2019年11月3日日曜日

技術革新とモーツアルト

少し前の投稿でモーツアルトのことを書いた。小生は自分で演奏することはしないが音楽を聴きながら仕事をするのは好きである。なんでも聴く。その中のクラシック音楽に馴染みが出来たのは母の影響である。

母は娘時代からクラシック音楽が好きだったそうだ。父との縁談があったとき、母はショパンの『前奏曲雨だれ』を話題にしたそうである。父は偶々『雨だれ』だけは知っていた。ショパンで唯一知っていた曲名がその『雨だれ』であったのだ。この話は面白おかしく何度も母から聞かされたものだ。そんな母は結婚する時にベートーベンの『皇帝』を持ってきていた。何枚かが1セットになっているSP盤でまだ小生宅に残っている。コルトーの名盤である。それからLP盤の『運命』とチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲もあった。指揮はどちらもオーマンディ、ヴァイオリニストはフランチェスカッティだったと記憶している。この2枚のLPがまだ残っているかは宅のクローゼット奥のそのまた奥に積み重ねているのを1枚ずつ確かめてみないと分からない。いずれにしてももう傷だらけである。

残念ながら母が持ってきたレコードを再生する蓄音機はずっと家にはなかった。父はクラシック音楽には本来無関心であったのだ。家に小型のラジオ兼プレーヤーがやってきたのは小生が小学校何年生になった頃だったろうか。よく覚えていない。小生は母が買ってくれるドーナツ盤の童謡に飽きると、LP盤を何度もかけて段々とオーケストラの響きやクラシックの旋律に慣れていった。そんな小生の姿をみるのは母には結構嬉しかったようだ。『この曲、いいと思うの?』と意外そうに聞かれたことがある。それからヨハン・シュトラウスのワルツや自分が好きだったというメンデルスゾーンのV.C.を買ってきたりするようになった。

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そんなわけで小生が最初に親しんだクラシック音楽はチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲だった。それからずっと好きである。調査出張でフランクフルト経由でウズベキスタンのタシケントに行った時も飛行機の中でずっとその曲を何度もリピートして聴いていたものだ。が、母と一緒に暮らしていた時分、一番頻繁に聴いたのは回数を数えたわけではないがメンデルスゾーンの方だったかもしれない。

母は小生が小学校に入学した頃に、まだ田舎に住んでいた頃であったが、近所に訪問指導で来ていた先生につかせてヴァイオリンを習わせたのだが、子供心にはまったく面白くない。直ぐにさぼるようになった。それをみて母も諦めたようだ。小生に楽器演奏の才能はない。

そんな小生が高校生になってからモーツアルトに興味を持ったのは天才というのはどんな楽曲を創ったのか聴いてみたいという単純な好奇心があったからだと思う。それに当時人気のある音楽評論家に宇野功芳という人がいたのだが、その人物が音楽雑誌でえらくモーツアルトをほめている。その影響もある。それで、母に頼んではピアノソナタやピアノ協奏曲のLP盤を近くのレコード店に注文してもらうようになった。学校生活に適応できずろくに部活にも参加しなかった小生は買ってもらうLPに耳を傾けるのが何よりのリフレッシュの手段になった。しかしLP盤は安い買い物ではない。その当時、1枚で大体2500円ないし3000円はしただろうか。アルバイトもしない小生のオネダリを母はよく何度も聞き入れてくれたと思う。あれで家計を圧迫することはなかったのだろうか、と。今さらながら自分の身勝手が情けなくなってしまう。

LPレコードの事情がそんな風であったので、モーツアルトと言ってもそれほど多くのLP盤を聴いたわけではない。自ずから経済的制約があった。好きだったピアノ協奏曲でも実際に手に入れて聴いたのは20番、21番、それから23番と27番。その位である。

YouTubeもAmazon Prime Musicもなかった。LPレコードを自分で買うことが出来ないなら、友人に借りるか、たまにある演奏会で聴くか、そうでなければ聴かずに諦めるか、選択肢はこれだけである。モーツアルトは日本に洋楽が紹介されてからあまり評価されては来なかったようである。日本では大正から昭和、戦前から戦後にかけてずっとバッハ、ベートーベン、ブラームスの”三大B”が本流であり続けた流れがあるのではないか。モーツアルトには「思想」がないと、思想好きの日本の知識人には考えられていたのかもしれない。母もモーツアルトはあまり聴いたことはなかったらしい。それでもモーツアルトの楽曲にはベートーベンやブラームスとは全く違った美しさがあると話していたから気に入ったのだろう。いつの間にか、小生の弟もモーツアルト好きになっていたのは、ずっと後になって知ったことである。

