2022年8月15日月曜日

メモ: コロナ後の二つの難問か

加筆:2022-08-17、2022-08-18

1年の計は元旦にありと言うが、小生個人の日常習慣としては、1年の計は8月15日にありという方が気分的には当てはまる。というのは、亡くなった父の命日が7月31日、母の命日が9月23日、その間に広島原爆記念日、長崎原爆記念日、御巣鷹山慰霊祭、そして終戦記念日と国家ないし社会レベルの鎮魂行事が続く。下の愚息が通った幼稚園の縁で卒園後にずっと月参りをお願いしている寺の住職が10日前後に盆回向に訪れ、8月16日に盆が明けたあとは18日に寺である施餓鬼会に行く。そんな習慣が我が家ではずっと続いている。だから、暦を付け替えるだけの元旦よりは8月15日の方が1年の締めくくりとしては心理的にピンと来るのだ。もちろん個人的な習慣であるが・・・

というわけで、コロナ・パンデミックも世界では終盤に入った段階で、日本が直面しているかのような新たな二つの問題をとりあげておきたい。


一つは「ロシア=ウクライナ戦争」、もう一つは「旧・統一教会と政治の関係」であると言っても、多くの人は賛成するのではないだろうか?

そして、このどちらも、短期間にどうにか出来る問題ではなく、そもそも日本政府が処理できる問題ではないとすら、思ったりする。マスコミが毎日のように特集しても解決できるわけでなく、その意味では日本社会の無力感を感じさせる問題でもあるだろう。

大体、コロナ対応においても、日本政府、日本社会の対応振りは、原理・原則や基本戦略がなく、その時々の状況の変化に応じるだけの場当たり的対応を繰り返してきたという忸怩たる後悔や不満が、いま日本社会に底溜まりしているのではないだろうか?とすれば、もっと対応が難しい国際的安全保障や●●十万人レベルの宗教組織と対峙する際、コロナ対応とは打って変わって、切れのある鮮やかな行動を日本が見せられるなどとは、(今のところ)まったく想像できない、というのが正直なところだ。

今日はそれぞれ気になっている点を一つずつ。

★

まずウクライナ戦争。

マスメディアの報道では「ロシアが敗北しつつある」という見通しもあれば、「ウクライナも限界にさしかかっている」という見方もあり、文字情報のみでは何が的を射ているか分からない。

ただドイツでは今冬の暖房温度設定を19℃にするよう政府から指示が出たとか、公共施設では夜間照明を停止するとの方針が出たり、それでもエネルギー供給はギリギリであるとか、社会的不安は今後高まっていくだろうというのは、多分、本当だろう。

ロシアは占領した東部と南部をロシア領土に編入し、同化政策を進め、更には国外に避難したウクライナ国民が一定の誓約をする場合にはロシア国籍を与えたうえで復帰を認めるという段階もそのうちにはやってくると想像している。

そうした上で、(一方的な)停戦宣言をした上で、

ロシア領土を攻撃する軍部隊に対しては侵略とみなして核による反撃もある。侵略を命令する中枢部への核攻撃も検討対象に含まれる。

そんな(一方的な)核使用宣言も大いにありうるように思う。

旧・西側諸国はどう対応するのだろう?

★

次に「旧・統一教会」。こちらは簡単な一言ではすまない。もう何年も前になるが、同僚に『19世紀は科学の世紀、20世紀は科学を応用した戦争の世紀、21世紀はその反動というか、また宗教の世紀になると思うんだよネ』と話したことがある。同僚も『ま、世界がそうなる可能性はあるな』と返していた。

そもそも宗教は社会不安が高まるときに浸透、拡大するものだ。マスメディアが社会不安を煽ればあおるほど、それだけ(諸々の)教団の布教活動には追い風となるのが皮肉なロジックである。この点はいま日本社会ではあまり意識されていないかも。実に惰性的な「平和ボケ」にあるのは第一に情報のプロであるはずのマスコミであるのかもしれない。

