2019年6月3日月曜日

一言メモ: 「引きこもり」へのネガティブ・イメージには直ちに賛成できない

前稿で取り上げた悲惨な殺傷事件の加害者がともに「ひきこもり」を続けている人物であったことから、「ひきこもり者」への一般的なネガティブ・イメージに結び付き、それに反対する意見が表明されるなど、一連の論争が発展しているところだ。

今日は一言メモ:

殺傷事件については経年別、地域別にデータが蓄積されているはずである。なので、事件発生時の加害者の属性ごとに犯罪行為を実行する条件付確率を算出することは容易であるはずだ。また、その他の属性と併せて、犯罪行為要因分析を行うことも決して無駄ではないだろう。

一言で殺傷事件とはいえ、酒に酔った末の暴行が絡む事件、自動車運転時の死傷事故、近親者間の事件等々、多数のタイプに分けられる。そして、各タイプについて統計的に当てはまる関係も異なるだろう。

おそらく関係分野の専門家は相当の分析を蓄積しているのだと推測する。これらの結果に基づいて、何らかの「ネクスト・アクション」が提案されてくるなら、これもまた学問の社会的意義というもので、問題解決に向けた社会的なPDCAサイクルが機能している一例になる。

「引きこもり」全般に対するネガティブ・イメージには賛成できない。とはいえ、アルコール摂取量が増えたり、喫煙をしたり、運動不足であったり、果てはギャンブルにのめりこんだり、ドラッグを用いたりと、実証的な意味でネガティブな効果が確認されている「生活習慣」も幾つかあるわけである。「引きこもり行動」がマイナスの結果を誘発する傾向が統計的に有意であると判定されれば、「その種の行為は望ましくない」というネガティブなイメージをもつとしても、それは科学的な結論として適切である。

現段階では「ネガティブなイメージ」と言っても、それはまだ印象的なものであり、非科学的である。

念のために加筆しておく。咳をするから発熱するわけではない。真の原因として風邪か、インフルエンザなどの罹患があり、その真因から咳や発熱という諸症状が起きるのである。引きこもりやギャンブルへの依存が原因となって何かの犯罪行為を実行するに至るという因果関係はないのだと思う。何かの原因が別にあって、その真因が望ましくない生活習慣や社会的に許されない行動をその人にとらせるのだと小生は思っている。とはいえ、咳をすれば病気が疑われ要注意であるのと同じロジックで、「ひきこもり」は要注意な生活状態である。こんな結論がデータから確認されても小生は驚かない。

2019年6月2日日曜日

川崎事件に関連して: 解決困難な新種の問題の兆候なのか?

登戸駅周辺で発生した「無差別殺人事件」に関連して、「拡大自殺」という(犯罪心理学上の?)術語が世間で使われ始めている。

もしこの用語が学問上の普遍的な術語であるなら、制度・慣習ならいざしらず人間性そのものは現代と昔とでそれほどまで違うことはないわけだから、戦前期の日本にも観察されていたはずである ― そんな目で探せば、戦前期の日本農村においても凄惨な事件はあった。例えば有名な「津山事件」などはそうだ。

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思うのだが、今回の川崎事件とはちょうど逆向きの事件に位置づけられるのが、農林水産省の元事務次官による息子殺人事件ではないだろうか。

この人の名は小役人をしていた小生にも記憶がある。なので、今回の報道は相当な衝撃であった。職業的な有能さと成功に比較して、その家庭上の失敗は何という悲惨さであろう。小生はこの他にも成功と失敗が同居する幾人かの先輩を知っている。

元次官は永年引きこもっていた中年の息子を刺殺した。近隣の人は、老夫婦(息子の両親)が二人で買い物に外出する姿をよく見かけたそうだ。しかし息子が同居していると今回の事件で知って驚いたとも話しているよし。

ここから先は、小生だけの憶測なのだが、息子の家庭内行動にドメスティック・バイオレンス(DV)に発展する兆候を認めたなら父親はどう行動するだろうか?この状況は川崎事件の加害者を保護してきた伯父夫婦とも幾分かは共通しているかもしれない。