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今では高額のLP盤を多数購入する必要はない。

年に1回だけAmazon.comにPrime会費4900円を支払っておけば、すべてのプライムサービスを受けることが出来る。その中にプライムミュージックやプライムビデオがある ― 現在はMusic Unlimitedに進化しているが、小生はWalkman ZX2で動作する旧版のAmazon MusicがMusic Unlimitedには対応していないようなのでPrime Musicの利用を続けている。このプライムミュージックで小生はモーツアルトのピアノ協奏曲の全曲、ピアノソナタ全曲、交響曲全曲、ヴァイオリン協奏曲全曲、ヴァイオリンソナタ全曲、弦楽四重奏全曲、ディベルティメントとセレナード全曲をフリーでWalkmanにダウンロードした。奏者はバレンボイムやブレンデル、パールマン等々、誰もが知っている名盤である。ベートーベンのピアノソナタ全曲、ピアノ協奏曲全曲も一昨日無料で入手した。ブレンデルである。演奏するには楽器がいるが愛聴するだけならプライム会費を払うだけでよい。これも一つの文明進化、技術革新の現れであることは間違いない。

いまはモーツアルトのピアノ協奏曲全曲を聴き終わったところだ。それで分かったのは、多くの人がいう『モーツアルトのピアノ協奏曲を聴くなら先ずは20番以降である』という通説、お薦めがまったく正しくはないことだ。間違いだというつもりはないが、助言としては不適切だ。19番は26番『戴冠式』と同じ日に演奏された『第2戴冠式』である。その19番よりも小生は18番が好きである。というより17番は傑作である。14番はいま小生が愛してやまない曲の一つに加わった。15番も佳品だ。とりわけモーツアルトが21歳の年に創った9番『ジュノーム』は最高傑作の高さに達しており、と同時にミステリアスである。初期の習作を除いた実質上の第1作である5番が既に陰影のある魅力をもっている。

モーツアルトの楽曲の魅力は意表をつくような突然の転調と奇想天外の展開にある。哀傷の心をたった1音で表現するところがある。よく評論家はモーツアルトは天国的な晴朗さを感じさせるというが、小生にとってモーツアルトの音楽は極めて人間的で、煩悩にあふれている。煩悩に苦しむ人間の生の現実をそのまま音で表現している。だから理想は感じないし、思想も感じない。しかし、弱い人間の煩悩を感じさせるその人間臭さがモーツアルトの手によって表現されると実に美しいのである。そんな音楽は30分も聴けば休みたくなる。1時間も連続してモーツアルトを聴き続けると心が疲労する。

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ごく最近になって知ったピアノ協奏曲は世評では決して有名ではない。なのでずっと昔に聴くことはなかった。モーツアルトのヴァイオリンソナタも聴くことはなかった。しかし今は聴いている。ヴァイオリンソナタの35番が非常に感動的であることも最近になって知ったことだ。どれも母は知らなかった音楽である。以前なら人々は我慢をして諦めなければならなかった楽しみである。

科学の進歩、技術の進歩によって、出来ることが増えた。生活水準が上がった。

確かに社会は豊かになっている。これだけは間違いがない。たとえ実質GDPにこういう事実が数字として反映されていなくとも、だ。

2019年10月30日水曜日

一言メモ: テレビという「井戸端ゾーン」

今回開催されたラグビーW杯の盛り上がりではファンゾーンが果たした役割が無視できない。

オリンピックも理想論はともかくとして今や巨大なスポーツビジネスとして機能している。

その五輪の人気種目であるマラソン、それから日本人選手の金メダルが期待される競歩の開催場所が東京から札幌へ変更されようとしている。

決定権限のあるIOCではもう結論が出されているということだが、最終的に議決されるのは本日の調整委員会である、というので東京都関係者は「最後の籠城戦」よろしく粘りに粘るとの決意だそうで、決意表明などがネットにはあったりする。

