2019年12月13日金曜日

「合理的、あまりに合理的」な宗教観とは無宗教だと思っていたが・・・

芥川龍之介が谷崎潤一郎にしかけた論争が『文芸的な、あまりに文芸的な―併せて谷崎潤一郎君に答ふ』である。昭和2年だからもう100年近くも昔のことである。

これに似た感想を最近もった。

というのは、Amazonが僧侶派遣サービスを始めて日本仏教会と対立していたという所までは聞いていたが、いつの間にかなくなったというのだ。

こんな下りがネットにあった。

菩提寺を持たない人や、故郷から離れて都会に住んでいる人は寺との接点が乏しい。「布施金額をハッキリと教えてもらいたい」という施主は少なくなかった。僧侶派遣は、そうした合理主義を求める都会型の施主のニーズに応えてきた。

「合理主義」に徹すれば、読経サービスには価格があるはずだ、という思考になるのだろう。

分からないなあ、と小生は思う。

これって「合理主義」だろうか?

合理主義に徹すれば読経などは意味のない言葉の羅列であるはずで、まったく必要性のないものである理屈だ。

人が死ねば医師が死亡を確認したあと行政機関に死亡届と死体火葬・埋葬許可交付申請書を提出する。発行された火葬許可証を提示して火葬執行した後は、執行済みと押印された書類を見せて納骨なり散骨など、いずれかの形で処理する。科学的かつ合理的に考えれば、これ以外の何物も介在する余地はない。

必要なことは行政手続きであって宗教行事ではない。

仏教の経典を読み上げるのは宗教行事である。

宗教行事を行うときそこに科学的合理主義が入り込むはずがない。もし本心は合理的に行動しようと考えつつ、何らかの理由で宗教的行事も行っておこうと思うなら、それはその人が非合理だからだ。

合理的に、あまりに合理的になれば、かえって非合理の体をなすのかもしれない。が、所詮は迷走している思考回路にすぎない。

「信仰」と「科学的根拠」、「合理主義」とは水と油、まったく縁のない二つである。

マ、非科学的な論理体系であった中世スコラ哲学があったくらいだから、仏僧の唱える読経にも「自然価格」があるのだと言われれば、屁理屈としては面白いと思うが、何だか 『極楽浄土に旅立つ旅費の方が宇宙旅行より安いんですネ』と聞かされているようで、ギャグとしても出来がよくないと思うのだ、な。

0 件のコメント: