2019年12月7日土曜日

メモ: 「分かる」ということ、「人間科学」はどの程度まで信用できるのか

どんな事柄でも勉強し、練習する結果として真に自分のものにするには4つの段階があることが経験的に分かってきたような気がする。

第一は「頭に入れておく」という段階だ。記憶された知識と言ってもいい。クイズに正解するというのはこの段階の知識を問うているわけだ。第二は「頭で理解する」という段階だ。数学の証明を1行ずつ追跡して論理に穴がないかどうかを調べている時などがそれに該当する。確かにその通りだと、文字通りの意味で頭では理解する、そんな状態である。しかし、証明が分かったとしても、その定理の意味することが分からないことは多い、というより通常である。スポーツでは頭で理解しても無意味である。音楽でもそう、美術でも同じである。そこで第三に進まなければならない。それは「腹に落ちる」とも言えるし、「本質が分かる」と言ってもいいだろうし、「共感する、感動する、ハッとするという感じ」とも言える。これがないと定理は使う気にならないし、使っても自信がなく、恐るおそるである。統計分析で新しい分析スキルを身につけるには頭で理解しても使えない、誰でもできる練習問題ならできるが、実地で使うべき時に使えない、それと同じかもしれない。自転車に乗れるようになったり、鉄棒の逆上がりができるようになるのは、「分かった」状態である。最後の第4は「無意識にできる」という段階である。自分の一部になった感覚に近い。頭をさげて挨拶をしたり、母国語を使うのはこの段階である。

認知症を患っても母国語まですっかり忘れてしまうことはあまり聞いたことがない ― 多分、少数なのだろうと思う。同じように、母が自分の子を分からなくなることはあるが、子が自分の母を忘れ切ってしまうことはあまりないそうだ ― 残念ながら現代日本ではこれも家庭状況に依存すると言わざるを得ないが。幼い時の若い母の写真を見せると、他のことはすべて忘れているのにその写真だけには反応したりすることがあるそうである。母の映像は子の一部になるのだろう。

真のバイリンガルになるには8歳が限度という。8歳までに覚えた言葉はその人の一部になるのだろう。自分の一部になった知識や技術は忘れることがない。親の愛情を子の一部になるほどに浸み込ませるには6歳が限界という。学齢期になるまでが限度であり、その後にかける愛情を子が理解しても、それは理解した愛情でしかないのかもしれない。できれば4歳までに降るような愛情を注ぐことが大事とも聞いたことがある。とすれば、幼稚園に入るまでは子を決して離れた場所に置かないことが必須なのかもしれない。

新興の学問分野の自称専門家が色々な見解をメディアを通して述べることが増えているが、児童心理学はあっても知識心理学は聞いたことがなく、精神内科はあるかもしれないが発達内科はあるのかどうか分からない。

いつの事になるか分からないが、「クローン人類」が実験的・人工的に育てられ、その子が知識・情愛・洞察力など人間なら持っているべき特性を全ての分野でバランスよく備えている、そんな事実が得られるまでは、どの専門家も人間のことをよく理解してはいないと言うべきだろう。(現実に可能かどうか分からないが)成功例と失敗例の双方がデータとして集まり統計的に信頼できる知識学的発達理論が構築されるまでは児童の健全な成長について真っ当な科学的意見などは提供できないと小生は思う。

人間に関する学問的知識はまだまだ不十分である。分からないことの方が圧倒的に多いと小生はみている。

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