いまテレビでは東京招致当時の知事であった猪瀬直樹氏までが座談会に招かれて丁々発止議論している。

「そもそも招致のプレゼン段階で東京の気候はどうプレゼンされたのか?」 
「その時期の東京はマイルドで温暖な気候って、そのプレゼンは適切な表現であったのか?正確ではなかったのではないか?」 (投稿者注:東京が落選していれば今回のような恥をかかずにすんだのに……という趣旨か)
「最初に企画した国立競技場はエアコン付きでしたから・・・」 (投稿者注:ただし当初案なら施工費がバカにならず膨らんでいたかもしれない)
「マラソンや競歩の話なんです」 
「まあマラソンは外に出ますけど・・・」 
「なぜこんな始末になってしまったのか?」 
「前のJOC委員長や△△さんが委員にいらっしゃればコミュニケ―ションはとれていたのでは?」 
「招致したときの都知事としてどう思うか?」

等々。最近のテレビ特有の社会的井戸端会議であるが実に見苦しい限りだ。

おそらく昔のマスコミ業界仲間で今回のIOCの仕打ちでメンツを潰された小池現知事に忖度をしたテレビ局が、今は民間人である猪瀬・元知事に集中砲火を浴びせることで知事の鬱憤を晴らして差し上げたいと、そんな阿諛追従の思惑からこういう番組を編成したのではないか、と。思わずそんな風な邪推をもってしまいました。

事がうまく運ばなくなると、そもそも最初に担当した人を呼び出して非難したり、責任を追及したり、それがうまく行かないと誰それの責任であると犯人捜しをしたりで、内ゲバが始まるのは醜い人間の 性 ( さが ) とも言える。 内幕は週刊誌などでこれから記事になるのだろうが、あまりみっともないドタバタ劇は演じてほしくないものだ。

将来のこともあるので……。

2019年10月29日火曜日

一言メモ: 「育児」は「国事」なのか?

小生は旧い世代に属していることは間違いない。ずっと続けてきた職業生活も既に非常勤になっているから、半分以上、足を洗っている。だからというわけではないが、思想は相当に古い。保守的でもある。伝統堅持という傾向もある。

「育児」は「国事」であるという意見が一部保守系のネット界隈で盛り上がっているようだ。

流石に旧世代の小生もこれにはついてはいけぬ。

子供に一義的な責任を有し、育児について意思決定権を主張しうる人物はその子に命を与えた両親と周りにいる親族である。だから国事ではなく私事である。そう信じているし、この考え方が誤りであると指摘されれば吃驚する。

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プラトンは子供はその都市国家の公有財産であると主張した。つまり、プラトン的世界では育児は国事である。

しかし、プラトンがなぜそう考えたか、その理由とその思想を考えに入れる必要がある。プラトンはアテネを代表する名門の末裔として生まれ育ったエリートである。アテネ的な意味合いの民主主義者である。共和主義者でもある。すべての市民は国防に生命をかけて共同で敵に立ち向かう義務がある。国を守るのは国民である。共和国というのはそういう国である。だから、子供は国家で共有される人的資源であり、したがって育児は国事になる。そう考えたわけだ。

小生の立場は先日の投稿で既に述べた。国益の最大化を目的として前提すれば、国民は共同で国益を追求する人的資源になる。それは戦国時代ならまだしも、現代世界においてはおかしいと述べた。人間の命を犠牲にする意味があるとすれば人間の命を守るため以外には想像できない。国のために人間が命を賭ける必要はない。それほどの高い価値を「国家」はもっていない。地球の上の一定の限られた区域を「国」として境界付けている。その中ではメンバーが「国民」と呼ばれる。それだけである。ある区域から別の区域に移ることもある。別の区域に移れば『郷に入れば郷に従え』である。

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幸福は人間のうえにのみやってくる。国家は幸福にはなりえない。

国家が人間を幸福にできるかどうかには不確実性がある一方、国民を不幸にする国家は確かにあった。経験主義に立つべきだ。人間が国家を組織化すると便利な事は確かにあると思うが、国家を増長させるのは危険である。

小生はいつからかそう考えるようになっている。そして、こう考えても安全で平和な世界でまったく支障はない。「国」は路傍の石ならぬ漬物石くらいの存在だ。そういう世界がはやくやって来てほしいと願っている。

