アシェンデンは善をよしと考えているものの、悪に憤ることはあまりない。ときどき冷酷だといわれることがあるのは、人を好き嫌い以前に興味の対象としてみてしまうからだった。後続の文章も実に味わい深いが長くなるので控えておく。
善にこしたことはないが、悪をみても憤りは感じないのは確かに冷酷だ。しかし、相手の弱みに付け込んで秘密を聴きだし、それを母国に伝え、発覚したと悟った敵方は自分を信じて秘密を話してくれた相手を処刑する……、確かに冷酷でなくてはできない仕事である。故に、スパイが冷酷であるのは必然だ。
が、冷酷な仕打ちをするのは、スパイだけではない。普通のどこにでもいる人が、普段は善人であるのに、ふとした機会に悪人になってしまうのである。
あなたは未だ覚えているでせう、私がいつか貴方に、造り付けの悪人が世の中にゐるものではないと云った事を。多くの善人がいざといふ場合に突然悪人になるのだから油断しては不可ないと云った事を。
既に夏目漱石が『こころ』の中で、人間性と悪との必然的結びつきを語っている。この作品は、外ならぬ自分自身が「悪人」として人生をおくることになった「先生」の物語りである。
漱石もモームも愛する小生は、悪に対してただ「許せない」と言い募る人たちの目線よりは、心の中に善も悪も抱え込んでいる人間を研究しようとする目線のほうにずっと共感を感じる。
小生の身の周りにはいないが、ただひたすら『そんなこと、許せない』と憤る人は、人間理解という以前に、自らの倫理感覚が鈍感なのだと小生は思っている。他を罰することに偏る人は、自らを善しと決めてかかっているから可能であるわけであり、それは倫理感覚が鈍いことの現れでもあるからだ。
***
ある検事総長だったか…
巨悪は眠らせないとか何とか、話したというので、一世を風靡したことがあった。
今回のカルロス・ゴーン元・日産会長も「巨悪」を演じていたのかもしれない。
しかし、一昨日の晩、同僚と一献酌み交わしたのだが、こんな話をした。
小生: ゴーンさんの裁判の行方はまったく分かりませんよねえ・・・
同僚: そうですね。経営学者としては教えられる事も多い人でしたが。
小生: でもね、こんな多国籍の人が関係する国境をこえたビジネス事案はこれから増えてくると思いますよ。ルーティンを学習しておかないと検察も対応できんでしょう。
同僚: 増えてくるでしょうね、確かに。中国とか、アメリカとか、もう発生していてもおかしくはないですから。
小生: フランスだから良かったんですよ。これが中国だったら、いやゴーンさんが仮にアメリカ人だったらどうでしょう? 著名なアメリカ人でも同じことでしたかね?
同僚: アメリカ人だったら、ですか?・・・アッハッハッハ・・・
小生: 地検の特捜は内閣に押さえつけられて何もできなかったんじゃないですかねえ・・・フランスは国際事案の摘発の練習相手になってくれているんですヨ。いわば「予行演習」だな・・・、何のための予行演習かは明らかですけどネ。それにゴーンさんは生粋のフランス人じゃないですしね。まあ、多国籍の人で、どこの国が人権を守るのかがハッキリしない、ここも都合が良かったのかもしれませんね。
元・検事総長の名言には続きがなければ現実的ではない。正確には以下のように言うべきだった:
巨悪は眠らせない!
もちろん自分たちに出来る範囲で、ですが…
『人間が白黒の二色で塗り分けられるものなら、生きるのも楽になり、行動するのも簡単になる!』。これまた『アシェンデン』の中の一節だ。
日本のメディア産業が毎日大量生産している報道記事が、耐えがたいほどに浅薄であることと、最近の日本の文学作品が(一部を除いて)どれもこれも善は善、悪は悪とでも言いたいかのような薄っぺらさがあることと、どこかで繋がっているのだと思っている。
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