一方は、自分が先に死去したあとに残される老妻を心配し、また世間にどんな「迷惑」をかけるかと懊悩し、自分が死ぬ前に最後の義務として自分の息子の命を自らの手で奪う。これもまた自分の人生の一つの清算の仕方であるかもしれない、と。社会的責務であるかもしれない、と。小生も(もしも同じ状況に立たされれば)そう考える「可能性」がある。かたや、自分たちが老いた後の介護について市役所と相談し、その後引きこもっていた甥が単独で事件をひき起こす結果になった。そう観る人もいるかもしれない。

つまり、どうも二つの事件は現代社会の未来像について考えるための何かの素材であるのかもしれない。そうも感じるのだ。

自分と同居する子弟が世間に迷惑をかける「可能性」があれば、「何よりもそれが申し訳なし」と感じてそれを予防する義務感から家庭内で自分の責任において「始末」しようとする意志を「社会的正義」として認めるかどうかである。

「可能性」の具体的内容にはあらゆる内容が含まれ、「始末」の程度にもあらゆる度合いが含まれる。要は、家族は社会においてそのような働きをするよう期待されるのか否かなのだ。

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それが「善」であるかどうかという倫理学の観点にたつなら、一方には「善意志」の作用に着目しそれが「善」であるとみる立場もあるだろうし、一人の人間の命が意図的に奪われたという結果に着目し、それは「悪」であるとみる立場もあるだろう。

しかし今の主題は「個々の家族の内部においてとられるそのような行為に社会的な意義を認めるどうか」である。

家族は世間に対して迷惑をかけないほうが善いに決まっている。では、世間、社会と呼んでもいいが、家族の成員が周囲に迷惑をかけないようにするため、どこまで真剣に努力するべきなのだろうか? 家族が<主体的に>、<意志的に>迷惑をかけないようにするためにとる行動を、社会はどのように受け止めるべきなのだろうか?

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家庭内の「体罰」を法律で禁止しようとする潮流が表面化している現在、「家庭内の制裁」には真っ向から反対する意見が多いのだろう。しかし、『家の中の問題は家の中でまずはケリをつけてほしい。世間に迷惑をかけないでほしい』、そんな感情も現代日本には濃厚に残っているのではないだろうか。

現代社会において、本当に「家族」が風化し、解体されるのであれば、あとは社会が家族の善いところも悪いところも引き受けるしかないのが理屈だ。本当に、そんな日本社会を構築できるのだろうか?

深い考察を加えずして、『体罰は良くないよネ』という程度の軽いノリで家族の機能を弱体化させてしまえば、社会がそのツケを負担する。それだけの覚悟を日本の社会は持っているのだろうか?もしそんな覚悟を持っているなら、何か大事件を引き起こした加害者の両親に関心をもつような取材は控えるべきであろう。責任は、そんな大事件をうんだ日本社会にあるという論理になるのだから。

日本の伝統的な「家族」においては、警察も家庭内の事件には「深入り」しないものであった。いまは家庭内で子供の尻を叩いても社会が法を根拠に入ってこようとしている。であれば、社会が国民を一つの家族にまとめ、叱責も懲戒も社会が行う理屈だ。そして、社会が課する究極の体罰として「死刑」がある。(後日加筆: 社会による懲戒・懲罰には変更がなく、家族が担ってきた役割は風化するのだとすれば、その分だけ全体としては人間関係が希薄化し情愛の少ない住みづらい空間にこの世がなってしまう理屈になるのではないか?それとも家族による懲戒機能を停止することによるプラスの効果が大きいと判断できる実証的根拠はあるのだろうか?)

そもそも本当にこのような考え方で人は幸福を築けるのだろうか?

そもそも現実に存在し機能するのは「家族」であるべきなのか? 「社会」であるべきなのか? 「国」であるべきなのだろうか?

「秩序」に関する日本人の感覚がどのように変わりつつあるのか、また変わらずにいるのか。何が責任をもつのか、どう分担するのかという問題なのだと感じる。そして、いかなる秩序も、現実に生きて暮らしている人間の幸福をもたらすものでなくては、何の意味もない。そして国や社会は関係者(=住人)が取り決めた法的で慣習的かつ擬制的な存在であって、それ自体が幸福を追求できるものではないのだ。

2019年5月31日金曜日

「人口政策」は意義のある、必要な政策だと思うのだが

桜田前五輪相が失言をしたというので非難されている。

「結婚しなくていいという女の人が増えている」あるいは「お子さん、お孫さんには子どもを最低3人くらい産むようにお願いしてもらいたい」

ネットの報道を読むと、大略、こんな発言をしたという。「発言」とはいえ、不特定多数の聴衆を相手に自分の政策を語ったというより、自民党議員が集まるパーティでそんな話をしたそうであり、まあ仲間内である程度の最大公約数的な見方を面白い言葉にしたという一面ががあるのかもしれない。

