2019年12月14日土曜日

一つの疑問orメモ: 自発的な「社会的制裁」のコストをトラブル当事者に請求できるのか?

女優・沢尻事件の余波はまだ収まる気配がない。

NHKは、沢尻が出演する大河ドラマの全シーンを全て撮り直すことにしたとのこと。そのために発生するコストは、今後、沢尻本人か、所属する事務所に請求することに決めているのだろう。

撮影済みのシーンについては放送するべきだという意見も世間にはあり、全シーン撮り直しというNHKの決定の背後には、途中までは沢尻が登場し、そのあと別の女優に交替するという場合、二人の力量の違いがあまりにも露わになり、ドラマの水準がそこで決定的に落ちてしまう。そんな事態への危惧もあったろうと小生は邪推している。決定に至る楽屋裏の事情はまったく闇の中である。

***

女優・沢尻が裁判でどんな判決に服することになるのかはさておき、『法律に違反する行為をした。故に、出演シーンは放送できない。放送できないので撮り直す。撮り直すためのコストは女優本人に請求して当然」というロジックには、小生は全面的には賛成できない。

***

今回の薬物摂取行為が法律に違反していることはその通りだ。しかし、「だから撮影済みのシーンは放送できない」と決定する根拠は何か?法令ではそう定められていないと小生は理解している。おそらく、契約上の規定から議論される事柄なのだと思う。

とはいえ、何らかの不祥事を起こしたが故に出演を取り消すという決定は放送局側のみの裁量で行われている。契約のもう一方の当事者である出演者の言い分はまったく聴取されていない。

片方の判断で出演契約をキャンセルし、キャンセルに伴って間接的に発生するコストも全額を取り消された相手側に請求する……、どうも小生にはバランスが悪いように感じられる。

***

今回の違法薬物摂取事件を小生はどんな観点から見ているかという点は既に投稿している。

ずっと昔、戦争直後の日本で「ヤミ米」を拒否して餓死した裁判官がおり、それが何と美談になったことがある。では、違法な「ヤミ米」を闇業者から買った事実が露見した公務員は、その時点で懲戒解雇され、そればかりではなく解雇にともなうあらゆる追加費用を負担しなければならないのだろうか。

自発的かつ裁量的な社会的制裁は、あくまでも社会的心理を忖度する一方の当事者の決定である。片方の当事者は法律のみに服する義務を負う。一方の側だけの裁量で損害賠償請求金額を決定するのは自由だが、そこには道理がなければならず、騒動の発端となった片方の当事者の納得が必要だ。

賠償責任範囲の決定は民事裁判の場で行うことが望ましい。

そもそも小生は本ブログでも何度か投稿しているように、「社会的制裁」は即ち「集団的私刑」であると観ているので、これ自体が憲法違反。社会的制裁は違法な現象であると考えている。違法な行為を犯した人物に違法な私刑を加えるのは無法社会であって認められるロジックはない。

2019年12月13日金曜日

「合理的、あまりに合理的」な宗教観とは無宗教だと思っていたが・・・

芥川龍之介が谷崎潤一郎にしかけた論争が『文芸的な、あまりに文芸的な―併せて谷崎潤一郎君に答ふ』である。昭和2年だからもう100年近くも昔のことである。

これに似た感想を最近もった。

というのは、Amazonが僧侶派遣サービスを始めて日本仏教会と対立していたという所までは聞いていたが、いつの間にかなくなったというのだ。

こんな下りがネットにあった。

菩提寺を持たない人や、故郷から離れて都会に住んでいる人は寺との接点が乏しい。「布施金額をハッキリと教えてもらいたい」という施主は少なくなかった。僧侶派遣は、そうした合理主義を求める都会型の施主のニーズに応えてきた。

「合理主義」に徹すれば、読経サービスには価格があるはずだ、という思考になるのだろう。

分からないなあ、と小生は思う。

これって「合理主義」だろうか?

合理主義に徹すれば読経などは意味のない言葉の羅列であるはずで、まったく必要性のないものである理屈だ。

人が死ねば医師が死亡を確認したあと行政機関に死亡届と死体火葬・埋葬許可交付申請書を提出する。発行された火葬許可証を提示して火葬執行した後は、執行済みと押印された書類を見せて納骨なり散骨など、いずれかの形で処理する。科学的かつ合理的に考えれば、これ以外の何物も介在する余地はない。

必要なことは行政手続きであって宗教行事ではない。

仏教の経典を読み上げるのは宗教行事である。

宗教行事を行うときそこに科学的合理主義が入り込むはずがない。もし本心は合理的に行動しようと考えつつ、何らかの理由で宗教的行事も行っておこうと思うなら、それはその人が非合理だからだ。

