下関北九州道路に関連して国交省副大臣や他の議員が「忖度」発言をしたというので、マスコミが報道(アピール?)している。
しかし、本当に報道するべき内容は「忖度の有無」ではない。公共事業予算に関する「利益誘導」があったかどうかである。
「忖度」などは組織で仕事をしていれば常に誰もがやっていることである。大体、新入社員に対して守れと強調する「ほうれんそう」。これ自体が、報告+連絡+相談をビジネス現場で実質的に強要しているわけであり、忖度を超える確認を求めているわけである。即ち、自儘という零点からスタートし、忖度(≒気配り)、ほうれんそうへと上がる階層的評価尺度が歴然とある。当たり前である。
忖度が当たり前であるのに対して、公共事業予算を自ら(自党に、とは異なる)にとって有利であるように支出するとすれば、それは「利益誘導」に該当し、国益からは乖離する行政となるだろう、見方によってはだが。即ち、利益誘導があったとすれば当たり前だとは言えず、大きな問題が隠れている可能性がある。もしも、利益誘導のあとに、関係した政治家に何がしかの政治資金が謝礼として還流するとすれば、これは地検・特捜部マターであるキャッシュバック(公金横領)であり、汚職に該当する。
しかし、それでは公共事業予算の配分や執行はどのように決めればよいのだろうか?公共事業予算というのは、本質的には、一定の予算額の取り合いである事には違いなく、どのように決めるとしても、それ自体が「利益を誘導する行為」の総決算にはなってしまうのだ。
まあ、汚れ仕事には違いない。大物政治家を輩出した都道府県は高速道路や空港、新幹線が通るというのは、ずっと前から言われている事だ。しかし、この種の仕事を官僚ではなく、民選議員が行っているからこそ、日本は民主主義国家でありうるのだ、とも言えるだろう。
いずれにしても、「忖度」と非難がましく書きながら、使うべき言葉である「利益誘導と汚職の可能性」を使わないのは、国語力の貧困だ。いや、欠けているのは国語力というよりは、報道機関としての覚悟なのかもしれない。
2019年4月12日金曜日
2019年4月7日日曜日
「巨悪は眠らせない」の表と裏
文豪サマセット・モームは小生が愛してやまない作家のひとりであるが、作品の中でも面白さという点では1、2を争うと思われる『英国諜報員・アシェンデン』(Ashenden Or The British Agent)に以下の1節がある(新潮文庫版から引用):
善にこしたことはないが、悪をみても憤りは感じないのは確かに冷酷だ。しかし、相手の弱みに付け込んで秘密を聴きだし、それを母国に伝え、発覚したと悟った敵方は自分を信じて秘密を話してくれた相手を処刑する……、確かに冷酷でなくてはできない仕事である。故に、スパイが冷酷であるのは必然だ。
が、冷酷な仕打ちをするのは、スパイだけではない。普通のどこにでもいる人が、普段は善人であるのに、ふとした機会に悪人になってしまうのである。
既に夏目漱石が『こころ』の中で、人間性と悪との必然的結びつきを語っている。この作品は、外ならぬ自分自身が「悪人」として人生をおくることになった「先生」の物語りである。
漱石もモームも愛する小生は、悪に対してただ「許せない」と言い募る人たちの目線よりは、心の中に善も悪も抱え込んでいる人間を研究しようとする目線のほうにずっと共感を感じる。
小生の身の周りにはいないが、ただひたすら『そんなこと、許せない』と憤る人は、人間理解という以前に、自らの倫理感覚が鈍感なのだと小生は思っている。他を罰することに偏る人は、自らを善しと決めてかかっているから可能であるわけであり、それは倫理感覚が鈍いことの現れでもあるからだ。
ある検事総長だったか…
今回のカルロス・ゴーン元・日産会長も「巨悪」を演じていたのかもしれない。
しかし、一昨日の晩、同僚と一献酌み交わしたのだが、こんな話をした。
