2019年4月21日日曜日

一言メモ OR 隠居のたわごと? 皇位継承のこと

いま展開されているのが「さらば平成」キャンペーン、来月早々から始まるのが「はじめよう令和の新時代」キャンペーンである。

先日、見積もりをたててもらった車検の費用が一部部品の交換まで含めて23万円になった。絶句した小生はカミさんに『こんなに払って来年ハイブリッドを買うより、いま買い替えよう』と話して予定を急変更した。その結果、コンパクト・ハイブリッド4WDがトヨタからは出ていないので(本年暮れには出るらしい)、Vitzのガソリン特別仕様車を超安値ですすめられ、勢いで買う羽目になった。これもまた「サラバ平成」のノリだろう。

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その関連というわけではないが、よく考えると来月即位する新天皇陛下と秋篠宮皇嗣殿下とは5歳違いである。天皇が80歳になるときに皇嗣は75歳になる。これでは皇位を継承するのに自然な状態ではない。生前退位も異例であったが、もっと異例である皇位辞退も発生する可能性が高い、というので結構な論題になっているようだ。

それでなくとも悠仁親王が皇位を継承する時点になると、男性継承者が極端に少なくなり、天皇制維持も不安視される、と。そんな事情もある。そこで女性天皇、女系天皇を容認するか?国民の大半は容認しているという「世論調査」の結果も出ているので、一層、混とんとしているのが象徴天皇制の現状だ。

とはいえ、「一代限りの女性天皇」はともかく、「女系天皇」には激烈な反対運動も予想され、であるが故に選択の合理性がそこにあるとしても、現実には採択不能であると予想する。

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愛子内親王が臣籍降下された旧宮家(=伏見宮系)のいずれかの青年と婚姻をするとすれば、いまある問題の半分以上、いや8割方は(遠い将来を含め)解消する(というより、解消への一歩になる)だろうと感じられる。

この種の話題については数年前に一度投稿したことがある。

伝統ある家門を継承するにあたって日本人はそれほどまでに男系であるか、女系であるかには執着していない、というのが小生の感覚だ。

ただ、容認できる範囲と容認できないことの線引きは明確にあるので、慎重でなければならない。

ま、当たり前である。

2019年4月17日水曜日

断想: 制度や正義というほど野暮な話題はない

モームとディケンズには100年ほどの時代の違いがある。例えて言うなら夏目漱石と村上春樹が生きた時代の違いに相当するかもしれない。

だからディケンズを読んでも、馬車は出てくるが自動車はない。シャーロック・ホームズが利用した電報はまだない。ランプもなく蝋燭である。しかしガス灯は既にロンドンの夜を照らしていた。

『荒涼館』は訴訟事件が軸の一つになっているが、現代でも生きるような文章があるから面白い。

たとえば

『制度だ!どこにいってもわしはきかされましたよ。制度がそうなってますからって。個人が問題なんじゃない。制度がそうなってるんだって……おまえは正義にもとづいてさばかれた、だから引き下がりなさい、といえますか?…あの男には責任がない。そういう制度になってるんだから…』(第15章)

ディケンズは、言うまでもなく役人ではなく、民間に生きた作家である。制度や正義よりも人間個人に目を向けるとしても、ごく自然で当たり前だ。どの人も自分の人生を生きているのであって、制度や法律をまもることが人生の目的ではない。そもそも制度や法律などは、その時々の流れでどうにでも変わりうるものである。昨日までは「正しい」とされたことが今日は「間違い」であったと一変しても誰も責められないのが浮世の習いだ。大事なのは、現実に生きている人間集団のコモンセンスである。その場の人がどう感じるかという感性と常識だけが、実存するルールである。

実に健全だ。

民間放送の番組を観ていて、何よりも不愉快に感じるのは、「法的にはどうなるのですか?」という問いかけから、ほぼ常に話を始める点である。

「こうなったには理由があったと思うのですが…」という普通の疑問から話を始めれば、真っ当な内容になるだろう。法律や正義を問題にするのは役人や司法当局、法律専門家だけにしてほしいものだ。世間の井戸端会議に弁護士や検事OBは不要である。