合理的に、あまりに合理的になれば、かえって非合理の体をなすのかもしれない。が、所詮は迷走している思考回路にすぎない。

「信仰」と「科学的根拠」、「合理主義」とは水と油、まったく縁のない二つである。

マ、非科学的な論理体系であった中世スコラ哲学があったくらいだから、仏僧の唱える読経にも「自然価格」があるのだと言われれば、屁理屈としては面白いと思うが、何だか 『極楽浄土に旅立つ旅費の方が宇宙旅行より安いんですネ』と聞かされているようで、ギャグとしても出来がよくないと思うのだ、な。

2019年12月12日木曜日

メモ: 「利他主義」の中身は

森鴎外は人生を通して「因襲」と「モラル」、「科学」と「常識」の狭間で悩み続けたようなところがあると知ったのは比較的最近のことで、若い時分から疎遠にしてきた有名人の書いたものをやはり読んでおこうと思いついのたがきっかけだ。但し、もっと若いころから読んでおきたかったかと言われると、それまた微妙なところではある。それより鴎外の人生と同じペースで圧倒的に多い小品を読み続けてきていれば「同病相憐れむ」ような慰めを感じたかもしれない。

「鴎外選集」の第何巻だったろうか、『青年』がある。若いころに一度読もうとしたことがあったが、余りのつまらなさ、理屈っぽさに途中でやめてしまった。漱石の『三四郎』のほうが遥かに面白かった。ところが、最近になって『青年』を読むと、結構うなづけることが書いてある。これは青年期に読む作品ではない。中高年になってから青年をみる眼差しに立って書かれた小説であることを知った。だから小生もやっとピンと来るようになったのだろう。

小説には「読む適齢期」というものがある。

鴎外は屁をひるような排泄行為のノリで人生を通してずっと文章を書き続けた人である。

***

『青年』の中で真のモラルを主人公・小泉純一が友人に問いかけるところがある。そこでモラルは本質的には「利他主義」に立たなければならないと鴎外は語らせている。

小生は経済学から出発したので学問上の大前提として「利己主義」を置いている。ただ、そこには「人は利己主義に立つべきである」という意味合いはまったく入っていない。そもそも社会科学を自称(?)する純粋経済学では「……べきである」という言明は一切排除されている。価値判断ではなく「大部分の人は自分の利益を第一に求めるものである」という事実認識にたっているという意味合いである。

経済学を基礎にしている人間からいうと「モラルの基礎には利他主義がある」という考え方には同意できない。

ただ、経済学の始祖・アダムスミスは『道徳感情論』も著している。そこでは利己主義がモラルの基礎として前提されているわけではない。ただ「利他主義」とも違っている。行動の動機としては利己主義を認めながら、他者への同情や共感、つまり「道徳感情」をモラルの基礎に置いているのが特徴だ。孟子の「惻隠の情は仁の端(はじめ)也」に近いところがある。

***

とはいうものの、鴎外が登場人物を通して語った「利他主義」は見る角度によっては理解できる。というのは、「利己主義」を人間の行動動機として前提してしまうと、それは野生の世界そのものになるわけであり、そこでモラルを貫くなどは不可能になる。そんな素朴な理屈がある、と思われるからだ。

ただ、いま鴎外の考えを読んでいる小生も「利他主義」が機能するとは到底思えない。

というのは、利他、即ち「他人の利益」を「自分の利益」にも増して尊重するのは要するに「家来の道徳」、「奴隷のモラル」にしか思えないからである。

「利他主義」とはいうが、他人なら誰でもよいわけではないだろう。要するに、自分の愛する人物のためには自己利益よりもその人物の利益を守りたいということだろう。言い換えれば、愛する人のために尽くし、嫌いな人には尽くさない、という行動方針である。これなら、鴎外に言われなくとも、誰もがやっていることではないか。愛する対象が人ならまだ温かみがあるが、これが国や会社になると文字通りの「滅私奉公」となる。戦前期・日本の最大の誤りであったのではないか。

「利他主義」などと理解困難な用語は使わず、「隣人を愛せよ」、「なんじの敵を愛せよ」ではなぜいけないのか。同じことではないかと思われた次第だ。

2019年12月11日水曜日

一言メモ: 「疑惑過剰」の時代?