元・検事総長の名言には続きがなければ現実的ではない。正確には以下のように言うべきだった:
『人間が白黒の二色で塗り分けられるものなら、生きるのも楽になり、行動するのも簡単になる!』。これまた『アシェンデン』の中の一節だ。
日本のメディア産業が毎日大量生産している報道記事が、耐えがたいほどに浅薄であることと、最近の日本の文学作品が(一部を除いて)どれもこれも善は善、悪は悪とでも言いたいかのような薄っぺらさがあることと、どこかで繋がっているのだと思っている。
アシェンデンは善をよしと考えているものの、悪に憤ることはあまりない。ときどき冷酷だといわれることがあるのは、人を好き嫌い以前に興味の対象としてみてしまうからだった。後続の文章も実に味わい深いが長くなるので控えておく。
善にこしたことはないが、悪をみても憤りは感じないのは確かに冷酷だ。しかし、相手の弱みに付け込んで秘密を聴きだし、それを母国に伝え、発覚したと悟った敵方は自分を信じて秘密を話してくれた相手を処刑する……、確かに冷酷でなくてはできない仕事である。故に、スパイが冷酷であるのは必然だ。
が、冷酷な仕打ちをするのは、スパイだけではない。普通のどこにでもいる人が、普段は善人であるのに、ふとした機会に悪人になってしまうのである。
あなたは未だ覚えているでせう、私がいつか貴方に、造り付けの悪人が世の中にゐるものではないと云った事を。多くの善人がいざといふ場合に突然悪人になるのだから油断しては不可ないと云った事を。
既に夏目漱石が『こころ』の中で、人間性と悪との必然的結びつきを語っている。この作品は、外ならぬ自分自身が「悪人」として人生をおくることになった「先生」の物語りである。
漱石もモームも愛する小生は、悪に対してただ「許せない」と言い募る人たちの目線よりは、心の中に善も悪も抱え込んでいる人間を研究しようとする目線のほうにずっと共感を感じる。
小生の身の周りにはいないが、ただひたすら『そんなこと、許せない』と憤る人は、人間理解という以前に、自らの倫理感覚が鈍感なのだと小生は思っている。他を罰することに偏る人は、自らを善しと決めてかかっているから可能であるわけであり、それは倫理感覚が鈍いことの現れでもあるからだ。
***
ある検事総長だったか…
巨悪は眠らせないとか何とか、話したというので、一世を風靡したことがあった。
今回のカルロス・ゴーン元・日産会長も「巨悪」を演じていたのかもしれない。
しかし、一昨日の晩、同僚と一献酌み交わしたのだが、こんな話をした。
小生: ゴーンさんの裁判の行方はまったく分かりませんよねえ・・・
同僚: そうですね。経営学者としては教えられる事も多い人でしたが。
小生: でもね、こんな多国籍の人が関係する国境をこえたビジネス事案はこれから増えてくると思いますよ。ルーティンを学習しておかないと検察も対応できんでしょう。
同僚: 増えてくるでしょうね、確かに。中国とか、アメリカとか、もう発生していてもおかしくはないですから。
小生: フランスだから良かったんですよ。これが中国だったら、いやゴーンさんが仮にアメリカ人だったらどうでしょう? 著名なアメリカ人でも同じことでしたかね?
同僚: アメリカ人だったら、ですか?・・・アッハッハッハ・・・
小生: 地検の特捜は内閣に押さえつけられて何もできなかったんじゃないですかねえ・・・フランスは国際事案の摘発の練習相手になってくれているんですヨ。いわば「予行演習」だな・・・、何のための予行演習かは明らかですけどネ。それにゴーンさんは生粋のフランス人じゃないですしね。まあ、多国籍の人で、どこの国が人権を守るのかがハッキリしない、ここも都合が良かったのかもしれませんね。
元・検事総長の名言には続きがなければ現実的ではない。正確には以下のように言うべきだった:
巨悪は眠らせない!