誰のために民間メディア企業を経営しているのか分からなくなる現象が目に付くことは実に多い。

駐車場の隣の区画に蟻が巣を作っている。コンクリートの割れ目から地下に入り込んで、通路を縦横に掘削しつつあるのだ。まさか、地面が陥没することはないだろうネエ…管理人室には「蟻が巣を作ってますよ」と伝えておいた。アリの世界にもルールや制度があるのだろう、社会である以上は。それが何であっても、「だから何?」というほどの意義しかない。アリ社会にのみ役に立つのがアリの法律である。人間社会の制度、法律、正義もどこか似ているところがある。

2019年4月12日金曜日

一言メモ: 忖度…国語力の貧困か

下関北九州道路に関連して国交省副大臣や他の議員が「忖度」発言をしたというので、マスコミが報道(アピール?)している。

しかし、本当に報道するべき内容は「忖度の有無」ではない。公共事業予算に関する「利益誘導」があったかどうかである。

「忖度」などは組織で仕事をしていれば常に誰もがやっていることである。大体、新入社員に対して守れと強調する「ほうれんそう」。これ自体が、報告+連絡+相談をビジネス現場で実質的に強要しているわけであり、忖度を超える確認を求めているわけである。即ち、自儘という零点からスタートし、忖度(≒気配り)、ほうれんそうへと上がる階層的評価尺度が歴然とある。当たり前である。

忖度が当たり前であるのに対して、公共事業予算を自ら(自党に、とは異なる)にとって有利であるように支出するとすれば、それは「利益誘導」に該当し、国益からは乖離する行政となるだろう、見方によってはだが。即ち、利益誘導があったとすれば当たり前だとは言えず、大きな問題が隠れている可能性がある。もしも、利益誘導のあとに、関係した政治家に何がしかの政治資金が謝礼として還流するとすれば、これは地検・特捜部マターであるキャッシュバック(公金横領)であり、汚職に該当する。

しかし、それでは公共事業予算の配分や執行はどのように決めればよいのだろうか?公共事業予算というのは、本質的には、一定の予算額の取り合いである事には違いなく、どのように決めるとしても、それ自体が「利益を誘導する行為」の総決算にはなってしまうのだ。

まあ、汚れ仕事には違いない。大物政治家を輩出した都道府県は高速道路や空港、新幹線が通るというのは、ずっと前から言われている事だ。しかし、この種の仕事を官僚ではなく、民選議員が行っているからこそ、日本は民主主義国家でありうるのだ、とも言えるだろう。

いずれにしても、「忖度」と非難がましく書きながら、使うべき言葉である「利益誘導と汚職の可能性」を使わないのは、国語力の貧困だ。いや、欠けているのは国語力というよりは、報道機関としての覚悟なのかもしれない。

2019年4月7日日曜日

「巨悪は眠らせない」の表と裏

文豪サマセット・モームは小生が愛してやまない作家のひとりであるが、作品の中でも面白さという点では1、2を争うと思われる『英国諜報員・アシェンデン』(Ashenden Or The British Agent)に以下の1節がある(新潮文庫版から引用):
アシェンデンは善をよしと考えているものの、悪に憤ることはあまりない。ときどき冷酷だといわれることがあるのは、人を好き嫌い以前に興味の対象としてみてしまうからだった。
後続の文章も実に味わい深いが長くなるので控えておく。

善にこしたことはないが、悪をみても憤りは感じないのは確かに冷酷だ。しかし、相手の弱みに付け込んで秘密を聴きだし、それを母国に伝え、発覚したと悟った敵方は自分を信じて秘密を話してくれた相手を処刑する……、確かに冷酷でなくてはできない仕事である。故に、スパイが冷酷であるのは必然だ。

が、冷酷な仕打ちをするのは、スパイだけではない。普通のどこにでもいる人が、普段は善人であるのに、ふとした機会に悪人になってしまうのである。

あなたは未だ覚えているでせう、私がいつか貴方に、造り付けの悪人が世の中にゐるものではないと云った事を。多くの善人がいざといふ場合に突然悪人になるのだから油断しては不可ないと云った事を。

既に夏目漱石が『こころ』の中で、人間性と悪との必然的結びつきを語っている。この作品は、外ならぬ自分自身が「悪人」として人生をおくることになった「先生」の物語りである。

漱石もモームも愛する小生は、悪に対してただ「許せない」と言い募る人たちの目線よりは、心の中に善も悪も抱え込んでいる人間を研究しようとする目線のほうにずっと共感を感じる。

小生の身の周りにはいないが、ただひたすら『そんなこと、許せない』と憤る人は、人間理解という以前に、自らの倫理感覚が鈍感なのだと小生は思っている。他を罰することに偏る人は、自らを善しと決めてかかっているから可能であるわけであり、それは倫理感覚が鈍いことの現れでもあるからだ。

***

ある検事総長だったか…
巨悪は眠らせない
とか何とか、話したというので、一世を風靡したことがあった。

今回のカルロス・ゴーン元・日産会長も「巨悪」を演じていたのかもしれない。

しかし、一昨日の晩、同僚と一献酌み交わしたのだが、こんな話をした。

小生: ゴーンさんの裁判の行方はまったく分かりませんよねえ・・・ 
同僚: そうですね。経営学者としては教えられる事も多い人でしたが。 
小生: でもね、こんな多国籍の人が関係する国境をこえたビジネス事案はこれから増えてくると思いますよ。ルーティンを学習しておかないと検察も対応できんでしょう。 
同僚: 増えてくるでしょうね、確かに。中国とか、アメリカとか、もう発生していてもおかしくはないですから。
小生: フランスだから良かったんですよ。これが中国だったら、いやゴーンさんが仮にアメリカ人だったらどうでしょう? 著名なアメリカ人でも同じことでしたかね?
同僚: アメリカ人だったら、ですか?・・・アッハッハッハ・・・ 
小生: 地検の特捜は内閣に押さえつけられて何もできなかったんじゃないですかねえ・・・フランスは国際事案の摘発の練習相手になってくれているんですヨ。いわば「予行演習」だな・・・、何のための予行演習かは明らかですけどネ。それにゴーンさんは生粋のフランス人じゃないですしね。まあ、多国籍の人で、どこの国が人権を守るのかがハッキリしない、ここも都合が良かったのかもしれませんね。

元・検事総長の名言には続きがなければ現実的ではない。正確には以下のように言うべきだった:

巨悪は眠らせない!
もちろん自分たちに出来る範囲で、ですが…

『人間が白黒の二色で塗り分けられるものなら、生きるのも楽になり、行動するのも簡単になる!』。これまた『アシェンデン』の中の一節だ。

日本のメディア産業が毎日大量生産している報道記事が、耐えがたいほどに浅薄であることと、最近の日本の文学作品が(一部を除いて)どれもこれも善は善、悪は悪とでも言いたいかのような薄っぺらさがあることと、どこかで繋がっているのだと思っている。



2019年4月6日土曜日

一言メモ: 「世論調査」は改称するほうがよいのではないか

マスメディア各社が実施するいわゆる(自称?)「世論調査」。その不思議で、理解困難な点は小生の仕事柄もあって、これまでにも何度か本ブログに投稿してきた。左上の入力欄に「世論調査」を入れて検索をかけるだけで、結構な数の投稿をしてきたことに改めて気がつく。いやあ、「世論調査」というのは色々と考えさせられてきたのだネエと、驚くくらいだ。

滋賀大学にデータサイエンス学部が創設されたときは、当該分野の専門家にも評判になったが、今度は成城大学にも類似の機関ができたとのことだ。

成城大学は、2019年4月、データサイエンス教育研究センターを開設した。データに関心を持ちデータに基づき考え行動する学生を育て、人文・社会科学の分野におけるデータサイエンスの応用の開拓を目指す。

(出所)『大学ジャーナルONLINE』、2019年4月6日


メディアの報道記事を読んでいると、あまりにデータに対する「無感覚」― これを"IT Illiteracy"ならぬ"Data Illiteracy"というのだろうが ― が記事執筆者から伝わってきて、そのたびごとに文系学部の理数教育軽視の弊害、というより、それ以前に何かというと「理系」、「文系」というタテの壁が学問世界に歴然としてあると思い込んでいる日本の非常識に呆れてきたのだ。