だから、育児は「国事」と言われても、国事にそれほどの高い価値はないでしょう、と。そう言うしかない。

2019年10月28日月曜日

感覚のズレ: 政治家 ≒ マスメディア関係者 ≒ 芸能界

政治家に失言や言い間違いが多いことは周知のことである。普通の人が聞けば、『そのくらいの言い過ぎはあるかネエ』と感じるような軽い発言であっても、マスコミはその政治家を非難し、閣僚の地位を奪い、道義的責任を追及して有権者が当選させたその議員に議員辞職を求めたりもする。

しかし、多くの場合、その議員の犯した間違いは「発言の不適切」なのである。

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さて、今度は吉本興業の芸人である徳井某である。

小生も確定申告をしているが、何とこの御仁は無申告であったという。それも何年も継続して申告そのものをせずテレビ画面に出演する仕事を続けていたというのだ、な。相当の鉄面皮であることは明々白々であって、一言でいえば「脱税」である。

国税庁が「脱税」という呼称で検察には告発していないので「脱税」ではないと言うとすれば、それは詭弁である。「納税」、「延滞」、「脱税」のいずれに該当するかといえば無申告が「非納税」、つまり「脱税」に該当する事実に変わりはない。全ての申告漏れは大なり小なり「脱税」であるというのが基本的な理屈だ。行政上の呼び名が「脱税」ではないことに安堵するのは役所の顔色をみて善悪を判断しようとする幼稚な姿勢である。

ところが・・・マスメディアの報道を連日視聴せざるを得ない状況なのだが、どのテレビ局も「申告漏れ」という言葉で表現している。中には、『重加算税という形ではありますが、既に修正申告をして納税はすませております。社会的責任は果たしているわけですから、他の犯罪行為をした人との線引きをどこに引けばよいのか考えてしまいます……』などと語るキャスターすらいる。マア、そんなご時世であるといえばその通りだが、小生、感覚が旧いので絶句するばかりだ。

バレなければ「脱税」、バレた「脱税」は「申告漏れ」というなら、それは詭弁である。徳井某は申告ミス(=申告漏れ)ではなく、無申告であった。「脱税」の意図は明らかである。

繰り返すが、「脱税」というのは違法行為の中でも重大な部類に属する。今回、犯罪者として立件されずにいるのは脱税額が1億円にみたず、当局が「お目こぼし」をしているからに過ぎない。納税を済ませたので社会的責任をとっているという表現は「不適切」であって、無申告即ち「脱税行為」であり、今回は「脱税未遂」であったという単純な事実から報道をするのが本筋である。

なぜ微温的なソフトな語り口で今回の件を報道しているかと言えば、脱税をした本人がマスコミ関係者であり、同じ業界で仕事をしてきた仲間であるからだという点は容易に想像がつく。

脱税行為が当局から摘発され、重加算税が課されたことをもって「社会的責任は果たしているわけですから…」と解説するキャスターは、失言をした政治家と同じ理由で、発言の不適切を非難されるべきだと偏屈な小生は感じるのだが、どのメディアも実は概ね同じである。そんなものかと思ってしまうのだ、な。

それにしても、サラリーマン、自営業主、開業医のガラス張り所得度をさして「クロヨン(9対6対4」という言葉が流行したり、そのうち政治家(?)を加えて「トーゴーサンピン(10対5対3対1」と言ったりしたものだが、その当時は納税の不公平、不公正に対する多数国民の非条理感が蔓延していたように覚えている。今回の件は、無申告、つまりトーゴーサンピンならぬ、トーゴーサンピンゼロのゼロである。完全隠蔽。透明度ゼロの暗幕所得。あまりにブラックである故にかえって目立ち税務当局の目を引いたということだろう。メディア関係者が小生とは違って絶句していない様子であるのは、こちらにより大きな絶句感を覚えるのだ、な。

マ、ご時世である。

マスコミ界は「世論が……」と言いたいかもしれないが、その「世論」は次期首相には誰がよいと思いますかと聞かれて、今回初めて入閣した小泉家の御曹司が次期首相にふさわしい、と。その程度なのだ。「世論が…」ではなく、ここはやはりロジカル・シンキングが求められている。