もちろん自分たちに出来る範囲で、ですが…
『人間が白黒の二色で塗り分けられるものなら、生きるのも楽になり、行動するのも簡単になる!』。これまた『アシェンデン』の中の一節だ。
日本のメディア産業が毎日大量生産している報道記事が、耐えがたいほどに浅薄であることと、最近の日本の文学作品が(一部を除いて)どれもこれも善は善、悪は悪とでも言いたいかのような薄っぺらさがあることと、どこかで繋がっているのだと思っている。
2019年4月6日土曜日
一言メモ: 「世論調査」は改称するほうがよいのではないか
マスメディア各社が実施するいわゆる(自称?)「世論調査」。その不思議で、理解困難な点は小生の仕事柄もあって、これまでにも何度か本ブログに投稿してきた。左上の入力欄に「世論調査」を入れて検索をかけるだけで、結構な数の投稿をしてきたことに改めて気がつく。いやあ、「世論調査」というのは色々と考えさせられてきたのだネエと、驚くくらいだ。
滋賀大学にデータサイエンス学部が創設されたときは、当該分野の専門家にも評判になったが、今度は成城大学にも類似の機関ができたとのことだ。
(出所)『大学ジャーナルONLINE』、2019年4月6日
メディアの報道記事を読んでいると、あまりにデータに対する「無感覚」― これを"IT Illiteracy"ならぬ"Data Illiteracy"というのだろうが ― が記事執筆者から伝わってきて、そのたびごとに文系学部の理数教育軽視の弊害、というより、それ以前に何かというと「理系」、「文系」というタテの壁が学問世界に歴然としてあると思い込んでいる日本の非常識に呆れてきたのだ。
外国の専門家の略歴をみていると、「歴史」から「物理」に移籍したり、「数学」から「哲学」に移ったり、「文学」から「化学」へ移ったりしてきたケースがままにある。
そもそも欧米の"Under Graduate"の教育開始時において、「理系」、「文系」の2分野に分けるという系統的区分はなく、まして進学指導においてこんな言葉が使われていることはないはずである。日本においては、単に「数式」や「ロジック」が嫌か、嫌でないかで生徒をフィルタリングしているだけであって、学問の発展には極めて問題が多い……、というのはずっと以前から指摘されているが、報道界で注目されることはない。
というより「不正統計」などといって、統計業務の細かい点に食らいつく割には、学問の事柄にはとんと関心を示さないという傾向にも、小生は理解の困難を感じている。
上のように、データサイエンス関係の教育機関が増えていけば、少しは数字に明るい報道記者が記事を書くようになるのだろうか。そう期待してやまない。18歳以降の学部教育の段階から知識全体を「理系」と「文系」に分けて語るのは、日本経済の足を引っ張る原因にすらなっていると思われる。
それはさておき、いや、それにしても、メディア各社の「世論調査」。令和の新元号発表の前後で安倍内閣支持率が10パーセントも急上昇したそうだ。
次回の「世論調査」では、その「一時的要因」が剥げ落ち、しかも新しく出来した国交省副大臣による「忖度発言」が影響して支持率は10パーセント以上落ちるのではないかと、業界ではいまから「予想」しているそうなのだ、な。
これはもう「世論調査」というべきではない。「印象調査」と呼ぶ方が適切だ。もし、こんな不安定に揺らぎ動く数字が本質的・実質的に「世論」をとらえているのだとすれば、小生は「民主主義」には反対せざるを得ない。英国のEU離脱騒動を観ているだけでも、その理由は明らかだろう。
数字に表れているのは世間の総意としてマクロ的に実存している「世論」ではなく、『今の内閣、感じ悪いヨネ』、『結構、好いノリしてるヨネ』という類の現時点の社会心理状態だろうと思われる。英名をつけるとすれば"Public Opinion"ではなくて、"Contemporary Social Sentiment"を使うべきである。
滋賀大学にデータサイエンス学部が創設されたときは、当該分野の専門家にも評判になったが、今度は成城大学にも類似の機関ができたとのことだ。
成城大学は、2019年4月、データサイエンス教育研究センターを開設した。データに関心を持ちデータに基づき考え行動する学生を育て、人文・社会科学の分野におけるデータサイエンスの応用の開拓を目指す。
(出所)『大学ジャーナルONLINE』、2019年4月6日
