2019年6月2日日曜日

川崎事件に関連して: 解決困難な新種の問題の兆候なのか?

登戸駅周辺で発生した「無差別殺人事件」に関連して、「拡大自殺」という(犯罪心理学上の?)術語が世間で使われ始めている。

もしこの用語が学問上の普遍的な術語であるなら、制度・慣習ならいざしらず人間性そのものは現代と昔とでそれほどまで違うことはないわけだから、戦前期の日本にも観察されていたはずである ― そんな目で探せば、戦前期の日本農村においても凄惨な事件はあった。例えば有名な「津山事件」などはそうだ。

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思うのだが、今回の川崎事件とはちょうど逆向きの事件に位置づけられるのが、農林水産省の元事務次官による息子殺人事件ではないだろうか。

この人の名は小役人をしていた小生にも記憶がある。なので、今回の報道は相当な衝撃であった。職業的な有能さと成功に比較して、その家庭上の失敗は何という悲惨さであろう。小生はこの他にも成功と失敗が同居する幾人かの先輩を知っている。

元次官は永年引きこもっていた中年の息子を刺殺した。近隣の人は、老夫婦(息子の両親)が二人で買い物に外出する姿をよく見かけたそうだ。しかし息子が同居していると今回の事件で知って驚いたとも話しているよし。

ここから先は、小生だけの憶測なのだが、息子の家庭内行動にドメスティック・バイオレンス(DV)に発展する兆候を認めたなら父親はどう行動するだろうか?この状況は川崎事件の加害者を保護してきた伯父夫婦とも幾分かは共通しているかもしれない。

一方は、自分が先に死去したあとに残される老妻を心配し、また世間にどんな「迷惑」をかけるかと懊悩し、自分が死ぬ前に最後の義務として自分の息子の命を自らの手で奪う。これもまた自分の人生の一つの清算の仕方であるかもしれない、と。社会的責務であるかもしれない、と。小生も(もしも同じ状況に立たされれば)そう考える「可能性」がある。かたや、自分たちが老いた後の介護について市役所と相談し、その後引きこもっていた甥が単独で事件をひき起こす結果になった。そう観る人もいるかもしれない。

つまり、どうも二つの事件は現代社会の未来像について考えるための何かの素材であるのかもしれない。そうも感じるのだ。

自分と同居する子弟が世間に迷惑をかける「可能性」があれば、「何よりもそれが申し訳なし」と感じてそれを予防する義務感から家庭内で自分の責任において「始末」しようとする意志を「社会的正義」として認めるかどうかである。

「可能性」の具体的内容にはあらゆる内容が含まれ、「始末」の程度にもあらゆる度合いが含まれる。要は、家族は社会においてそのような働きをするよう期待されるのか否かなのだ。

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それが「善」であるかどうかという倫理学の観点にたつなら、一方には「善意志」の作用に着目しそれが「善」であるとみる立場もあるだろうし、一人の人間の命が意図的に奪われたという結果に着目し、それは「悪」であるとみる立場もあるだろう。

しかし今の主題は「個々の家族の内部においてとられるそのような行為に社会的な意義を認めるどうか」である。

家族は世間に対して迷惑をかけないほうが善いに決まっている。では、世間、社会と呼んでもいいが、家族の成員が周囲に迷惑をかけないようにするため、どこまで真剣に努力するべきなのだろうか? 家族が<主体的に>、<意志的に>迷惑をかけないようにするためにとる行動を、社会はどのように受け止めるべきなのだろうか?

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家庭内の「体罰」を法律で禁止しようとする潮流が表面化している現在、「家庭内の制裁」には真っ向から反対する意見が多いのだろう。しかし、『家の中の問題は家の中でまずはケリをつけてほしい。世間に迷惑をかけないでほしい』、そんな感情も現代日本には濃厚に残っているのではないだろうか。

現代社会において、本当に「家族」が風化し、解体されるのであれば、あとは社会が家族の善いところも悪いところも引き受けるしかないのが理屈だ。本当に、そんな日本社会を構築できるのだろうか?

深い考察を加えずして、『体罰は良くないよネ』という程度の軽いノリで家族の機能を弱体化させてしまえば、社会がそのツケを負担する。それだけの覚悟を日本の社会は持っているのだろうか?もしそんな覚悟を持っているなら、何か大事件を引き起こした加害者の両親に関心をもつような取材は控えるべきであろう。責任は、そんな大事件をうんだ日本社会にあるという論理になるのだから。

日本の伝統的な「家族」においては、警察も家庭内の事件には「深入り」しないものであった。いまは家庭内で子供の尻を叩いても社会が法を根拠に入ってこようとしている。であれば、社会が国民を一つの家族にまとめ、叱責も懲戒も社会が行う理屈だ。そして、社会が課する究極の体罰として「死刑」がある。(後日加筆: 社会による懲戒・懲罰には変更がなく、家族が担ってきた役割は風化するのだとすれば、その分だけ全体としては人間関係が希薄化し情愛の少ない住みづらい空間にこの世がなってしまう理屈になるのではないか?それとも家族による懲戒機能を停止することによるプラスの効果が大きいと判断できる実証的根拠はあるのだろうか?)

そもそも本当にこのような考え方で人は幸福を築けるのだろうか?

そもそも現実に存在し機能するのは「家族」であるべきなのか? 「社会」であるべきなのか? 「国」であるべきなのだろうか?

「秩序」に関する日本人の感覚がどのように変わりつつあるのか、また変わらずにいるのか。何が責任をもつのか、どう分担するのかという問題なのだと感じる。そして、いかなる秩序も、現実に生きて暮らしている人間の幸福をもたらすものでなくては、何の意味もない。そして国や社会は関係者(=住人)が取り決めた法的で慣習的かつ擬制的な存在であって、それ自体が幸福を追求できるものではないのだ。

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