にもかかわらず・・・メディア関係者の感覚のズレ。そういうことであろう。

メディア関係者は、ある時は「世論の先導者」を演じるが、困ったときは「世論に従います」といった姿勢をとる。これでは「お上に従う」と言いつつ、やりたいことがあれば「お上の目の曇りをぬぐって差し上げたい」として勝手自儘を通した戦前・軍国主義下の軍部と本質は同じであろう。

これまた日本の歴史に残っている感覚のズレの好例である。

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そういえば、小生の親戚には金融機関関係者が多い。亡くなった父の弟たちである。父は応用化学を専攻したエンジニアであったから、いまでいう「理系」である。

『銀行で仕事をしている人の家庭はすぐに分かりますよ』というのは、母が病気でふせっていた頃、うちに来てくれていた家政婦さんが語っていたことだ ― 随分後になってから母が教えてくれた。お金に対する感覚が普通の世帯の人とはどこか違うというニュアンスなのだろう。

そういえば、誰であったか、これも近所の奥さんだったのだろうが、『学校の先生のうちって、分かるよね』と。こんなやりとりも井戸端会議では出ていたよし。

その「学校の先生」になって世過ぎをしてきたが、小生自身を振り返っても夏や冬には休みに入りノンビリ過ごす。長い旅行はする。スーツを着てキチンとした格好で仕事に行ってはいない。一日中、普段着のままだ。時々、大量に資料のような風呂敷包みを自宅に持ち帰ってくる。あの人は学校の先生かネ、という憶測はそれほど難しくはない。自分では、みんなと同じサラリーマンのつもりであったが、やっぱり違っていたのかも……。今ではそうも思われるのだ、な。

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どの職業の人間にも感覚のズレというのはあるものだ。

それでも「口先の不適切」と、「不適切な行動」とをごっちゃ混ぜにしては駄目だろう。

口で言った・言わないは、言葉が大事なメディア人や芸能人にとっては大問題だろうが、社会の現実とはあまり関係がない。

世の中はアクションで成り立っている。実際にとった行動が違法である事実は、言い過ぎ・言い間違いと同列にしてはいけない。



2019年10月25日金曜日

一言メモ: マラソン・競歩開催場所変更についての感想

来年の「東京五輪」の人気種目であるマラソンと競歩の開催場所を東京から札幌へ変更するというIOCの方針が報道されてから、マスコミ界では連日大騒動が続いている。中でも、ホストシティである東京都が変更には同意していない、東京でも真夏のマラソン大会は出来る、準備はしてきたということを小池東京都知事がテレビ画面に久方ぶりに出張ってきて東京の立場を力説している。まあ、そのこと自体は当然であるが、それをまたキャスター、番組スタッフが「応援」する……。いやはや、典型的な井戸端会議である。あまりの水準の低さに聴くに堪えない心持になる、そんな「雑談」である。

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この変更提案のきっかけが先に開かれた世界陸上ドーハ大会のマラソン、競歩の状況であったことは言うまでもない。

科学的観点から判断できる際には、倫理や規則、手続き等々ではなく、科学的に結論を出さなければならないというのは現代社会の鉄則である。非科学的な結論は反対や論難に対して常に脆弱である。

その科学に従事する人たちの立場は、大なり小なり「経験主義」に帰着する。何より「観察事実」がポイントになる。弁論、ご卓説はともかく、データが何よりも重要だと言うことだ。

この点を考慮すると、重要なことは多くはなく、たった一つである。

東京では真夏にマラソン大会を開催していない。暑いからである。つまり開催経験がない。札幌は8月下旬の真夏の時期にもう30年以上も「北海道マラソン」を開催してきている。北海道マラソンではランナーが大量に棄権をするなどはなく、マラソン大会として正常に成立してきている。
 この開催実績はキーポイントたりうる実験的事実であろう。


東京がいかに暑さ対策を進めていると主張しても、それは担当者の主張であって、開催実績として何もその安全性、信頼性が観察されているわけではない。ドーハ大会の観察事実は東京でのマラソン、競歩に抱く不安を更に高めるものであった。

今回の開催場所変更はドーハの経験から導かれた帰納的な結論である。ただ、サンプルは1回である―それはそうだろう。真夏にマラソンを挙行する際の実績サンプルはそうそう多くは収集できまい。

ドーハのたった一度の経験から「東京は危険だ」と結論するのは、余りにサンプルが少なすぎるきらいはある。それでもなお、今回の変更に手続き上の問題が多々あることは認めるとしても、実績と事実に基づけば東京ではなく札幌を採ったというIOCの判断には相当な合理性がある。

2019年10月23日水曜日

「民主主義」が基本である分野はどれほどあるのか?

