2019年4月12日金曜日

一言メモ: 忖度…国語力の貧困か

下関北九州道路に関連して国交省副大臣や他の議員が「忖度」発言をしたというので、マスコミが報道(アピール?)している。

しかし、本当に報道するべき内容は「忖度の有無」ではない。公共事業予算に関する「利益誘導」があったかどうかである。

「忖度」などは組織で仕事をしていれば常に誰もがやっていることである。大体、新入社員に対して守れと強調する「ほうれんそう」。これ自体が、報告+連絡+相談をビジネス現場で実質的に強要しているわけであり、忖度を超える確認を求めているわけである。即ち、自儘という零点からスタートし、忖度(≒気配り)、ほうれんそうへと上がる階層的評価尺度が歴然とある。当たり前である。

忖度が当たり前であるのに対して、公共事業予算を自ら(自党に、とは異なる)にとって有利であるように支出するとすれば、それは「利益誘導」に該当し、国益からは乖離する行政となるだろう、見方によってはだが。即ち、利益誘導があったとすれば当たり前だとは言えず、大きな問題が隠れている可能性がある。もしも、利益誘導のあとに、関係した政治家に何がしかの政治資金が謝礼として還流するとすれば、これは地検・特捜部マターであるキャッシュバック(公金横領)であり、汚職に該当する。

しかし、それでは公共事業予算の配分や執行はどのように決めればよいのだろうか?公共事業予算というのは、本質的には、一定の予算額の取り合いである事には違いなく、どのように決めるとしても、それ自体が「利益を誘導する行為」の総決算にはなってしまうのだ。

まあ、汚れ仕事には違いない。大物政治家を輩出した都道府県は高速道路や空港、新幹線が通るというのは、ずっと前から言われている事だ。しかし、この種の仕事を官僚ではなく、民選議員が行っているからこそ、日本は民主主義国家でありうるのだ、とも言えるだろう。

いずれにしても、「忖度」と非難がましく書きながら、使うべき言葉である「利益誘導と汚職の可能性」を使わないのは、国語力の貧困だ。いや、欠けているのは国語力というよりは、報道機関としての覚悟なのかもしれない。

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