長じて法を犯して禁固刑や懲役刑を受けてしまえば、それは社会による体罰となる。そして、最悪の場合、日本には死刑がある。死刑は究極の体罰と言えるだろう。

体罰を禁止することは理念としては尊い。しかし、社会から一切の体罰を禁止することは非現実的である。加えて、日本人の多くは今なお究極の体罰と言える死刑を維持しようと考えていることは世論調査から明らかだ。

「家庭内体罰一掃」と「死刑容認」は根本的に矛盾した精神だ、と小生の目には見える。死刑容認が多数派だとすれば家庭内体罰容認が多数であるのが合理的である。家庭内体罰一掃を支持するなら刑罰として死刑を認めないのが理に適っている。両親による体罰は不可だが、公権力による処罰なら懲役も死刑も仕方がない、と。もしそう考えるなら、日本人はもはや自分の子供の養育に責任は持たないと宣言するのと同じだと、そんな風に見えてしまうのだ、な。言ってもきかないなら、もう子どもの躾は自分の手に余る、ダメなら社会がきちんと罰してくださいと。そういうことになるのではないか、理屈は。

そんな態度は親じゃあネエよ。無責任な丸投げってものですぜ、これは。ホントにそれでいいんですかい?親はいけねえが、お上なら体罰OKってことになるんですかい?親が親になれねえってんなら子供をつくっちゃあイケねえよ。そろそろ日本って国も「国じまい」すりゃあいいのサ。

ほとんど全ての親は自分の子を愛するものだ。鬼手仏心を子供に対してそのまま実行できるのは外ならぬ親であろう。社会から体罰を一切なくしてしまえないなら、子は親にこそ罰してほしい。そう思うことができる家族は決して悪い家族ではないと小生は思うし、むしろ理想型ではないかとすら感じる。それが理想だと思うなら、理想を追求するべきだ。

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家庭内の躾から体罰をなくそうとするには、日本社会の在り方を根本的に変えていくことが不可欠だ。

現時点で、家庭内の体罰禁止を法制化すれば、多くの矛盾が表面化する。持ちこたえられないだろう。

それは現在の日本人の社会に内在する問題だ。

ちなみに小生宅においては、愚息たちに体罰を加えたことが何度かある。それは筋の悪い喧嘩をした時、学級内で粗暴な振る舞いをし、もうしないと約束しながら、また繰り返した時などである。兄弟喧嘩を繰り返した時にも厳しく折檻をした。何度も口でガミガミ、ネチネチと説教するのも確かに選択肢の一つだ。しかし、それが本当に望ましいか、有効なやり方かどうか、小生は疑いをもつ。体罰でより直観的に伝えたいことを伝えられる事がある。家族が暮らす中で言葉は常に万能であるとは限らないのだ。言葉ではなく、行動でこそ心を伝えられる時がある。もうこれは自明であろう。小生は亡父の教育方針から体得した。言葉ではなく経験として、情景として、記憶するのだ。亡父の家庭内教育方針には良い所もあれば、悪い所もあった。悪い所はなるべく継承しないように努力してきた。反対に、良いと感じた所はそのまま愚息たちにも実行してきたのだ。愚息たちは幼少期のことをどれだけ記憶しているか話したことはない。中学校に上がる頃にはもう体罰よりは話す方が主になった。小生の子弟養育は満点ではないと思う。が、まあ60点台の<可>、見ようによっては<良>の成績は確実にもらえるのではないかと自画自賛しているところだ。上の愚息には「兄弟げんかをする時は年上のほうが常に100パーセント悪い」と断定し、随分辛い思いをさせた記憶がある。それは亡父、というより亡父の父親(=祖父)の方針でもあったと聞いている。まあ我が家のDNAのようなものだ。その上の愚息とは両国国技館で夏場所を観ようと相談しているところだ。カミさんも含めて三人になるだろう。愚息もそれを楽しみにしている様子である。

代替案:
体罰禁止ではなく、成熟した養育能力に欠けていると児相、家裁から判定された両親には、親権を一時制限したうえで、外部人材を養育指導員に任命する。定期的に保護観察を行い、親には養育研修の受講を義務付ける、等々。ま、「養育指導員」なる人物こそ実は怪しく、信頼できないのだという指摘もありうる。であれば、それが現在の日本社会の限界でもあり、まずは統計的観点に立って、「子は親と親類・縁族にまかせる」という伝統的方式をとり続けるしか方策はないだろう。例外的な少数例には例外的に特別対応するしかない。多くの家庭は普通の家庭であり、家族を基盤に幸福を実現できている(と思う)、とすれば多数が満足できている社会なのだろう、現代の日本社会は。

2019年2月4日月曜日

一言メモ: GDPにまで延焼してきたか

政府統計の「メルトダウン」は、予想のとおり、年金消失問題と同規模かもしれないほどの広がりを呈してきている。

ただ、年金消失といわゆる「不正統計」(?)との違いは明瞭であって、今回の問題は技術的問題であることがハッキリしている。故に、対応方針としては原因分析をしっかりと行い、”How?"の疑問に正確な解答を引き出すことが大事だ。再発防止が課題であり、動機やら隠蔽やらを議論しても再発防止にはつながらないであろう。

そもそも人は色々な動機をもつものだ。だから個々人の動機とは関係なく、システムの安全を保証できる組織構成が最も重要になる。

再発防止システムを構築すれば改竄や隠ぺいを懸念する必要はない。

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本日の道新朝刊を読むと、GDP統計にまで疑惑の目が注がれ始めてきたようである。

小生も、ずっとその昔、GDP統計にタッチしていたので関心はやはりある。

GDP統計の数字が「なぜそんな数字になったのか?」という疑問は当時からあったものである。注目されればされるほどに「なぜ?」という問いかけは世間から浴びるものであり、その運命から逃れる術はない。それが嫌なら公表しなければよいのだが、公表しなければならないのが政府統計だ。現場の職員にはまったく気の毒な事だ。

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GDP統計は国連が定めているSNA体系に準拠して世界共通の概念定義の下で推計されている。実は、このこと自体を知らない人は非常に多いと思う。

本日の道新には、内閣府が2016年に公表した基準改定と2008SNAへの対応をとりあげている。

参考サイト:内閣府

そこで次のように書かれている:
政府は16年12月の算出方法変更で、新しい国際基準に合わせて「研究開発費」を追加するなどし、1994年度にさかのぼってGDP総額をかさ上げした。・・・(中略)さらに問題なのは、このうち国際基準とは関係なく、推計手法などの変更で盛り込まれることになった「その他」によるかさ上げだ。・・・

中略した部分だが、要するに94~99年度は平均12.4兆円ほどの上方修正、2000~2012年度は18.6兆円の上方修正にとどまるのに対して、アベノミクスが始まった28.3兆円の上方修正になっている。

94~99年度は「過剰債務・過剰設備・過剰雇用」の真っ最中。2000年度から2012年度は、不良債権処理からつかの間の回復、そしてリーマン危機という時代だ。安倍内閣スタート以降の最近年とは経済状況が違うでしょう・・・という感覚はないようだ。

記事は「かさ上げ」と呼んでいるのだが、マア、何と言えばいいのだろうか・・・経済学部の学生ならば『先生、この上方修正の違いなんですけど、基本的な理由は何でしょうか?」と虚心坦懐に質問するはずである。修正を「かさ上げ」などと呼べば『かさ上げだと判断した君の根拠をここで説明してくれない?』と理詰めで追及されるはずである。

大体、小生も経験があるのだが、疑問があれば内閣府の経済研究所に電話をして「上方修正の違いを素人にも分かりやすく説明してくれませんか」と言えばよいだけである。先方も慣れている。よく地方の好事家を相手に小生も小一時間ほど電話で話した事がある。終わると「お疲れさま」と周りの同僚が声をかけてくれたものだ。多忙な時期にはウザいものだが、それでも「いまは忙しいもので」と言ったことはない。それを取材の専門家である新聞社の社員が内容の理解に努力することもせず、非難めいた記事を大雑把に書いて、報道をして、書きっぱなしにする ― 署名だけはしているが。

