2019年5月26日日曜日

断想: 「生きがい」は死語になりつつある?

ずっと以前の時代、仕事を選ぶ基準としては給料や成長性、残業時間等々、色々な基準があったが先ずは「やりがい」とか「生きがい」があるかどうかをトップに挙げる向きが多かったような気がする。

「生きがい」のある仕事に携わることができれば「これは私の天職です」という言い方にもなった。

「天職」……同じ「テンショク」でも、いまそれを言えば「転職」を指すのだから時代は変わったものだ。

亡くなった父は、家庭で結構仕事のことを話すほうだったが、本社勤務だったころ同僚の噂、批評をしていたのだと思うが、『あの人はカレンド(?)入社だしなあ』とか、『あの人は天下りだから』とか、要するに「途中入社はちょっとなあ…」とでもいう様なことを何度か言っていたものである。

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実は、その会社でしか出来ないことは余りあるものではない。父はエンジニアだったから、どこに転職しても同じ仕事をしようと思えばそれも可能だったのではないだろうか。それができないと信じ込んだのはこの会社に勤めることが自分の天職だと思っていたのだろう。

父を見ていた小生は現勤務先に執着するのは間違いだと思うようになった。が、「移籍」はともかく「転職」を何度も繰り返すのは、父と同じく小生もせずにすんで良かったと思う。

「転職」が当たり前の時代になってから「生きがい」という言葉は次第に死語になってきたように思う。

多分、何のために生きるのかという問いかけに対して、『それは自分のために決まってるでしょ』という回答が最近は非常に増えていると思うのだが、自分のために生きてしまうと自分が死んでしまえば自分の人生は何のためにあったか、自分の死と同時に自分の人生の意味が消え去るという理屈になる。

虎は死して皮を残し、人は死して名を残す

なにも立身出世主義を標榜する必要はないし、英雄や偉人を尊敬しなければならない義理もない。しかし、何かを伝えたいなら、また残したいなら、自分以外の何かのために生きる必要がある。自分の死後に何かを残すことを目的にするのは、自分のために生きる人には無理であろうからである。

つまり自分の人生を超える何かがある。

何かのために生きているなら、その人には「生きがい」があるという理屈になる。自分のために生きている人に「生きがい」はありえるのだろうか?

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