メディアの報道記事を読んでいると、あまりにデータに対する「無感覚」― これを"IT Illiteracy"ならぬ"Data Illiteracy"というのだろうが ― が記事執筆者から伝わってきて、そのたびごとに文系学部の理数教育軽視の弊害、というより、それ以前に何かというと「理系」、「文系」というタテの壁が学問世界に歴然としてあると思い込んでいる日本の非常識に呆れてきたのだ。
外国の専門家の略歴をみていると、「歴史」から「物理」に移籍したり、「数学」から「哲学」に移ったり、「文学」から「化学」へ移ったりしてきたケースがままにある。
そもそも欧米の"Under Graduate"の教育開始時において、「理系」、「文系」の2分野に分けるという系統的区分はなく、まして進学指導においてこんな言葉が使われていることはないはずである。日本においては、単に「数式」や「ロジック」が嫌か、嫌でないかで生徒をフィルタリングしているだけであって、学問の発展には極めて問題が多い……、というのはずっと以前から指摘されているが、報道界で注目されることはない。
というより「不正統計」などといって、統計業務の細かい点に食らいつく割には、学問の事柄にはとんと関心を示さないという傾向にも、小生は理解の困難を感じている。
上のように、データサイエンス関係の教育機関が増えていけば、少しは数字に明るい報道記者が記事を書くようになるのだろうか。そう期待してやまない。18歳以降の学部教育の段階から知識全体を「理系」と「文系」に分けて語るのは、日本経済の足を引っ張る原因にすらなっていると思われる。
***
それはさておき、いや、それにしても、メディア各社の「世論調査」。令和の新元号発表の前後で安倍内閣支持率が10パーセントも急上昇したそうだ。
次回の「世論調査」では、その「一時的要因」が剥げ落ち、しかも新しく出来した国交省副大臣による「忖度発言」が影響して支持率は10パーセント以上落ちるのではないかと、業界ではいまから「予想」しているそうなのだ、な。
これはもう「世論調査」というべきではない。「印象調査」と呼ぶ方が適切だ。もし、こんな不安定に揺らぎ動く数字が本質的・実質的に「世論」をとらえているのだとすれば、小生は「民主主義」には反対せざるを得ない。英国のEU離脱騒動を観ているだけでも、その理由は明らかだろう。
数字に表れているのは世間の総意としてマクロ的に実存している「世論」ではなく、『今の内閣、感じ悪いヨネ』、『結構、好いノリしてるヨネ』という類の現時点の社会心理状態だろうと思われる。英名をつけるとすれば"Public Opinion"ではなくて、"Contemporary Social Sentiment"を使うべきである。
2019年4月2日火曜日
メモ: 『便利なのが一番』に政治的思惑は不要である
昨日、新しい元号「令和」が発表され、これから史上空前の10連休が終わるまでは「さようなら平成」キャンペーンで列島全体が盛り上がりそうである。
この事自体は好いことであろう。少なくとも「怪しからん」と非難して水をさす必要はない。
実体経済に不透明感が増す中で株価も上げるかどうかは分からないが、10月には即位の大宴もあり、最初の予想よりは心理的な明るさが増して、今年の景気は意外と強めに推移するかもしれない。『消費税率引き上げ?8パーセントから10パーセント?いいヨ!かまへん、かまへん』と、そんなノリですんなりクリアされることすらあるかもしれない。
それはともかく…
こんな意見も開陳されているからインターネットというのは、色々とマイナスの側面を指摘する人もいるが、やはり自由な議論の場として貴重である事実に変わりはない。
ただ一つ疑問がある。
「元号」なる慣習なり、制度に抵抗を感じる日本人がいることはなるほど理解できるのだが、「元号」には国粋主義を感じ、「西暦」ならば好いという理屈はさっぱり分からないのだ、な。
「西暦」とはキリスト紀元である。小生は父祖代々の他力本願の仏教徒である。「元号」はダメで「西暦」は好いという心理は共有できない。
しかし、こんなことを言いだせばイスラム教徒は「西暦」に反発する権利がある。西暦はキリスト教徒だけが使用すればよいという理屈になり、実に不便である。国連の公文書はどの暦法を採用すれば許容されるのか結論が出なくなる可能性がある。