キリスト教は(言うまでもなく)紀元ゼロ年以降にローマ帝国内で布教を始めるのだが、当初は「邪教」というか、弾圧の対象であった。コンスタンティヌス大帝が313年に「ミラノ勅令」を発してキリスト教を公認するまでに300年という長年月が過ぎているが、キリスト教が帝国内で急速に普及したのは、五賢帝による「ローマの平和(Pax Romana)」が終焉を迎え、腐敗した軍閥が皇帝を次々に廃立する「動乱の3世紀」になってからのことだ。この3世紀100年の間にローマ帝国内の人口は3割ほど減少し、婚姻率の低下や少子化、侵入した異民族との雑婚、混血が進んだとも伝えられているが、正に不安を抱えた社会でこそローマ市民は伝統的な多神教を捨てキリスト教に救済を求めたわけである。宗教は心の安定をもたらす特効薬という意味では正にマルクスが言ったように「心のアヘン」、「民衆のアヘン」とも言える ― 「アヘン」というのは言い過ぎで、「鎮痛剤」とでも言えばよいものを、とは思っている。少なくとも自殺防止効果において宗教と精神安定剤はドチコチないのではないかという印象をもっているところだ。ま、いずれにせよ

宗教の拡大と不安の高まりとは表裏一体である。

1980年代から90年代にかけての宗教的トラブルの続発には、社会学的・経済学的原因があったという風に、メカニズムを理解することが大事だ。そうすれば、「旧・統一教会問題」が再び浮上した今日の状況にも賢明に向き合えるというロジックになる。

つまり、(宗派によらず)宗教に関連した事件、変事を防ぐには、不安をなくし希望に満ちた活力ある社会にするのがオーソドックスな近道である。真っ当なメディア企業なら、真にプラスになる情報を提供することに努力してほしいものだ。これが本日2番目の話題の結論であると言ってもいい。

時代を問わず、国を問わず、西洋でも東洋でも財政破綻、政治不安、宗教組織の拡大は三位一体で見られ、同じ現象は幾度も繰り返され、中国では王朝交代にもつながることが多い。


~*~*~


さて、統一教会だ。思いつくままに書き足しておこう。

正直なところ、過去の記憶は残っているが、それほど意識しては来なかったのだ、な。

統一教会による「霊感商法」が国内で次第に社会問題化してきたのは、1980年代に入ってからと記憶しており、1990年代以降になると、その違法性が司法の判決でも認定されるようになった。小生の若い時分ではあったが、大雑把にそんな記憶をもっているのだ。ちょうどイラン革命がもたらした第二次石油危機とインフレ加速、その後のバブルによる地価騰貴から突然のバブル崩壊、増える不良債権、1997、8年の金融恐慌へと続いた20年にあたっている。

その頃は小生も某経済官庁でバリバリ(というよりペイペイ)の若手小役人であった。幾つかのトラブルを起こしながらも「統一教会」は、治安当局の「反社会的組織」に指定されることもなく、むしろマスコミの関心は90年代に入って重なるように注目を集め始めたオウム真理教の方へ集中する傾きがあった。そんな中で「統一教会」は日本社会の水面下で布教活動を続け、併せて政治家への浸透にも意を払い、その部分ではかなりの成果をおさめてきた、それも国際的な広がりを伴って、と。まあ、そんなザッとした記憶をもっている。

21世紀に入って以降は、マスコミは「統一教会」に関してはめっきりと関心を薄れさせたようで、ほぼ何も報道しない姿勢を続けてきた(と覚えている)が、つい先日の安倍元首相暗殺事件を契機にして、永年の無関心を(良心の疼きからか)まるで埋め合わせるかのように、このところ連日のようにTV画面で、また新聞紙面で、批判的な特集報道を続けている。これが今の現状だ。

ずっと以前は50万人程度の信者がいたそうだが、足元では数万人にまで減少しているとも伝えられている。それでも(日本国内に?)数万人の「統一教会」信者がいて、日常的にある程度まで熱心に活動しているのであれが、社会的には決して無視できず、足元の日本社会では「何だか気持ちが悪い」、「何とかしてほしい」、「政治家との接触を禁止してほしい」、「社会的な影響を許さないで」と、まあ、日本人は非常に<潔癖な国民性>であるものだから、そうした社会心理が広まりつつあるのではないか。そう観ているところだ。