文章の書き手としては失格だネエ・・・とここで言わなけりゃあ、誰が失格になるんですかい。それが第一印象だ。

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そもそも物的固定資本に加えてソフトウェアも資産として計上したのが93SNA、その後2008SNAでは研究開発コストも企業の中間消費(=GDPの範囲外)ではなく資本形成(=GDPの範囲内)に含めることになった。

この時代を通して、コンピューター・ソフトウェアと大規模・小規模のデータベースの知的資産性が主たる論点として考究されてきている。ビッグデータ、データサイエンスの時代を考えると、今後もSNA体系は変更される可能性が高い。SNAが改訂されれば、その都度、GDP統計も改定されるだろう。それが「進歩」というものである。

上方修正するなら「かさ上げ」、下方修正するなら「隠蔽があった」ことにしたいのは、極めて政治的であって、非科学的な発想である。

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とまあ、小生なりの憤りを書いてしまったが、安倍内閣が発足した2012年末から以降、それまでの奈落の底に落ちるような経済低迷が一転して長期上昇トレンドをたどってきているのは、考えてみれば不思議な事ではある。

「統計の不思議」ではなく、これは世界経済という「リアリティの不思議」なのである。マクロ統計は、リアルタイムでは(つまり速報で確報より前の段階、基準改定より前の段階では)景気変動を過小評価する傾向がある。なので、安倍内閣がスタートした後の時期でGDP統計が相対的に大きく上方修正されている、この事実だけから違和感はまったく感じないのだ。

とはいえ、国際基準とは関係のない、推計手法の変更などから「盛り込まれる」ことになった「その他」の部分がある、この下りには目を引いてしまう。そもそも「推計手法の変更」から「盛り込まれる」ことになる数字など、理屈ではありえない。大体からして、GDPは加工統計である。推計基礎となる一次データとの整合性は常にチェックされている。基準改定時の修正という事なら、基本的には総務省の「産業連関表」がベースとなる。これは一貫して採られている方式だ。産業連関表に「合わせる」というなら理屈は通るが、「盛り込む」ことなどできるはずはない。両者の違いがあれば綿密にチェックされるはずである。

この部分が安倍内閣発足後は上方修正、それ以前は下方修正・・・。う~ん、推計直後はどんな状況だったのかねえ・・・長期平均成長率は既報データより実は高かったということか。失われた20年は、既報よりもっと大きいマイナスで、最近になってからの回復テンポは実はもっと高かった、そういうことだ。

分からないでもない印象だ。が、安倍嫌いの人には気に食わない数字かもしれない。

確かに、安倍内閣には悦ばしい数字には違いない。が、「その他」の修正は年平均で5~6兆円。全体に占める割合は僅か1%程度である。

小生が実際に業務に従事していた頃の感覚では「ノイズの範囲」である。マクロ経済統計は国勢調査のような悉皆調査ではない。標本統計調査を利用して推計しているのがGDPだ。多数の基礎データを使用していると基礎データの遡及改定が案外頻繁にある。それが基準改定時に一挙に表面化する。重箱に残っているメシ粒の1粒や2粒をガタガタ言うな・・・というのは、同僚との食事時の雑談でよく語り合ったものである。

とはいうものの、この点は確かに丁寧な説明が求められるには違いない。国民所得部長か経済研究所長か分からないが、国会にも呼ばれるかもしれない。

でもまあ、呼んでみても「SNA」が分かる人は日本にはほとんどいない。いわゆる「経済学者」もSNAの事には疎い。研究している人がほとんどいなくなっているのだ。エキスパートが投稿する専門学会誌"Review of Income and Wealth"に論文を発表する日本人専門家はほとんどいない。それが現状である。

<GDP問題>を突ついて見ても、「分かったような、分からないような」でウヤムヤ、ムニャムニャ・・・のうちに終わってしまうだろう。それは突つく人、聴く人の専門知識の不足が理由である。

