2019年4月2日火曜日

メモ: 『便利なのが一番』に政治的思惑は不要である

昨日、新しい元号「令和」が発表され、これから史上空前の10連休が終わるまでは「さようなら平成」キャンペーンで列島全体が盛り上がりそうである。

この事自体は好いことであろう。少なくとも「怪しからん」と非難して水をさす必要はない。

実体経済に不透明感が増す中で株価も上げるかどうかは分からないが、10月には即位の大宴もあり、最初の予想よりは心理的な明るさが増して、今年の景気は意外と強めに推移するかもしれない。『消費税率引き上げ?8パーセントから10パーセント?いいヨ!かまへん、かまへん』と、そんなノリですんなりクリアされることすらあるかもしれない。

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それはともかく…

元号の使用がそもそも時代遅れなのは、外務省が西暦で原則とすると決めたことによく表れています。
和暦やめ西暦の原則使用、外務省が検討 読み替え煩雑で」(朝日新聞2019年4月1日)
参照
今日から和暦をやめて西暦に。新元号発表を契機に和暦はやめるべき。無駄混乱邪魔」(ブロゴス)
 これが文化だ、伝統だなんていうのも時代錯誤。一部の人たちの思惑でしかありません。
 これを機に元号とはさよならしましょう。
URL: https://blogos.com/article/368022/


こんな意見も開陳されているからインターネットというのは、色々とマイナスの側面を指摘する人もいるが、やはり自由な議論の場として貴重である事実に変わりはない。

ただ一つ疑問がある。

「元号」なる慣習なり、制度に抵抗を感じる日本人がいることはなるほど理解できるのだが、「元号」には国粋主義を感じ、「西暦」ならば好いという理屈はさっぱり分からないのだ、な。

「西暦」とはキリスト紀元である。小生は父祖代々の他力本願の仏教徒である。「元号」はダメで「西暦」は好いという心理は共有できない。

しかし、こんなことを言いだせばイスラム教徒は「西暦」に反発する権利がある。西暦はキリスト教徒だけが使用すればよいという理屈になり、実に不便である。国連の公文書はどの暦法を採用すれば許容されるのか結論が出なくなる可能性がある。

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「元号」に国粋主義を感じるなら、「西暦」にも近代欧州のコロニアリズムを感じるべきである。が、こんな政治的思惑を述べるとすれば、「愚か」とまでは言わないが、「頑固」だとは感じるし、そもそもこんな議論は不必要であろう。そう思われるのだ、な。

年月日は普及している便利なやり方をとるのが効率的だ。これだけである。それ以上でも以下でもない。暦や月日の数え方、曜日の呼び名などは自由に決めればよい。「それは不便で問題だ」という人がいるとすれば、「世界では西暦の普及率が高いようですぜ」と。言葉の英語、通貨のドル。ツールは便利であればそれでよい。

旧くとも「祭り」は全国各地で継承されており、相撲も半分は神事、半分は興行として今後も継承され、観戦したい人はチケットを買うだろう ― 小生も夏場所の升席を買った、令和最初の両国開催場所である。「元号」の習慣を続けたいと思う多数の日本人がいる限り、元号も代を重ねながら続くことだろう。大安仏滅を気にする人はまだいる。干支占いもまたなくならない。それには実質的理由がある。科学の進展とは別のことであり、生活をそれなりに面白く豊かにしてくれている。

結果として慣習が継承されてきて、今後も続くとすれば、それを認めるしか選択肢がないのが政治という営みである。

もしも「国」というものが実存らしくありえるならば、国を国たらしめている個々の人間たちの慣習や感性が先にある。なので、継承されてきた慣習が良いの悪いのと言い立てて、社会をある方向に導いていこうという行為は、よく言えば「前衛的かつ革新的」、客観的には「左翼的で暴力的」、簡単に言えばそもそも尻尾が犬を振りまわすような行為であり、そんな試みは横暴である。時間の無駄とすら言える。そう思われるのだ、な。

無駄な前衛的な議論などはせず、便利なものは素直にツールとして使えばよい。政治的思惑や「▲▲イズム」は不必要。そうではないだろうか。

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