国会の「疑惑3議員」に冬のボーナスが満額支給されたことを世間は批判しているそうである。

吃驚だ、と同時に分かるような気もする。

この理屈でいくなら、パワハラ疑惑が持ち上がった瞬間に部長はボーナス半額、セクハラ疑惑が指摘された時点で同僚は停職3か月。モラハラ疑惑が噂された途端にあなたは解雇。そんな事態になりますぜ。

罰すりゃあイイってもんじゃないでんしょう。子供を叱ればいいってもんじゃねえ。なんでも真実ってものがあるんじゃあないんですかい?よおく聞かなきゃあ駄目だ。

まこと、疑わしきは罰せず、である。

さばいてはいけません。さばかれないためです。 あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。

イエス・キリストが山上で語った2千年前から世間というのは何も変わっちゃあいない。イエス・キリストですら世間の知恵者から「疑惑」をもたれて告発され「罪人」として十字架にかけられたのであるから……。

清く、正しく、美しくは確かに憧れる人もいるが、物事には程合いがある。過剰になって鬱陶しいのは、正義だけじゃない。善意も過ぎると面倒だ、美術品だってあり過ぎになると横つこしくって邪魔だ、モーツアルトの名曲だって一日聞いていれば飽きるものだ、部屋だって適当に散らかっている方が住みやすいものである。健全な懐疑は知識への近道だが、疑惑過剰はイヤな社会をつくる。日本はそのうち「盗聴社会」になって密告者が「正義のボーナス」をもらってヒーローになるに違いない。

そういえば鴎外を引き合いにこんな投稿をしたこともあった。

「疑惑」を鵜呑みにしちゃあ危ないネエ。それより行動の裏には動機あり、動機の中には「利益」あり。人間って奴は昔も今も何も変わっちゃあいない。進歩するのは科学だけだ。人間性に進歩などはない。危ない、危ない。

2019年12月8日日曜日

世論調査と社会状況の関係

ロイターにこんな記事がある:
[ロンドン 3日 ロイター] - 問い:英国議会の解散総選挙の結果をどうやって予測するか。ただし、非常に多くの世論調査が間違っており、有権者の半数は投票先を決めておらず、誰が勝つかではなく、どれくらいの差で勝つかが重要な要因であるとする。(中略)
ロンドンを本拠とするユーライゾンSLJでマクロ系ヘッジファンド・マネジャーを務めるスティーブン・ジェン氏は、「参考にするデータの85%はかつて世論調査の結果だったが、今では恐らく30%だ」と語る。「世界があまりに複雑になってしまい、かつては標準的な指標だった世論調査は、もはや実像を捉えていない」。
(出所)ロイター、2019年12月8日08:13配信

世論調査では、単に「与党に投票しますか?」という質問でも意味のある一問となる。その場合、社会全体の与党投票率が$p$であるとき、$N$人のサンプルから得られる投票率のサンプリング誤差は$\sqrt{p (1-p)/N}$であることは数学的に証明されることである。サンプルの無作為性はサンプリング方法に配慮さえすれば実現できる。したがって、サンプリング誤差は標本数さえ増やせば幾らでも小さくすることが出来る。

この論理には誰も抗うことは出来ない。故に、『かつては標準的な指標だった世論調査は、もはや実像を捉えていない』という言い方はロジックとして間違っている。

しかし、現時点の英国内情勢を想像すると12日に予定されている総選挙結果を世論調査から予測するのは極めて困難だろうなあ、とは思う。この点には共感できる。

その理由は「民意が一日の内に急変するかもしれない」。それ以外にはない。その人がどちらの党に投票するかについていくら事前に調査しても、当日の行動が予測できないからだ。あらゆる統計調査は、集団全体の特性が安定的に決まっていることが大前提である。6の目が出る確率が$1/6$である正しいサイコロが常に振られるのであれば、何回かの結果を観察していれば必ず6の目が出る確率を推測できるようになる。しかし、6の目が出る確率が$1/6$ではないイカサマのサイコロがランダムにとられて振られるならば、次に出る目の予測は完全に不可能になる。いくらデータを集めても役に立たないからである。

世論調査が役に立たないという理由は以上のように理解できる。

***

理解はできるが新たに感じる疑問がある。

こんなに不安定な民意が重要な政策課題を決めるというのは問題解決の方法としては最悪の方法である。今日の結果と明日の結果は多分違うだろうから、今日の結果を尊重する気持ちには誰もならないだろうからだ。

なぜ最良の方法を探そうとしないのだろう。

『民主主義が正しい』というドグマから解放された方がよい。『民主主義が正しい答えを選ぶことは比較的多い』という程度の利用がおそらく方法選択としては最適なのだろうと小生は思う。