とはいえ、相当の反感を世間ではかったらしく、また再びバッシングのターゲットになった感がある。

「ターゲット」になりやすいという点では「日本のトランプ」と言えないこともないが、愛嬌はこちらの方がマシかもしれない。

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非難する人の大半は『子供を産む、産まないはその人の自由である』という意見を述べている。

確かに道理だ。

思うのだが、国が実施する政策に「経済政策」があるということに反対する人はあまりいないのではないかと思う。この中には、財政政策、金融政策、貿易政策、産業政策等々、日本人の生活に大きな影響を与える政策が網羅されている。

国防政策も重要であるし、治安・防犯対策も政策の一分野である。他にも、社会保障政策、福祉政策、教育政策、環境政策、etc.…国の未来を見通すうえでどれも疎かにはできない。

同じ意味合いで、「人口政策」もある。"Demographic Policy"である。中国で推進されてきた「一人っ子政策」は日本人にも有名である。が、少子化の進行に悩んだフランスの人口政策も聞いたことのある人は多いはずだ。同様の政策は北欧諸国も進めてきた(この資料を参照)。出生率が低下した国では必要な人口政策が実施されてきた一方、英米では特段の政策を採っていないが、それは出生率が十分に高いからであると推察できる。そして、日本は既に相当な少子高齢化の状態にあり、出生率もかなり低いのが現実だ。

実際、リンクを張った資料をみると、日本は現物給付率は(確かに平均以下ではあろうが)それほど格段に低いわけではないが、現物給付率では説明できない「その他要因」によって出生率が非常に低くなっている。現物給付状況(並びに現物給付と相関関係にある諸々の要因)とは無相関の「その他要因」で出生率が低い。では、ここでいう「その他要因」とは具体的に何なのか。

現代の日本社会には人口政策を考えるうえで確かに解くべき問題があるわけだ。人口政策に関連する政策分野として移民政策があるが、それと並行して日本の国情に適した人口政策を推進するとしても決して不適切ではない。

桜田前五輪相は自民党の議員であるから、こんな問題意識が頭の片隅にあるとしても不思議ではない。色々な課題の中で「国勢≒人口」のトレンドが非常に気にかかっていたとしても、それは心情としては自然である。そんな風にも小生は感じるのだ、な。ま、使った言葉は「政策」というにはほど遠く、激励というにも言葉遣いが乱暴で、場末の冗句といったレベルではあるが……。

いずれにしても、擁護するとか、共感するとか、反発するとか、そういう次元の詰まらない感情論にしてはならない話題ではある、と。そう思うのだ。

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「子供を産む、産まないを政治家が云々するのは余計な話ヨ」という反発は、感情としては理解できるが、この論理を突き詰めると最後には「人口が減ろうが増えようが、それは自由な選択をした結果なんだから、どうなっても諦めなさい」という理屈になり、「政府が人口政策を決めるなど不必要、すべて認められない」という結論になるのではないか?

ヨーロッパで実行できた政策を日本はしてはいけないのか。人口増加策を検討することは重要ではないのか。たとえば3人以上の子供を育てた両親を表彰することは女性の間に差別を持ち込むことになるのか。もしそうなら、なぜそうなのか小生には理由が思い浮かばない。

人口政策に裏打ちされない社会保障政策は、核燃料サイクルの裏打ちなき原子力発電とどこか似ている。とすれば、終末処理が担保されない原発を否定する人は、人口政策の裏打ちなき社会保障政策を否定しなければならないというロジックになるのではないか。

生きやすい社会を目指しながら、いまよりはもっと多くの子供を育ててほしいという政治家の発言に反発する理屈も(もしこれが理屈になっているなら)奇妙な理屈である。


2019年5月30日木曜日

一言メモ: ▲▲代行業サービスが益々発展するかも……

川崎市登戸駅近くで発生した悲惨な事件で犠牲になった女児のご両親がマスコミ各社(?)宛ての書簡を書いたというのでニュースになっている。そこには世間に対する感謝と併せて、今後は直接の取材活動を控えてほしいという希望が記されていた。