「元号」に国粋主義を感じるなら、「西暦」にも近代欧州のコロニアリズムを感じるべきである。が、こんな政治的思惑を述べるとすれば、「愚か」とまでは言わないが、「頑固」だとは感じるし、そもそもこんな議論は不必要であろう。そう思われるのだ、な。
年月日は普及している便利なやり方をとるのが効率的だ。これだけである。それ以上でも以下でもない。暦や月日の数え方、曜日の呼び名などは自由に決めればよい。「それは不便で問題だ」という人がいるとすれば、「世界では西暦の普及率が高いようですぜ」と。言葉の英語、通貨のドル。ツールは便利であればそれでよい。
旧くとも「祭り」は全国各地で継承されており、相撲も半分は神事、半分は興行として今後も継承され、観戦したい人はチケットを買うだろう ― 小生も夏場所の升席を買った、令和最初の両国開催場所である。「元号」の習慣を続けたいと思う多数の日本人がいる限り、元号も代を重ねながら続くことだろう。大安仏滅を気にする人はまだいる。干支占いもまたなくならない。それには実質的理由がある。科学の進展とは別のことであり、生活をそれなりに面白く豊かにしてくれている。
結果として慣習が継承されてきて、今後も続くとすれば、それを認めるしか選択肢がないのが政治という営みである。
もしも「国」というものが実存らしくありえるならば、国を国たらしめている個々の人間たちの慣習や感性が先にある。なので、継承されてきた慣習が良いの悪いのと言い立てて、社会をある方向に導いていこうという行為は、よく言えば「前衛的かつ革新的」、客観的には「左翼的で暴力的」、簡単に言えばそもそも尻尾が犬を振りまわすような行為であり、そんな試みは横暴である。時間の無駄とすら言える。そう思われるのだ、な。
無駄な前衛的な議論などはせず、便利なものは素直にツールとして使えばよい。政治的思惑や「▲▲イズム」は不必要。そうではないだろうか。
この事自体は好いことであろう。少なくとも「怪しからん」と非難して水をさす必要はない。
実体経済に不透明感が増す中で株価も上げるかどうかは分からないが、10月には即位の大宴もあり、最初の予想よりは心理的な明るさが増して、今年の景気は意外と強めに推移するかもしれない。『消費税率引き上げ?8パーセントから10パーセント?いいヨ!かまへん、かまへん』と、そんなノリですんなりクリアされることすらあるかもしれない。
***
それはともかく…
元号の使用がそもそも時代遅れなのは、外務省が西暦で原則とすると決めたことによく表れています。URL: https://blogos.com/article/368022/
「和暦やめ西暦の原則使用、外務省が検討 読み替え煩雑で」(朝日新聞2019年4月1日)
参照
「今日から和暦をやめて西暦に。新元号発表を契機に和暦はやめるべき。無駄混乱邪魔」(ブロゴス)
これが文化だ、伝統だなんていうのも時代錯誤。一部の人たちの思惑でしかありません。
これを機に元号とはさよならしましょう。
こんな意見も開陳されているからインターネットというのは、色々とマイナスの側面を指摘する人もいるが、やはり自由な議論の場として貴重である事実に変わりはない。
ただ一つ疑問がある。
「元号」なる慣習なり、制度に抵抗を感じる日本人がいることはなるほど理解できるのだが、「元号」には国粋主義を感じ、「西暦」ならば好いという理屈はさっぱり分からないのだ、な。
「西暦」とはキリスト紀元である。小生は父祖代々の他力本願の仏教徒である。「元号」はダメで「西暦」は好いという心理は共有できない。
しかし、こんなことを言いだせばイスラム教徒は「西暦」に反発する権利がある。西暦はキリスト教徒だけが使用すればよいという理屈になり、実に不便である。国連の公文書はどの暦法を採用すれば許容されるのか結論が出なくなる可能性がある。
***
「元号」に国粋主義を感じるなら、「西暦」にも近代欧州のコロニアリズムを感じるべきである。が、こんな政治的思惑を述べるとすれば、「愚か」とまでは言わないが、「頑固」だとは感じるし、そもそもこんな議論は不必要であろう。そう思われるのだ、な。
年月日は普及している便利なやり方をとるのが効率的だ。これだけである。それ以上でも以下でもない。暦や月日の数え方、曜日の呼び名などは自由に決めればよい。「それは不便で問題だ」という人がいるとすれば、「世界では西暦の普及率が高いようですぜ」と。言葉の英語、通貨のドル。ツールは便利であればそれでよい。
旧くとも「祭り」は全国各地で継承されており、相撲も半分は神事、半分は興行として今後も継承され、観戦したい人はチケットを買うだろう ― 小生も夏場所の升席を買った、令和最初の両国開催場所である。「元号」の習慣を続けたいと思う多数の日本人がいる限り、元号も代を重ねながら続くことだろう。大安仏滅を気にする人はまだいる。干支占いもまたなくならない。それには実質的理由がある。科学の進展とは別のことであり、生活をそれなりに面白く豊かにしてくれている。
結果として慣習が継承されてきて、今後も続くとすれば、それを認めるしか選択肢がないのが政治という営みである。
もしも「国」というものが実存らしくありえるならば、国を国たらしめている個々の人間たちの慣習や感性が先にある。なので、継承されてきた慣習が良いの悪いのと言い立てて、社会をある方向に導いていこうという行為は、よく言えば「前衛的かつ革新的」、客観的には「左翼的で暴力的」、簡単に言えばそもそも尻尾が犬を振りまわすような行為であり、そんな試みは横暴である。時間の無駄とすら言える。そう思われるのだ、な。
無駄な前衛的な議論などはせず、便利なものは素直にツールとして使えばよい。政治的思惑や「▲▲イズム」は不必要。そうではないだろうか。
2019年4月1日月曜日
一言感想: 新元号「令和」
元号で社会的スケールの狂騒曲が演じられるのは、(もはや)世界で日本一国のみである。
それでもテロや大災害で騒然となるよりは、余程、好いことには違いない。これが第一点。
11時半に菅官房長官が「令和」の2文字を墨書した額を掲げたとき、小生の最初の印象は一部の人がネガティブな第一印象を述べているように「命令の令だなあ」というものだった。
『万葉集』に基づいたという選定理由はそれほどスッと頭に入ったわけではない ― 多くの人も同様だっただろう。
今回は漢籍に加えて日本の古典を専門とする人を選定作業に加えたという報道が流れた段階で、新しい元号は我が国の古典から選ぶのだろうという見当はアラアラでついていた。それでも(これも多くの専門家が述べているように)、多分、『日本書紀』か、それとも歴代の天皇の御歌か、もしくは和歌の秀作ではないかと思っていた。例えば大伴家持の「海ゆかばみずくかばね…」などは戦前の準国歌ともなっていた。あるいは時代を下って、本居宣長辺りの名句からか。そんな風に思いめぐらせていたのだ。まあ、こうして思い返すと、いい線は行っていたのだろう。
何事も予測のトレーニングは役に立つものだ。
それにしても「司令官の令」、「命令の令」とはネエ・・・という感覚がまずあったのは事実だ。
しかし、日本の漢字は意味解釈が重層的で複雑である。読み方すらも、呉音、漢音、唐音と複数ある。
「令和」の令は、「ご令室」、「ご令嬢」、「ご令兄」の令であることにやがて思い至った。
「令」の元来の意味は「神の思し召し」というニュアンスであるらしい。となれば、「神意にそった和を」という意味にもなるか……。と、こう考えれば、神社に毎正月初詣する日本人の感覚が現れた国風の元号であるとも言える。
簡単にいえば「うるわしき和」という理解でいいのだろうと、まあ、人間の慣れというのは便利なものである。
もちろん元々の意味は、初春の令月(=二月)に咲く花を愛でる叙景的な感動から発するものである。
それでもテロや大災害で騒然となるよりは、余程、好いことには違いない。これが第一点。
***
11時半に菅官房長官が「令和」の2文字を墨書した額を掲げたとき、小生の最初の印象は一部の人がネガティブな第一印象を述べているように「命令の令だなあ」というものだった。
『万葉集』に基づいたという選定理由はそれほどスッと頭に入ったわけではない ― 多くの人も同様だっただろう。
今回は漢籍に加えて日本の古典を専門とする人を選定作業に加えたという報道が流れた段階で、新しい元号は我が国の古典から選ぶのだろうという見当はアラアラでついていた。それでも(これも多くの専門家が述べているように)、多分、『日本書紀』か、それとも歴代の天皇の御歌か、もしくは和歌の秀作ではないかと思っていた。例えば大伴家持の「海ゆかばみずくかばね…」などは戦前の準国歌ともなっていた。あるいは時代を下って、本居宣長辺りの名句からか。そんな風に思いめぐらせていたのだ。まあ、こうして思い返すと、いい線は行っていたのだろう。
何事も予測のトレーニングは役に立つものだ。
それにしても「司令官の令」、「命令の令」とはネエ・・・という感覚がまずあったのは事実だ。