そんな進展をたどることを今から予想しておこう。

2019年2月3日日曜日

一言メモ: 問題はいま噴出しているのだが民主党政権では何があったのだろう

2000年代に入ってから政府統計の「メルトダウン」が進行してきたことは、それ自体としては大問題であるにしても、今の時点で問題確認ができたことは良いことだと観ている。

調べてみると1979年という早い段階で日本オペレーションズ・リサーチ学会の学会誌だと思うが、行政管理庁行政管理局統計企画課(当時)に在籍していた田代文俊氏が以下のような報告をしている。

統計調査の内容も複雑かつ高度化する傾向にある。このことは,他方において報告者である国民の負担が増大することとなり、統計調査の実施が困難になるなど統計調査をめぐる環境は厳しいものとなっている。
更に、現場の担当者による提案として
このためには、統計調査の審査および総合調整の充実強化、時代の要請に即した各種統計の整序、体系化、各省庁の保有する行政記録の統計化の検討、統計用地域基準の設定に関する調査研究の推進、磁気テープ・マイクロフィルム等新媒体を用いた統計調査結果の早期公表の検討、地方統計機構の充実強化、統計調査員確保対策事業の拡充、統計の啓蒙普及の推進等、行政管理庁の各種業務を通じて総合的に当面するこれらの困難な課題に取り組んでいく必要がある。
URL: http://www.orsj.or.jp/~archive/pdf/bul/Vol.24_02_060.pdf

このように実に多岐にわたる問題が、40年も昔から統計業務を総括する官庁の立場から、認識されていたことが分かる。そして、本質的には、2001年1月の中央官庁再編成以降、どれも解決への道筋をたどっていない。それどころか、現実には統計業務の現場の弱体化は深刻化する一方であったという事実に気がつかざるを得ないのだ。

これとは別に、実はこんな指摘もある。

日本統計学会会長(注:当時)の美添泰人・青山学院大学教授(統計学)は「英国のサッチャー政権時に統計予算が半減され、質が低下した結果、GDPや失業率といった重要な統計の信頼性が失われてしまった。日本も同じ轍を踏むつもりか」と怒りを隠せない。

 危機感を持った日本人口学会は、原口一博総務相に意見書を提出。「予算縮減は調査の回収率および調査結果の精度の低下に直結する」「社会科学研究の水準を大きく後退させ、国や自治体の行政施策全般に影響が出る」などと訴えた。
URL: https://blogs.yahoo.co.jp/zhang_r/23138232.html

こうした発言の前に以下の動きがあったようである。

 「国勢調査の成果が目に見えない。何のために実施するのか不明」「もう一度、国勢調査の意味を問い直すべきだ」

 11月17日の事業仕分けで、作業グループからはこんな発言が寄せられた上、広報のあり方見直しを求める意見も多かったなどとして、国勢調査は総務省要求の予算682億円のうち5~10%縮減を求められた。
URL: 上と同じ

いわゆる「事業仕分け」は民主党政権による独自の政策というよりは財務省による演出と観るべき側面が強く、また統計業務を取り巻く環境は民主党政権になって一挙に悪化したわけでもないだろう。

とはいえ、短期的効果の有無を過剰に強調し、増税なき財源にこだわるという民主党の基本方針の中で、政府統計業務の弱体化がその頃に一層加速したという面は否定できないと。そう憶測している。その憶測は民主党政権当時に結構多数の人が共有していた。個人のブログであって裏付けなどはないが、上の文章はそんな共有された印象の一つではないだろうか。

2019年2月2日土曜日

一言メモ: 「政府統計メルトダウン」と「事業仕分け」は関係ある?