以上、最近何度か投稿している内容と整合した書き込みになっている。

【加筆:12月13日】昨日の英国総選挙ではどうやらジョンソン首相率いる保守党が圧勝した模様である。世論調査では保守党優位ではあったが労働党の猛追が指摘されていた。それが「圧勝」。やはり世論調査の通りの結果とは相当違っていたと言えるかも。しかし……、選挙を昨日やったからこんな結果になったのであって、明日やったらまた違った結果になるのかもしれない。『我々の民主主義は世界一素晴らしい』などと喜んでいるほど素晴らしい民主主義とは小生には思えない。

2019年12月7日土曜日

メモ: 「分かる」ということ、「人間科学」はどの程度まで信用できるのか

どんな事柄でも勉強し、練習する結果として真に自分のものにするには4つの段階があることが経験的に分かってきたような気がする。

第一は「頭に入れておく」という段階だ。記憶された知識と言ってもいい。クイズに正解するというのはこの段階の知識を問うているわけだ。第二は「頭で理解する」という段階だ。数学の証明を1行ずつ追跡して論理に穴がないかどうかを調べている時などがそれに該当する。確かにその通りだと、文字通りの意味で頭では理解する、そんな状態である。しかし、証明が分かったとしても、その定理の意味することが分からないことは多い、というより通常である。スポーツでは頭で理解しても無意味である。音楽でもそう、美術でも同じである。そこで第三に進まなければならない。それは「腹に落ちる」とも言えるし、「本質が分かる」と言ってもいいだろうし、「共感する、感動する、ハッとするという感じ」とも言える。これがないと定理は使う気にならないし、使っても自信がなく、恐るおそるである。統計分析で新しい分析スキルを身につけるには頭で理解しても使えない、誰でもできる練習問題ならできるが、実地で使うべき時に使えない、それと同じかもしれない。自転車に乗れるようになったり、鉄棒の逆上がりができるようになるのは、「分かった」状態である。最後の第4は「無意識にできる」という段階である。自分の一部になった感覚に近い。頭をさげて挨拶をしたり、母国語を使うのはこの段階である。

認知症を患っても母国語まですっかり忘れてしまうことはあまり聞いたことがない ― 多分、少数なのだろうと思う。同じように、母が自分の子を分からなくなることはあるが、子が自分の母を忘れ切ってしまうことはあまりないそうだ ― 残念ながら現代日本ではこれも家庭状況に依存すると言わざるを得ないが。幼い時の若い母の写真を見せると、他のことはすべて忘れているのにその写真だけには反応したりすることがあるそうである。母の映像は子の一部になるのだろう。

真のバイリンガルになるには8歳が限度という。8歳までに覚えた言葉はその人の一部になるのだろう。自分の一部になった知識や技術は忘れることがない。親の愛情を子の一部になるほどに浸み込ませるには6歳が限界という。学齢期になるまでが限度であり、その後にかける愛情を子が理解しても、それは理解した愛情でしかないのかもしれない。できれば4歳までに降るような愛情を注ぐことが大事とも聞いたことがある。とすれば、幼稚園に入るまでは子を決して離れた場所に置かないことが必須なのかもしれない。

新興の学問分野の自称専門家が色々な見解をメディアを通して述べることが増えているが、児童心理学はあっても知識心理学は聞いたことがなく、精神内科はあるかもしれないが発達内科はあるのかどうか分からない。

いつの事になるか分からないが、「クローン人類」が実験的・人工的に育てられ、その子が知識・情愛・洞察力など人間なら持っているべき特性を全ての分野でバランスよく備えている、そんな事実が得られるまでは、どの専門家も人間のことをよく理解してはいないと言うべきだろう。(現実に可能かどうか分からないが)成功例と失敗例の双方がデータとして集まり統計的に信頼できる知識学的発達理論が構築されるまでは児童の健全な成長について真っ当な科学的意見などは提供できないと小生は思う。

人間に関する学問的知識はまだまだ不十分である。分からないことの方が圧倒的に多いと小生はみている。

2019年12月6日金曜日

メモ: 法律とモラルについての断想

法律とは要するにソーシャル・マネジメントである、というよりそのためのツール(の一つ)である。ソーシャル・マネジメントというより支配のためのツール。ごく最近では支配する権力を抑制するためのツール。こんな点も強調されるようになった。この種の話題は本ブログで最近になって複数回投稿している。

法律と機能が類似しているのがモラル|倫理|道徳である。道徳もまたずっと昔にはソーシャル・マネジメントのツールの一つとして大いに活用された。儒学などはその一例である。

***

機能としては似ている面があるものの、法律とモラルは完全に合致しているわけではない。

法律的には合法であるが、モラルからみると非難されるべき行為がある。反対に、法律的には処罰の対象になるが、モラルとしては非難するべきではないと思われるような行為もある。この二つのズレは、TVのワイドショーでも毎度毎度の事件で格好のトピックを提供している。

