2019年12月6日金曜日

メモ: 法律とモラルについての断想

法律とは要するにソーシャル・マネジメントである、というよりそのためのツール(の一つ)である。ソーシャル・マネジメントというより支配のためのツール。ごく最近では支配する権力を抑制するためのツール。こんな点も強調されるようになった。この種の話題は本ブログで最近になって複数回投稿している。

法律と機能が類似しているのがモラル|倫理|道徳である。道徳もまたずっと昔にはソーシャル・マネジメントのツールの一つとして大いに活用された。儒学などはその一例である。

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機能としては似ている面があるものの、法律とモラルは完全に合致しているわけではない。

法律的には合法であるが、モラルからみると非難されるべき行為がある。反対に、法律的には処罰の対象になるが、モラルとしては非難するべきではないと思われるような行為もある。この二つのズレは、TVのワイドショーでも毎度毎度の事件で格好のトピックを提供している。

明治期の文豪・森鴎外は『青年』の中で「因襲」と「道徳」との矛盾、対立について登場人物の口を借りて考えを述べている。因襲とは江戸期以来の日本人の慣習、道徳とは一言で言えば西洋から輸入されたモラルのことである。明治時代の日本においては、この二つは当然のことながら矛盾していた。鴎外は、因襲を排してモラルにつくという立場を肯定している。やはり西欧を手本にした明治の人である。しかし、現代の日本人はこれほど素朴に「日本人の常識」を「因襲」として否定しているわけではない。「外国ではそうかもしれませんが……」という言い方は現代の日本人の好んでいるところだ。

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よく思うのだが、現実に人間社会で社会を統制しているのは何かと言えばそれは法律の方であるのだが、世間の人々はたとえ適法であってもモラルの観点からある行為を厳しく非難することが多い。『今の法律では合法ということになっちゃうんですよネ』という言い回しをこれまで何度聞いたことだろう。その背後にはモラル、つまり道徳が意識されているものだ。これをどう理解しておけばいいのだろう。

コンプライアンスの好きな現代日本人の事だ。法律の側に問題があると言いたいわけではないだろう。それなら『合法ということになっちゃうんですよね』という言い方はない。法と矛盾する日本人の常識がおかしいと言うべきではないか。しかし、そういうわけでもない。日本の文化、ありのままの日本人の姿勢にそれだけ自信を深めてきているということなのだろうか。

人間が守るべきモラルについては、たとえばカントが実践理性の観点から深く考察しているし、ニーチェもまた「超人」を措定してその向こう側を論じている。それこそ古代ギリシア以来、哲学者は法律を論じるよりも遥かに徹底的にモラルについて議論してきた。

モラルは守るべきだ、法は守るべきだってネエ、親父の遺言も、お袋の言いつけも、ホント、アッシが守らないといけねえものは一体いくつあるんですかい?何をやっても誰かに叱られるってえのは、割が合わねえじゃござんせんか。

人は誰でも自由に己が歩みたい道を歩みたいものである。原始人の未開な社会では共同体の一歯車として働き、生き延びることだけを目標にして短い人生をおくったろうが、文明が発達し、社会が豊かになれば、ヒトたるもの自分がもって生まれた才能を開花させたいと願う。その個人、個人の思いを尊重する事こそ、現代社会で最も重要な目標であるはずだ。

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唐突な展開かもしれないが、実証科学的に考えれば人類の直接的な祖先はサルである。更に、その祖先を遡れば地球上の生命体は全てバクテリアやウィルスといった存在から派生してきた存在にすぎない。人類と同じような「社会」を形成して生きているアリやハチも、長い時間を経た今だからこそ似ても似つかない形になっているが、元をただせば生命体としては同根なのである。

そのサルの社会でもやはり「掟」はあるのだろう。アリにもハチにも「掟」というのはあるのだろう。種に織り込まれた行動基準と言う意味ではモラルとも言えるかもしれない。もしそうした昆虫のルールやサルの倫理をリスペクトする気持ちに全くなれないとするなら、ヒトがヒトとして内在的にもっているモラルも要するにその程度のものであると考えても理屈は通るのである。

それでも人間のモラルが崇高であることを主張したいなら、人間存在(語っている人の?)の尊厳やヒトがもつモラルの背後に神の存在をみるというような何らかの超越的な大前提が必要である。であれば、人のモラルを主張しながら、同時に自然科学的に無宗教を貫いたり、神的存在への無関心を人前で語るのは、基本姿勢として矛盾していると小生は思うのだ、な。唯物論的かつ機能的に人間社会を観察するのであれば、モラルなどは盲腸のようなものである。

「法を守る」という感覚をヒトがもてば、それだけで十分であり、それで現代社会は運営できる理屈だ。結局、森鴎外が善しとしている立場に近い所にいる自分がいる。鴎外死して既に100年がたっているのにだ。

とすれば、現実に機能している文明的所産である「法律」に問題意識を集中して、「法の完成」に向けた議論を真面目にするべきだろう。しかしながら、社会的目標を達成するための最適な法とはいかなる法体系であるのか?社会と法、法と経済の関係下に現れる問題を解決するための一般理論はまだ何もできていない。

法的には違反していないが、道義的に非難するべきだという議論、法的には違反しているが、モラルとしては理解できる行動であるとか、世間ではよくされる議論だが、所詮は迷走している思考を表していると思うのだ、な。

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