だからディケンズを読んでも、馬車は出てくるが自動車はない。シャーロック・ホームズが利用した電報はまだない。ランプもなく蝋燭である。しかしガス灯は既にロンドンの夜を照らしていた。
『荒涼館』は訴訟事件が軸の一つになっているが、現代でも生きるような文章があるから面白い。
たとえば
『制度だ!どこにいってもわしはきかされましたよ。制度がそうなってますからって。個人が問題なんじゃない。制度がそうなってるんだって……おまえは正義にもとづいてさばかれた、だから引き下がりなさい、といえますか?…あの男には責任がない。そういう制度になってるんだから…』(第15章)
ディケンズは、言うまでもなく役人ではなく、民間に生きた作家である。制度や正義よりも人間個人に目を向けるとしても、ごく自然で当たり前だ。どの人も自分の人生を生きているのであって、制度や法律をまもることが人生の目的ではない。そもそも制度や法律などは、その時々の流れでどうにでも変わりうるものである。昨日までは「正しい」とされたことが今日は「間違い」であったと一変しても誰も責められないのが浮世の習いだ。大事なのは、現実に生きている人間集団のコモンセンスである。その場の人がどう感じるかという感性と常識だけが、実存するルールである。
実に健全だ。
民間放送の番組を観ていて、何よりも不愉快に感じるのは、「法的にはどうなるのですか?」という問いかけから、ほぼ常に話を始める点である。
「こうなったには理由があったと思うのですが…」という普通の疑問から話を始めれば、真っ当な内容になるだろう。法律や正義を問題にするのは役人や司法当局、法律専門家だけにしてほしいものだ。世間の井戸端会議に弁護士や検事OBは不要である。
誰のために民間メディア企業を経営しているのか分からなくなる現象が目に付くことは実に多い。
駐車場の隣の区画に蟻が巣を作っている。コンクリートの割れ目から地下に入り込んで、通路を縦横に掘削しつつあるのだ。まさか、地面が陥没することはないだろうネエ…管理人室には「蟻が巣を作ってますよ」と伝えておいた。アリの世界にもルールや制度があるのだろう、社会である以上は。それが何であっても、「だから何?」というほどの意義しかない。アリ社会にのみ役に立つのがアリの法律である。人間社会の制度、法律、正義もどこか似ているところがある。
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