***
しかし、日本の漢字は意味解釈が重層的で複雑である。読み方すらも、呉音、漢音、唐音と複数ある。
「令和」の令は、「ご令室」、「ご令嬢」、「ご令兄」の令であることにやがて思い至った。
「令」の元来の意味は「神の思し召し」というニュアンスであるらしい。となれば、「神意にそった和を」という意味にもなるか……。と、こう考えれば、神社に毎正月初詣する日本人の感覚が現れた国風の元号であるとも言える。
簡単にいえば「うるわしき和」という理解でいいのだろうと、まあ、人間の慣れというのは便利なものである。
もちろん元々の意味は、初春の令月(=二月)に咲く花を愛でる叙景的な感動から発するものである。
2019年3月30日土曜日
一言メモ: 『言うは易く、行うは難し』の一例
戦略ならば誰でも語れる。しかし、与えられた戦略の下で目的を達成するための戦術を、たとえば「いま何をするか?」というレベルまで具体的に提案できる人は少ない。
要するに、当たり前の事(=目的)や基本方針(=戦略)は普通の頭さえ持っていれば、いっぱしの話はできるが、具体的に今月の内に何を決めればいいか、この四半期で誰と協議し、一年内を目安に何から進めればよいか、来年あたりに停滞するとすればどこで停滞しそうか。これらの処理が出来る人材は少ない。「やっぱり専門家に任せるしかないでしょう」というのも、これまた誰でも言える戦略で提案価値はなにもない。
統計畑では、何の知識もスキルもなくともこの位のやり方で憶測はできるという程度の達成可能レベルを"NULL MODEL"と呼んでいる。例えば、あらゆるメールの中に占めるスパムメールの比率が1パーセントであるとき、「いま届いたメールがスパムメールである確率は1パーセントですよね」という判定の仕方などはそうである。
メールの中身を見もせずに、スパムである確率が1パーセント(=スパムでない確率は99パーセント)なんて、よく分かるネエ、どうやったんだい?……、シャーロック・ホームズだね、まるで。アレッ、メールのタイトルがネ、「あなたと知り合いになりたいの!」って、これスパムなんじゃないの!!君ねえ、やっぱり当てずっぽはいけないヨ。
世の中、昔から何の助けにもならない知ったかぶりはあるものだ。何もいま流行の「フェイクニュース」や「自称・専門家」などという言葉を使う必要はない。鎌倉時代のエッセー『徒然草』にも『少しのことにも、先達はあらまほしき事なり』と書かれてある。
***
少し以前になるがこんな報道が日刊工業新聞に載っていた。
厚生労働省の毎月勤労統計の不適切調査問題に関する不信が払拭(ふっしょく)できない。新たな第三者委員会をつくって、真相を解明し、膿(うみ)を出しきることが第一歩だ。それが国民の信頼回復につながる。合わせて、政策の精度を高めるため、民間が持つビッグデータ(大量データ)などを政府や公的機関が利用する議論を深めていくべきだ。
「何のために税金を使い調査したのか。さっぱり意味がない」。第三者委員会報告書格付け委員会で委員長を務める久保利英明弁護士は8日、日本記者クラブで会見し、特別監察委員会を強く批判した。毎月勤労統計の不適切調査をめぐり、厚労省が第三者委員会として設けた特別監察委がまとめた再調査の報告書について、報告書格付け委員会は5段階で評価し、久保利委員長ら委員9人全員が最低評価の「F」をつけた。これまで20回の格付けで、全員がFをつけたのは、今回が2回目だ。
格付け委がこうした低評価をつけたのは、監察委が独立性や中立性を欠いたことによる。特別監察委の樋口美雄委員長は厚労省の外郭団体のトップを務める。「それだけでも第三者委員会の適格に欠ける」(久保利氏)とし、身内による調査に懸念を表明する。
(後略)
確かに「戦略」は正しい。ビッグデータの時代にマッチした統計システム戦略を構築しなければならないことは、その分野の人は誰もが意識している。
しかしネエ・・・
昔はビッグデータはなかったんでしょ?これからやり方を変えようってのは、まあ、いいんですけどネ…。専門家の人に使ってもらえるようなデータはどんな風にすればいいんでしょうかネ?なんかGDPデータってえのは、20年くらい前に遡ってそろえる必要があるって言いますからネエ。その基礎データになるなら、それも同じことでしょ?やり方を急に変えたら、全然、違う数字になっちまうってこともあるんじゃないんですかい?