ムベなるかな…という印象である。と同時に、自らがこんなことまで何故しなければならないのか、と。そんな感想もある。

犠牲者の両親の胸中は察するに余りある。A社の報道記者一人に気持ちを伝えるならまだよいだろう。A社の次にB社から人が来訪してもまだいいだろう。

ところが放送局の数だけ、いや最近はワイドショー番組が専属のリポーターを派遣する方式が広まっているようでもあり「放送局」の数だけというより「番組」の数だけと言うべきだろうが、加えて新聞社の数だけ、週刊誌の数だけの取材陣が膨大な数のカメラとともに押し寄せれば、嬉しいお祝いの場ですら辟易とする。同じ話をするにしても疲弊する。まして突然に被害者家族の立場に立っているならその心情は更に深く傷つくというものだろう。

営利活動(←有料CMを放映する以上は定義から営利活動となる)は自粛するべきだと、端的に感じるのだ、な。

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「退職代行業サービス」がサービス拡大をすれば一層の成長につながるはずだ。「過剰な取材を控えてほしい」という「取材自主規制願い」を代行業サービスのメニューに是非含めてはどうだろうか?

図らずも世間のターゲットになってしまい、心無いメディア・スクラムの被害を受けたり、風評被害の後遺症に苦しんでいる人々は、「取材自主規制願い」の作成とメディア各社への配布、警察、市町村など公的機関や日弁連の人権擁護委員会への提出などを代行してもらうのに十分な理由がある。

誠にこの世はリスクに満ちている。悪意によるリスクもあれば、過剰な善意によるリスクもある。無関心によるリスクも当然ある。リスクはリスクに応じた保険サービスでカバーされるべきだ。そしてマスメディアの餌食になることもこの浮世のリスクの一つである。

2019年5月28日火曜日

コメント: 消費税率引き上げに関連して

NewsPicksで消費税率引き上げに関するコメントを書いておいた。

こちらにも転載しておく:

この10月の消費税率引き上げが現在の景気動向の下で適切かという議論が試行中だ。
税率引き上げ後、家計が実質消費を削らなければ貯蓄が減って家計のISバランスは悪化する。ISバランスが悪化すれば、貯蓄の取り崩しや債務の増加が進む。家計の財務状況は悪化する。一方、政府は政府消費が一定なら貯蓄が増える。公共投資が同じならISバランスが改善する。ISバランスが改善すれば、債務の減少が見込まれる。つまり「財政再建」が進むことになる。
日本全体のISバランスは経常収支に見合う。経常収支は消費税率の引き上げによっては変わらない(としよう)。とすれば、消費税率は日本全体のISバランスを家計、企業、政府の3部門でどのように分け合うかという話になる。
財政が再建されても、家計の財務状況が悪化すれば、元も子もないではないかという議論は常にあるわけだ。
しかし、今回の税率引き上げには、増えた消費税収を社会保障給付の拡大を通してそのまま家計部門に戻しましょうという一面も混ざっている。この一面だけをみると、消費税を多く支払った家計から、支払額の少ない家計へ資金を移転するという作用も(多分)出てくるだろう。
家計部門の中で財務状況悪化が進むよりは、日本の公的部門の財務悪化として一元管理されている方が、同じ「悪化」よりはまだマシかもしれない……。とすれば、あえて消費税率引き上げはしない。巷で噂されているように、日銀の量的緩和がついにインフレにつながりはじめたとき、そんな時の特効薬として増税はとっておく、こんな選択もあるのかもしれない。
この問題、最近になって色々な理論が出てきているので中々追いつけない。要勉強。

この20年間の日本経済は慢性デフレ状況に陥った際に「政策実験」を実施した1ケースに該当する(とされている)。

その意味でも、信頼性ある経済統計の整備が世界経済の健全な運営のために欠かせない。

2019年5月26日日曜日

断想: 「生きがい」は死語になりつつある?