今年になって表面化した「政府統計メルトダウン」。

厚労省の毎勤については2004年から「手抜き作業」が始まっていることになっている。他の基幹的な統計についてどうなっているかは今後の検証次第だ。それでも、一連の統計業務の「腐食のプロセス」は2000年に入って以降に進み始めたのではないか。単なる直感だが小生はそう見ている。

2000年より前の時代、特に1997年の金融パニックが生じる前は官僚批判があったにせよ、まだ行政組織は戦後以来の伝統が継続していたという総体的な印象がある。査察権限がなく非力ではあったにせよ行政管理庁(当時)の統計主幹が各官庁の統計担当部局に伝える意見は決して無視できない力を持っていたと記憶している。

混乱と弱体化は中央官庁再編成以後に急速に進んだのではあるまいか。

それと忘れてはならないのは、民主党政権(2009年から2012年)による「事業仕分け」だ。財務省が黒幕であったにせよ「事業仕分け」で(更に一層?)スリム化された事業分野のトップ10くらいは報道する価値があるのではないか。


  • 地価税導入による過激なバブル潰し
  • 護送船団方式の突然の廃止による金融パニック
  • 民主党政権とタイアップした過激な事業仕分け


小生の職業生活を通して気がつくのは、時により信じられない規模の判断ミスを犯すという財務省(旧・大蔵省)の性癖である。その失敗の規模は厚労省の医療行政ミス、国交省の汚職、文科省の天下りの比ではない。権力の暴走と言えるものだ。OBの差し出口を嫌う過剰な現役主義がもたらしている体質ではないかと憶測している。戦前の陸海軍がそうであった。ま、これは脱線。

事業仕分けとの関連。調べればわかる事ではあるが時間と労力を要する。小生も短い記事にしてくれれば大変ありがたいと感じる。

2019年2月1日金曜日

一言メモ: 賃金データの欠損を何とする??

厚生労働省の「統計手抜き」によって毎月勤労統計、賃金構造基本調査など基幹的賃金データの信頼性は大きく毀損されてしまった。

そして、あろうことか、2004年から2011年までの期間については調査原票を廃棄済みであるため正確な数字を復元できないという結論になったということだ。

とすれば、その期間内に発生した労災保険給付、失業保険給付の金額は何を基礎にして清算すればいいのだろうか?

というより、2004年から2011年といえば小泉改革が功を奏して次第に日本経済が復調したあと、2008年にはリーマン危機にみまわれるという非常に重要な時期にあたる。その重要な期間において、労働市場ではどのような動向が見られたのか。こうした実証分析が正確な賃金データの欠損が理由になって出来ないという事態は、日本経済の構造変化を精緻な方法で分析できないということでもあるので、これは先進国としては致命的な失態と言える。

他にどのような言いようがあるだろうか。

原票がダメなら(当時の主たる記録媒体を考慮すれば)磁気テープなりCDディスクなりにデータは転送されていないのだろうか。もし何らかの形で数字そのものはあるのであれば、首の皮一枚で救われたと言うべきだ。

報道では政府全体の統計行政システムを根本から再構築するという見方が出てきているそうだ。が、アメリカ型の分立主義で続けるのか、ヨーロッパ型の中央管理型に改革するのか、改革をするとして現実に指導・実行できる人材が日本にいるのだろうか?

ゴーンさんのように外国から日本に来てくれる専門家など、マア、おりゃあしませんわな。探してもいないはずだ。言うのは簡単だが、大変ですぜ。想像を絶する。

・・・まさに浜の真砂の如く難問は尽きない。

純粋の技術的問題と割り切って問題解決を図るにしても最適解はすぐには出ない。まして門外漢の政治家、ジャーナリストが首を突っ込みながらの進展を考えると、今回の厚労省の大失敗の影響はインフラの毀損にまで及んでいる点で戦後最大級とみている。

本震はまだまだ。本震がおさまっても余震の継続と復興の道筋が見通せないだろう。公的統計の信頼性が国際的観点から回復するのはザっと10年も先の事だろう。小生はそう観ているところだ。

その昔、「狂乱物価」、「オイルショック」の中で大蔵大臣に就任した福田赳夫氏は<日本経済は全治3年>と診断した。今回の政府統計問題はそれよりも根が深く<全治10年>と見ておくべきだろう。

東日本大震災➡原発事故から8年が経過して、政府統計のメルトダウンが起こった。あと心配されるのは、国債メルトダウンと突然のインフレ加速、そして東南海大地震の発生である。それまでには継続案件は何としても解決しておかなければならない。

国家的リスク管理がいま問われているのだと感じる。