2019年12月12日木曜日

メモ: 「利他主義」の中身は

森鴎外は人生を通して「因襲」と「モラル」、「科学」と「常識」の狭間で悩み続けたようなところがあると知ったのは比較的最近のことで、若い時分から疎遠にしてきた有名人の書いたものをやはり読んでおこうと思いついのたがきっかけだ。但し、もっと若いころから読んでおきたかったかと言われると、それまた微妙なところではある。それより鴎外の人生と同じペースで圧倒的に多い小品を読み続けてきていれば「同病相憐れむ」ような慰めを感じたかもしれない。

「鴎外選集」の第何巻だったろうか、『青年』がある。若いころに一度読もうとしたことがあったが、余りのつまらなさ、理屈っぽさに途中でやめてしまった。漱石の『三四郎』のほうが遥かに面白かった。ところが、最近になって『青年』を読むと、結構うなづけることが書いてある。これは青年期に読む作品ではない。中高年になってから青年をみる眼差しに立って書かれた小説であることを知った。だから小生もやっとピンと来るようになったのだろう。

小説には「読む適齢期」というものがある。

鴎外は屁をひるような排泄行為のノリで人生を通してずっと文章を書き続けた人である。

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『青年』の中で真のモラルを主人公・小泉純一が友人に問いかけるところがある。そこでモラルは本質的には「利他主義」に立たなければならないと鴎外は語らせている。

小生は経済学から出発したので学問上の大前提として「利己主義」を置いている。ただ、そこには「人は利己主義に立つべきである」という意味合いはまったく入っていない。そもそも社会科学を自称(?)する純粋経済学では「……べきである」という言明は一切排除されている。価値判断ではなく「大部分の人は自分の利益を第一に求めるものである」という事実認識にたっているという意味合いである。

経済学を基礎にしている人間からいうと「モラルの基礎には利他主義がある」という考え方には同意できない。

ただ、経済学の始祖・アダムスミスは『道徳感情論』も著している。そこでは利己主義がモラルの基礎として前提されているわけではない。ただ「利他主義」とも違っている。行動の動機としては利己主義を認めながら、他者への同情や共感、つまり「道徳感情」をモラルの基礎に置いているのが特徴だ。孟子の「惻隠の情は仁の端(はじめ)也」に近いところがある。

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とはいうものの、鴎外が登場人物を通して語った「利他主義」は見る角度によっては理解できる。というのは、「利己主義」を人間の行動動機として前提してしまうと、それは野生の世界そのものになるわけであり、そこでモラルを貫くなどは不可能になる。そんな素朴な理屈がある、と思われるからだ。

ただ、いま鴎外の考えを読んでいる小生も「利他主義」が機能するとは到底思えない。

というのは、利他、即ち「他人の利益」を「自分の利益」にも増して尊重するのは要するに「家来の道徳」、「奴隷のモラル」にしか思えないからである。

「利他主義」とはいうが、他人なら誰でもよいわけではないだろう。要するに、自分の愛する人物のためには自己利益よりもその人物の利益を守りたいということだろう。言い換えれば、愛する人のために尽くし、嫌いな人には尽くさない、という行動方針である。これなら、鴎外に言われなくとも、誰もがやっていることではないか。愛する対象が人ならまだ温かみがあるが、これが国や会社になると文字通りの「滅私奉公」となる。戦前期・日本の最大の誤りであったのではないか。

「利他主義」などと理解困難な用語は使わず、「隣人を愛せよ」、「なんじの敵を愛せよ」ではなぜいけないのか。同じことではないかと思われた次第だ。

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