週末には東京へ往復してきた。これまではANAに乗って品川でプリンスに泊まるというパターンを続けてきたが、そろそろビジネスモードからは卒業したい。そんな動機から、今回は東日暮里のマイステイズに泊まった。飛行機はジェットスターである。これまた中々オツな旅程である。

40年少し昔になるが小生は東日暮里に下宿していた。今回泊した場所から100メートル以内の圏内にはあるはずだ。ただ谷中側はともかく東日暮里側は街の変容が激しい。大体、「日暮里繊維街」には驚いてしまう。これは何だと思ってしまう。外国人旅行者の数も多い。

その日暮里の下宿には3年ほど暮らした。就職で某官庁の小役人になったのを契機に横浜の独身寮に転居した。

就職直前の3月下旬、転居する少し前のことではなかったかと思うが、その頃名古屋に住んでいた父が東京へ出てきたことがある。その2年余り前に父は胃癌の手術をしていたが、既に会社は退職したと母からはきいていた。自分自身の事で頭が一杯であった小生は父の退職を記念する夕食にも戻らず、久しぶりに東京で会った父の衰え方にただ驚くばかりであった。

父は、その夜、小生の下宿に泊まったはずなのである。しかし、小生はその夜のことを覚えていない。何を話したか、夜は何を食べたのか、まったく覚えていないのだ。

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昨日は天皇即位礼で日本中が一色であった。

その一方で皇位継承のあり方をめぐって、現行憲法下の民主主義社会にふさわしい方式をめぐって議論が重ねられているようだ。「民主主義社会にふさわしい」というのは、具体的にいえば男女平等と女性天皇・女系天皇を認めるという点に集約されるようでもある。

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「その時代の社会にふさわしい天皇のあり方」などと言い出せば、絶対君主であった飛鳥時代から、藤原氏が絶頂であった平安時代を経て、戦国時代、徳川幕府の江戸時代まで日本の天皇制は色々な社会的変化をくぐりぬけてきた。そして今は大日本帝国の時代を経て、戦後の民主主義日本である。

思うのだが、その時代の社会が真に客観的にみて「正しい社会」であるのか否かという問題は、多分100年もたってからようやく歴史家が回答できる難問である。正解は永遠にないのかもしれない。

その時々の日本人がいまの社会が最良の社会であると言い出せば、後に続く世代が前の世代の社会制度を変革しようとすれば「それは間違っている」と言われるだろう。しかし、そんな歴史的判断をする資格はどの時代のどの世代の日本人にもない理屈だ。大体、戦前期の昭和一桁の5~6年の頃から日本の社会は急激に変化し始めたが、当時の現役世代は正しい革新を断行していると意識していたのは明らかで、旧世代による反発はすべて堕落した資本主義的思想の故であると非難を加えたものである。70年も過ぎてからその頃を俯瞰してみれば、間違った認識をしていたのは当時「我々が正しい」と叫んでいた人たちであることは明らかになっている ― 少なくとも現時点の日本人からみれば、だが。

社会は時代に伴って様々に変化する。その中で、皇位継承のあり方だけは一貫して男系継承原則を守ってきた。この事実を思い起こすと、いま現在たまたま日本社会が民主主義的であるからという理由で、今の社会に似つかわしい皇位継承制度に変革しようと、と。こんな発想をすれば、今後将来、天皇制はどう変容していくかがまったく予想できず、いずれ日本から天皇制はなくなるかもしれないと。そんな予想を立てるのは容易である。

故に、「それは民主主義に反するから」という非難は小生は嫌いであるし、自分でもそんな批判をしたことはない。

時代は変わり、社会も変わるが、これだけは(ほとんど)変わっていない。だからこそ、日本の天皇は今も「国民統合の象徴たりうる」のではないか。理屈としてはこう考えるのが本筋であるような気がする。そもそも天皇制と民主主義とは関係がない。こう言えば、当たり前すぎるほど当たり前の事実である。

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最近になって『そもそも民主主義によって解決するべき事柄とはどんなことだろう?』と、そんな問いかけを自分にすることが増えた。

私たちは、日常、民主主義をどの程度まで意識しているのだろうか?