明治期の文豪・森鴎外は『青年』の中で「因襲」と「道徳」との矛盾、対立について登場人物の口を借りて考えを述べている。因襲とは江戸期以来の日本人の慣習、道徳とは一言で言えば西洋から輸入されたモラルのことである。明治時代の日本においては、この二つは当然のことながら矛盾していた。鴎外は、因襲を排してモラルにつくという立場を肯定している。やはり西欧を手本にした明治の人である。しかし、現代の日本人はこれほど素朴に「日本人の常識」を「因襲」として否定しているわけではない。「外国ではそうかもしれませんが……」という言い方は現代の日本人の好んでいるところだ。

***

よく思うのだが、現実に人間社会で社会を統制しているのは何かと言えばそれは法律の方であるのだが、世間の人々はたとえ適法であってもモラルの観点からある行為を厳しく非難することが多い。『今の法律では合法ということになっちゃうんですよネ』という言い回しをこれまで何度聞いたことだろう。その背後にはモラル、つまり道徳が意識されているものだ。これをどう理解しておけばいいのだろう。

コンプライアンスの好きな現代日本人の事だ。法律の側に問題があると言いたいわけではないだろう。それなら『合法ということになっちゃうんですよね』という言い方はない。法と矛盾する日本人の常識がおかしいと言うべきではないか。しかし、そういうわけでもない。日本の文化、ありのままの日本人の姿勢にそれだけ自信を深めてきているということなのだろうか。

人間が守るべきモラルについては、たとえばカントが実践理性の観点から深く考察しているし、ニーチェもまた「超人」を措定してその向こう側を論じている。それこそ古代ギリシア以来、哲学者は法律を論じるよりも遥かに徹底的にモラルについて議論してきた。

モラルは守るべきだ、法は守るべきだってネエ、親父の遺言も、お袋の言いつけも、ホント、アッシが守らないといけねえものは一体いくつあるんですかい?何をやっても誰かに叱られるってえのは、割が合わねえじゃござんせんか。

人は誰でも自由に己が歩みたい道を歩みたいものである。原始人の未開な社会では共同体の一歯車として働き、生き延びることだけを目標にして短い人生をおくったろうが、文明が発達し、社会が豊かになれば、ヒトたるもの自分がもって生まれた才能を開花させたいと願う。その個人、個人の思いを尊重する事こそ、現代社会で最も重要な目標であるはずだ。

***

唐突な展開かもしれないが、実証科学的に考えれば人類の直接的な祖先はサルである。更に、その祖先を遡れば地球上の生命体は全てバクテリアやウィルスといった存在から派生してきた存在にすぎない。人類と同じような「社会」を形成して生きているアリやハチも、長い時間を経た今だからこそ似ても似つかない形になっているが、元をただせば生命体としては同根なのである。

そのサルの社会でもやはり「掟」はあるのだろう。アリにもハチにも「掟」というのはあるのだろう。種に織り込まれた行動基準と言う意味ではモラルとも言えるかもしれない。もしそうした昆虫のルールやサルの倫理をリスペクトする気持ちに全くなれないとするなら、ヒトがヒトとして内在的にもっているモラルも要するにその程度のものであると考えても理屈は通るのである。

それでも人間のモラルが崇高であることを主張したいなら、人間存在(語っている人の?)の尊厳やヒトがもつモラルの背後に神の存在をみるというような何らかの超越的な大前提が必要である。であれば、人のモラルを主張しながら、同時に自然科学的に無宗教を貫いたり、神的存在への無関心を人前で語るのは、基本姿勢として矛盾していると小生は思うのだ、な。唯物論的かつ機能的に人間社会を観察するのであれば、モラルなどは盲腸のようなものである。

「法を守る」という感覚をヒトがもてば、それだけで十分であり、それで現代社会は運営できる理屈だ。結局、森鴎外が善しとしている立場に近い所にいる自分がいる。鴎外死して既に100年がたっているのにだ。

とすれば、現実に機能している文明的所産である「法律」に問題意識を集中して、「法の完成」に向けた議論を真面目にするべきだろう。しかしながら、社会的目標を達成するための最適な法とはいかなる法体系であるのか?社会と法、法と経済の関係下に現れる問題を解決するための一般理論はまだ何もできていない。

法的には違反していないが、道義的に非難するべきだという議論、法的には違反しているが、モラルとしては理解できる行動であるとか、世間ではよくされる議論だが、所詮は迷走している思考を表していると思うのだ、な。