ずっと以前の時代、仕事を選ぶ基準としては給料や成長性、残業時間等々、色々な基準があったが先ずは「やりがい」とか「生きがい」があるかどうかをトップに挙げる向きが多かったような気がする。

「生きがい」のある仕事に携わることができれば「これは私の天職です」という言い方にもなった。

「天職」……同じ「テンショク」でも、いまそれを言えば「転職」を指すのだから時代は変わったものだ。

亡くなった父は、家庭で結構仕事のことを話すほうだったが、本社勤務だったころ同僚の噂、批評をしていたのだと思うが、『あの人はカレンド(?)入社だしなあ』とか、『あの人は天下りだから』とか、要するに「途中入社はちょっとなあ…」とでもいう様なことを何度か言っていたものである。

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実は、その会社でしか出来ないことは余りあるものではない。父はエンジニアだったから、どこに転職しても同じ仕事をしようと思えばそれも可能だったのではないだろうか。それができないと信じ込んだのはこの会社に勤めることが自分の天職だと思っていたのだろう。

父を見ていた小生は現勤務先に執着するのは間違いだと思うようになった。が、「移籍」はともかく「転職」を何度も繰り返すのは、父と同じく小生もせずにすんで良かったと思う。

「転職」が当たり前の時代になってから「生きがい」という言葉は次第に死語になってきたように思う。

多分、何のために生きるのかという問いかけに対して、『それは自分のために決まってるでしょ』という回答が最近は非常に増えていると思うのだが、自分のために生きてしまうと自分が死んでしまえば自分の人生は何のためにあったか、自分の死と同時に自分の人生の意味が消え去るという理屈になる。

虎は死して皮を残し、人は死して名を残す

なにも立身出世主義を標榜する必要はないし、英雄や偉人を尊敬しなければならない義理もない。しかし、何かを伝えたいなら、また残したいなら、自分以外の何かのために生きる必要がある。自分の死後に何かを残すことを目的にするのは、自分のために生きる人には無理であろうからである。

つまり自分の人生を超える何かがある。

何かのために生きているなら、その人には「生きがい」があるという理屈になる。自分のために生きている人に「生きがい」はありえるのだろうか?

2019年5月24日金曜日

もつ「時計」が非常に大事である

元々亡くなった父親の影響からか相撲が好きだった。その相撲好きも本場所と関係のない北海道に移住してきて長らく下火になっていた。ところが、どういう拍子か、漱石のように『趣味の遺伝』というものが本当にあるのか、上の愚息が小生をこえる相撲マニアになってしまった。それで、ずっと叱るばかりであったのが不憫になって、令和最初の夏場所の四日目、カミさんと上の愚息を連れて国技館に行ってきた。ちょうど貴景勝が御嶽海との取り組みに勝ったはいいが、靭帯を損傷してしまった日である。

その夏場所も今日で13日目になり、優勝争いが面白くなってきている。

今日は御嶽海が竜電に負け、大関復帰を目指す栃ノ心は優勝を狙える朝乃山を投げたが土俵際で踵が出てしまいこちらも負け。小生の好きな二人とも黒星で全くさえない。


明後日の千秋楽にはトランプ米大統領も観戦に来るというのだから、その日に行く人は尻がムズムズするような感触だろう。自然に良い形になれば令和最初の東京場所も楽しい記憶になるだろうが、庶民の楽しみの場に政治がズカズカと入り込んできて好き勝手をやったなどという演出になれば、不愉快な記憶となり、それから1か月くらいはTVのワイドショーで安倍総理の不定見、いや無定見と鈍感があげつらわれ、散々に叩かれるだろう。そんな可能性も明らかにあるようなので、意外と危ない橋であり、ギャンブルだと小生は思っている。なにしろ7月には参議院選挙である。危ない、危ない……

世論らしきものは突然変わることがある。しかし、社会の現実はそんなに速く変わるものではない。

現実は不変でも、そこで生きている人間の認識、心情、感情などが変われば、世界が進む方向は変わる。そうはいっても社会には社会の変化法則というものがあるはずだ。社会の変動は人間の感情とは関係がないと考える立場もある。

社会はゆっくりと変わる。小生はそう考える立場だが、突然に本質的に変わることもあると観る立場もある。

自分がもっている時計と世界の時計を合わせなければ社会を理解するなど不可能だ。

相撲の社会も世代交代期にあるようだ。この世界もまたゆっくりと変わっている。

カミさんや上の愚息がずっと持ち続ける楽しい記憶もゆっくりと増えていてほしい。思うのだが、楽しい記憶は現在の孤独を埋め合わせるものだ。そのことは小生が10代の頃、父が長らく鬱状態の病気で家の中がずいぶん暗く、だからなのかどうか今でも分からないが、小生も内に閉じこもるようになり、学校内で孤立していたのでよく覚えている。

今日は閑話休題ということで。