上では父のことを述べたが、小生の家族は決して「民主主義的な家庭」ではなかったと小生は記憶している。何か大きな買い物をするときに父が家族の意向をヒアリングしたなどということは全くない。というか、小生が高校から大学に進学するときにも、どの学部に進むかという小生自身の希望よりは父の意志が通ったものである。現在は、マア、父が息子である小生を視ていた視点の方が、18歳だった高校生が自分をどう見ていたかよりは、余程適切で正確なものであったことを事後的にではあるが理解できている。人生経験、社会経験、総合的な判断力というのは決してダテではないのである。

いま日本の社会の中で真に民主主義的な家庭がどのくらいあるのか一度きいてみたいものである。

もう一つの代表例をあげよう。「会社組織」は「民主主義」によって経営されてはいないはずだ。文字通りの上意下達ではないにしても、そもそも会社はドイツ流にいえばゲゼルシャフト、つまり特定の目的を効率的に追求するために設立された人為的な組織体である。株式会社であれば、投票権をもつ株主による総会、その意志を体現して経営管理業務を執行する取締役会が経営上の決定を行う。社員はその決定を実行するのである。だから会社は民主主義的組織ではありえない。官庁もそうだ。在職している官僚の「自由意志」を尊重して民主主義的に官公庁を運営するなどはトンデモナイことである。

ミルグロム・ロバーツの『組織の経済学』を読むまでもなく、相互に平等な参加者の自由意志によって問題解決をはかる方が適切な場合と、組織的なマネジメント・システムによって解決するほうが適切な場合と、これら二つは状況に応じて、問題に応じて、区別していかなければならない。臨機応変に効率的に調整して資源を集中していくことが最も重要である場合には組織的管理が有効である。何も難しくはない。誰でも経験的に知っている常識である。だからこそグループが形成され、組織が生まれ、共同の目標を追うのである。会社や家族が現にある以上、自明のことだといってもよい。

解決しようとしている事柄によっては民主主義による解決がベストであるとは限らない。

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組織には特有の目的があるものだ。たとえばそれは「出資者の利益」である。家族が存在するとすれば「家族の幸福」を追い求めるはずだ。『なぜそれがあるか?』、常に最も重要であるのは、その存在意義、つまり仏語でいう"raison d'être"であろう。

思うに、特に追求するべき課題や目的があるわけではない。ただ解くべき問題がそこにある。そんな場合には「民主主義」が適切である。それでも数学の難問に民主主義によって解答するのは馬鹿な企てである。クイズに民主主義を適用するのも愚かなことだ。経済政策に最適解があるにもかかわらず、有権者多数の反対があるからといって、民主主義的にその政策上の立案を葬り去るのも考えてみれば馬鹿の極みかもしれない。

問題が紛糾した時に、国家元首あるいは代表者の意思で裁決するならそれは民主主義的ではないと小生は思う。反対に、同じ問題を一般国民の投票で裁決するならその社会は民主主義的であると思う。

国は「国益」を追求する「組織」であると認識すれば、国民は国益を最大化するための人的資源になる。これは民主主義的ではないと思う。民主主義的な国家であれば、何が国益であるかという出発点で既に投票による。小生はそう思う。

だとしても、国は「国益」を最大化する組織ではあり得ない。もし国益の追求を目標として前提すれば、国民はその目標に努力し、奉仕することが求められるかもしれないからだ。これは民主主義には反するのではないかという気持ちが小生にはある。

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結局、民主主義社会とはどんな社会なのだろう。民主主義によって人は何を決めるのだろう。

客観的に答えるのは難しい。

人々が「いまの社会は民主主義的だ」と思うなら、民主主義社会なのだろう。民主主義とは無関係の天皇制があっても、大方の日本人が「日本は民主主義的だ」と思うなら、日本は民主主義的である。

小生の頭の中の「民主主義」はこんなポジションを占め始めている。

2019年10月15日火曜日

「食う寝るところ、住むところ」を選ぶにもロジカルシンキングが必要だ

昭和40年春から43年夏までの3年間余り小生の家族は東レのエンジニアであった父を追って元住吉にあった社宅で暮らした。東横線で元住吉の隣駅が武蔵小杉である。当時の武蔵小杉は駅前から閑散とした通りが続き、賑わいもなく、住みたいと思うような界隈ではなかった。だから近年になって高層マンションが立ち並ぶお洒落な街に変貌したことには驚異を感じるばかりであった。ところが今度の台風19号による水害を蒙ってマンションに住む人たちが停電や断水に苦しんでいるという。この世の中では色々な事が起こるものである。

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日本の食生活の中心は米であった。米を作るには水田がいる。良い水田は水を引きやすく、土質が適していることが必要だ。良い土質は好い土壌が堆積されることで形成される。よい土壌は氾濫した河川が運んでくるのである。氾濫する水は低地に流れていく。故に、日本の集落は川に近く、土質がよく、稲作に適した低地から先に形成されることになった。

利水と治水は日本人にとって最優先の事業であったのだ。日本人の生活は水と離れて存在しえなかった。水と共に生きてきたのが日本人である。

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水と縁の深い地域から先に集落が形成され、そこに富と賑わいが生まれ、町が発展した。これが日本社会の歴史の基本である。

米作りに適した良質の水田は最後になってはじめて宅地に転用される。高台から先に宅地開発されたのは、高台は水を引くことが出来ず、土地が痩せて農業には不適であったためである。生産活動には従事しない高級官僚や経営者が暮らす高台は高級住宅地イメージの核となっていった。

小生が元住吉で暮らしていた頃、まだ周囲には水田が多く残っていた。武蔵小杉界隈にもまだ多くの農地が残されていた。中原街道沿いのあの一帯は多摩川に近く江戸期からずっと良い農地だったのだろう。
  
良い農地は水を引きやすいということだ。だから本来は好い宅地ではない。特に電気・ガス・水道が整備された現代日本では高台でも何も不便ではない。むしろ高台の方が安心だ。しかしこれは現代日本になってから当てはまるようになった新しい理屈である。農業が主たる産業であった長い日本の歴史において人々が生きてきたのは水の豊富な低地であった。水に近いところに住むからには洪水は常に意識されるリスクとなる。水害の多い濃尾平野で「輪中」が多いのはそのためだ。リスクに備えるには知恵がいる。低地に高層マンションを建ててそこで住むにもやはりリスクに備える知恵が必要だということだ。

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江戸の武士は主に山の手に住んだ。サムライは農商工業の生産活動をしないからである。山の手に住んでも不便ではなかったのだ。下町には商人が暮らした。それは水運によって周辺の農村地域との間で物資の集散が容易であるからだ。低地では生産活動が行われた。田舎の小藩の屋敷は下町に近いところにあったりした。好い場所がなかったからである。逆に、市場が高台にあれば商売にならないだろう。

武蔵小杉は低地である。低地で暮らすなら低地であることが利点になるような暮らし方をする。これが基本的なロジックである。しかし、おそらく武蔵小杉で高層マンションを購入して暮らす人々は、眺望がよく、お洒落でもある生活空間に魅力を感じ、そこを住生活の場にしたのであろう。だとすれば、低地のメリットである親水性が実はデメリットになっていたわけだ。

どこで暮らすかは何をして暮らすかで決まってくるものだ。そこにはやはりロジカル・シンキングが要るということなのだろう。

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ロジカルでない国土利用が横行しているのは、小生の個人的印象だが国土庁という官庁が廃止されたからである。いわゆる「橋本行革」でなくなった中央官庁には「いまあったら」と思いたくなるものが複数ある。国土庁もその一つだ。

そういえば国土庁には「防災局」もあった。現在は内閣府の中にある。内閣府の予算で防災行政が本当にできるのだろうか。

当時は政治的偉業と称えられた「橋本行革」ではあったが、100点満点である改革などはありえない。普段に見直していく問題意識はPDCAサイクルの一環をなす。本当は、こういう事柄をワイドショーではとりあげてほしいものだ。井戸端会議では情けない。