戦略は誰でもがそれなりに語れるものだ。要は、具体的にどうすればそれが出来るのか、である。『そりゃあ、つかさつかさの専門家ってやつがいるんじゃないんですか?』と問われれば、『いまの日本にどの位それができる専門家がいるって思ってます?』。小生ばかりでなく、ここを一番聞きたいのではあるまいか。
戦略を提案するなら、戦術も考えるべきであろう。それには、詳細な具体的事情に精通することが求められる。勝負はそこからである。
そうでなければ、中身のない"NULL MODEL"ならぬ聞くだけ野暮な"NULL PROPOSAL"と言われても仕方があるまい。
***
それにしても特別監査委員会を格付けするための格付け委員会があったのか…寡聞にして知らなんだ。
この格付け委員会はどの程度まで信用してよいのだろうか?ちょっと、格付け委員会を格付けするための格付け・格付け委員会をつくってほしいねえ。いや、そうなると、その内それを格付けするための「格付け・格付け・格付け委員会」が欲しくなるか。
まあ、需要あるところに供給アリ。これまた経済原理の発現形態の一つである。
2019年3月28日木曜日
一言メモ: 「制裁」するにしても「粗暴」は最低である
日韓関係の悪化が進み、韓国に対する「経済制裁」が大っぴらに議論されるようになってきている。
ところが、それを一瞥すると、「国交断絶」、「大使召還」などと極端な言葉から始まり、更には「重要素材・部品禁輸」、韓国製品の「関税率引き上げ」、「ビザ免除停止」等々、どれもこれも「ハード」で大衆受けのする可視的手段ばかりである。
極めて幼稚であり、愚かである。
野球で言えば、相手投手がビーンボールを投げてきたから、今度は一塁走者が二塁手に危険なスチールをするようなものである。
思うのだが、「禁輸」などをする必要性はない。「値上げ」をするだけで十分なはずである。あるいは契約交渉に時間をかけるだけでもよい。交渉上の優位があればそれを行使すればよい。相手国が提訴してくれば、事態が長引き、かつ複雑化され、交渉材料が一つ追加される。交渉材料の増加は、日本側にとってプラスだろう。
「関税率引き上げ」も必要ではない。税関手続きに時間をかけるだけでよい。
観光訪問先として注意事項を増やすだけでもよい。旅行会社にとってリスクが高まれば、ツアー料金が上がる。それで十分な効果がある。
実際に対立している相手国・韓国に可視的な損失を与えたいと望むとしても(本当に日本はそう考えるのか、これ自体が国際関係を考えると不思議であるが)、自らが直接的行為に及ぶ必然性はない。むしろ復仇感情を刺激するのでマイナスである。関係のないオーディエンス(=他の周辺国)にとって好ましい利他的な行為を積み重ねることが、特定の相手国に対する間接的攻撃になる。
間接アプローチが戦略的には最適であると思われる。
ところが、それを一瞥すると、「国交断絶」、「大使召還」などと極端な言葉から始まり、更には「重要素材・部品禁輸」、韓国製品の「関税率引き上げ」、「ビザ免除停止」等々、どれもこれも「ハード」で大衆受けのする可視的手段ばかりである。
極めて幼稚であり、愚かである。
野球で言えば、相手投手がビーンボールを投げてきたから、今度は一塁走者が二塁手に危険なスチールをするようなものである。
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思うのだが、「禁輸」などをする必要性はない。「値上げ」をするだけで十分なはずである。あるいは契約交渉に時間をかけるだけでもよい。交渉上の優位があればそれを行使すればよい。相手国が提訴してくれば、事態が長引き、かつ複雑化され、交渉材料が一つ追加される。交渉材料の増加は、日本側にとってプラスだろう。
「関税率引き上げ」も必要ではない。税関手続きに時間をかけるだけでよい。
観光訪問先として注意事項を増やすだけでもよい。旅行会社にとってリスクが高まれば、ツアー料金が上がる。それで十分な効果がある。
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日韓関係のリスクの高まりを価格に反映させるだけでよい、というのが基本的な理屈である。非合理な選択をしている側の競争優位が脆弱になるのである ― 韓国側だけではなく、日本側にもまた奇妙な手はあると思っているが。
つまり何事も「当たり前の事」をするだけで経済的には(=経済制裁手段としては)十分な効果をもつ。併せて、競合国に"Favor"を与えるとすれば、一層の効果があろう。実際に対立している相手国・韓国に可視的な損失を与えたいと望むとしても(本当に日本はそう考えるのか、これ自体が国際関係を考えると不思議であるが)、自らが直接的行為に及ぶ必然性はない。むしろ復仇感情を刺激するのでマイナスである。関係のないオーディエンス(=他の周辺国)にとって好ましい利他的な行為を積み重ねることが、特定の相手国に対する間接的攻撃になる。
間接アプローチが戦略的には最適であると思われる。
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