外国の専門家の略歴をみていると、「歴史」から「物理」に移籍したり、「数学」から「哲学」に移ったり、「文学」から「化学」へ移ったりしてきたケースがままにある。

そもそも欧米の"Under Graduate"の教育開始時において、「理系」、「文系」の2分野に分けるという系統的区分はなく、まして進学指導においてこんな言葉が使われていることはないはずである。日本においては、単に「数式」や「ロジック」が嫌か、嫌でないかで生徒をフィルタリングしているだけであって、学問の発展には極めて問題が多い……、というのはずっと以前から指摘されているが、報道界で注目されることはない。

というより「不正統計」などといって、統計業務の細かい点に食らいつく割には、学問の事柄にはとんと関心を示さないという傾向にも、小生は理解の困難を感じている。

上のように、データサイエンス関係の教育機関が増えていけば、少しは数字に明るい報道記者が記事を書くようになるのだろうか。そう期待してやまない。18歳以降の学部教育の段階から知識全体を「理系」と「文系」に分けて語るのは、日本経済の足を引っ張る原因にすらなっていると思われる。


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それはさておき、いや、それにしても、メディア各社の「世論調査」。令和の新元号発表の前後で安倍内閣支持率が10パーセントも急上昇したそうだ。

次回の「世論調査」では、その「一時的要因」が剥げ落ち、しかも新しく出来した国交省副大臣による「忖度発言」が影響して支持率は10パーセント以上落ちるのではないかと、業界ではいまから「予想」しているそうなのだ、な。

これはもう「世論調査」というべきではない。「印象調査」と呼ぶ方が適切だ。もし、こんな不安定に揺らぎ動く数字が本質的・実質的に「世論」をとらえているのだとすれば、小生は「民主主義」には反対せざるを得ない。英国のEU離脱騒動を観ているだけでも、その理由は明らかだろう。

数字に表れているのは世間の総意としてマクロ的に実存している「世論」ではなく、『今の内閣、感じ悪いヨネ』、『結構、好いノリしてるヨネ』という類の現時点の社会心理状態だろうと思われる。英名をつけるとすれば"Public Opinion"ではなくて、"Contemporary Social Sentiment"を使うべきである。

2019年4月2日火曜日

メモ: 『便利なのが一番』に政治的思惑は不要である

昨日、新しい元号「令和」が発表され、これから史上空前の10連休が終わるまでは「さようなら平成」キャンペーンで列島全体が盛り上がりそうである。

この事自体は好いことであろう。少なくとも「怪しからん」と非難して水をさす必要はない。

実体経済に不透明感が増す中で株価も上げるかどうかは分からないが、10月には即位の大宴もあり、最初の予想よりは心理的な明るさが増して、今年の景気は意外と強めに推移するかもしれない。『消費税率引き上げ?8パーセントから10パーセント?いいヨ!かまへん、かまへん』と、そんなノリですんなりクリアされることすらあるかもしれない。

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それはともかく…

元号の使用がそもそも時代遅れなのは、外務省が西暦で原則とすると決めたことによく表れています。
「和暦やめ西暦の原則使用、外務省が検討 読み替え煩雑で」(朝日新聞2019年4月1日)
参照
「今日から和暦をやめて西暦に。新元号発表を契機に和暦はやめるべき。無駄混乱邪魔」(ブロゴス)
 これが文化だ、伝統だなんていうのも時代錯誤。一部の人たちの思惑でしかありません。
 これを機に元号とはさよならしましょう。
URL: https://blogos.com/article/368022/


こんな意見も開陳されているからインターネットというのは、色々とマイナスの側面を指摘する人もいるが、やはり自由な議論の場として貴重である事実に変わりはない。

ただ一つ疑問がある。

「元号」なる慣習なり、制度に抵抗を感じる日本人がいることはなるほど理解できるのだが、「元号」には国粋主義を感じ、「西暦」ならば好いという理屈はさっぱり分からないのだ、な。

「西暦」とはキリスト紀元である。小生は父祖代々の他力本願の仏教徒である。「元号」はダメで「西暦」は好いという心理は共有できない。

しかし、こんなことを言いだせばイスラム教徒は「西暦」に反発する権利がある。西暦はキリスト教徒だけが使用すればよいという理屈になり、実に不便である。国連の公文書はどの暦法を採用すれば許容されるのか結論が出なくなる可能性がある。

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「元号」に国粋主義を感じるなら、「西暦」にも近代欧州のコロニアリズムを感じるべきである。が、こんな政治的思惑を述べるとすれば、「愚か」とまでは言わないが、「頑固」だとは感じるし、そもそもこんな議論は不必要であろう。そう思われるのだ、な。

年月日は普及している便利なやり方をとるのが効率的だ。これだけである。それ以上でも以下でもない。暦や月日の数え方、曜日の呼び名などは自由に決めればよい。「それは不便で問題だ」という人がいるとすれば、「世界では西暦の普及率が高いようですぜ」と。言葉の英語、通貨のドル。ツールは便利であればそれでよい。

旧くとも「祭り」は全国各地で継承されており、相撲も半分は神事、半分は興行として今後も継承され、観戦したい人はチケットを買うだろう ― 小生も夏場所の升席を買った、令和最初の両国開催場所である。「元号」の習慣を続けたいと思う多数の日本人がいる限り、元号も代を重ねながら続くことだろう。大安仏滅を気にする人はまだいる。干支占いもまたなくならない。それには実質的理由がある。科学の進展とは別のことであり、生活をそれなりに面白く豊かにしてくれている。

結果として慣習が継承されてきて、今後も続くとすれば、それを認めるしか選択肢がないのが政治という営みである。

もしも「国」というものが実存らしくありえるならば、国を国たらしめている個々の人間たちの慣習や感性が先にある。なので、継承されてきた慣習が良いの悪いのと言い立てて、社会をある方向に導いていこうという行為は、よく言えば「前衛的かつ革新的」、客観的には「左翼的で暴力的」、簡単に言えばそもそも尻尾が犬を振りまわすような行為であり、そんな試みは横暴である。時間の無駄とすら言える。そう思われるのだ、な。

無駄な前衛的な議論などはせず、便利なものは素直にツールとして使えばよい。政治的思惑や「▲▲イズム」は不必要。そうではないだろうか。

2019年4月1日月曜日

一言感想: 新元号「令和」

元号で社会的スケールの狂騒曲が演じられるのは、(もはや)世界で日本一国のみである。

それでもテロや大災害で騒然となるよりは、余程、好いことには違いない。これが第一点。

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11時半に菅官房長官が「令和」の2文字を墨書した額を掲げたとき、小生の最初の印象は一部の人がネガティブな第一印象を述べているように「命令の令だなあ」というものだった。

『万葉集』に基づいたという選定理由はそれほどスッと頭に入ったわけではない ― 多くの人も同様だっただろう。

今回は漢籍に加えて日本の古典を専門とする人を選定作業に加えたという報道が流れた段階で、新しい元号は我が国の古典から選ぶのだろうという見当はアラアラでついていた。それでも(これも多くの専門家が述べているように)、多分、『日本書紀』か、それとも歴代の天皇の御歌か、もしくは和歌の秀作ではないかと思っていた。例えば大伴家持の「海ゆかばみずくかばね…」などは戦前の準国歌ともなっていた。あるいは時代を下って、本居宣長辺りの名句からか。そんな風に思いめぐらせていたのだ。まあ、こうして思い返すと、いい線は行っていたのだろう。

何事も予測のトレーニングは役に立つものだ。

それにしても「司令官の令」、「命令の令」とはネエ・・・という感覚がまずあったのは事実だ。

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しかし、日本の漢字は意味解釈が重層的で複雑である。読み方すらも、呉音、漢音、唐音と複数ある。

「令和」の令は、「ご令室」、「ご令嬢」、「ご令兄」の令であることにやがて思い至った。

「令」の元来の意味は「神の思し召し」というニュアンスであるらしい。となれば、「神意にそった和を」という意味にもなるか……。と、こう考えれば、神社に毎正月初詣する日本人の感覚が現れた国風の元号であるとも言える。

簡単にいえば「うるわしき和」という理解でいいのだろうと、まあ、人間の慣れというのは便利なものである。

もちろん元々の意味は、初春の令月(=二月)に咲く花を愛でる叙景的な感動から発するものである。