何だか、40年ほどの歴史を簡単に要約した塩梅だが、筋道はホボホボこんな所だと思う。


ただ、どうなのだろうナア・・・??、とは思う。

あくまで個人的な見方だが、「宗教と政治」、「教団と政治家」というテーマだが、なにか社会を管理するPDCAサイクルのような観点にたって、それを「社会問題」ととらえて、何かの「問題解決」にまで落とし込むというそんな考え方から「旧・統一教会」についても一定の「解決策」へと至りたい、と。そう願っているならば、それは(少なくとも短期的には)非常に困難だと思う。率直に言って、《ノーマルな社会》という暗黙の前提に立った安易なアプローチで、これまた《平和ボケ》の一例になっていると感じる。一般論であるが、《社会》というのは、歴史をみても分かるように、変化し続けるのが本質であって、「元の正常状態に回帰する」という性質は本来もっていない。激動期には社会は大きく変化し、変わったそのままで安定し、変質し、進化して、元の状態には決して戻らないという理も分かっておかなければならない。

より本質的で掘り下げた考察が求められている。「考える」というのは、普通の人が面倒に思い、嫌がるものだが、多くの「大失敗」は概ね「性急、腰だめの、浅い考え」に原因をもつ。

大体、イギリスで主流の英国国教会("Anglican Church")は、聖公会という名の教会が小生が暮らす町にもあるが、アングリカン・チャーチの首長は英国王|英女王であり、現在はエリザベス2世がつとめている。政治と宗教との分離もなにもあったものじゃあないと、改めて批判をこめて言う人もいるかもしれないが、そうなっているのだから仕方がない。また、米大統領の就任式では新大統領はキリスト教のバイブルに手を置いて宣誓する慣習になっている ― ユダヤ教徒なら旧約聖書だろうが、もしイスラム教徒が大統領に当選すればどうするのか、甚だ興味深いところだ。ドイツだが前政権与党である「キリスト教民主同盟」、「キリスト教社会同盟」は保守勢力の代表である。日本の「公明党」が「日蓮宗公明会」と名乗るようなものだ。スカンディナビア諸国の国旗は「十字架」をシンボライズする意匠になっているし、イギリスのユニオンジャックも成り立ちを考えれば同じだ。フランスでは宗教勢力と政治との分離が厳格に法制化されているが、寧ろそれはフランスではカトリック教会の影響力がそれだけ深いという事実の逆説的な反映だろうと小生は思っている。

「宗教」は、人間の「宗教感情」から生まれるもので、宗教感情は「科学」とも「哲学」とも異質でありながら、それでも「人間性」の本質であるには違いなく、簡単にいえば

どれほど技術が進歩しても、何ごとも思うようには行かないものだ。人間にはそれぞれの運命があり、いつまでも生きられるわけではなく、生きるべき時、死ぬべき時があるものだ。

そんな思いが人間にある限り、宗教感情が消え失せることはなく、宗教が世界から消え去る日は永遠にやっては来ない。そう思っているのだ、な。実際、毎月僧侶が読む「仏説阿弥陀経」や十念の声が拙宅から消え失せるなど、困難と言うより、今となっては想像不可能である。そんなことは現実にはないが、もしも僧侶と政治向きの話しをすれば、それは宗教と政治が結び付く場面の一つにもなるだろう。

民主政治を支える一人一人の有権者の心に宗教感情があれば、政治と宗教を完全分離するのは、そもそも不可能なことである。

なので、「旧・統一教会」と政治との関係を論じる際も、「解決」するべき具体的問題点をまず提起する姿勢が日本社会の側にも求められる。そう思うのだ、な。「具体的問題」、つまりは行政上あるいは訴訟上の問題に限定することが望ましい。


日本から韓国へ信者が支払ったマネーが流出するあり方が不当であり、その経路を絶ちたいのか。仏具、イヤイヤ「神具」を販売する際の不当価格を規制するべきなのか。信者による巨額の寄付金がその信者の家庭崩壊を招くケースだが、一人の信者が独断で寄付するときに同居する家族の財産権はどう守られているのか。離婚する際にも配偶者には半分の財産を受け取る権利がある。信者の意向によらず同居家族にも守られるべき財産権があるはずである。司法はどう介入しているのか。また、寄付金に申告義務を課し、税務調査を徹底し、脱税の有無を調査するのか。まあ、色々様々な行政措置、行政指導は可能であるわけだ。

河野太郎大臣がはやくも消費者問題としてアプローチすると言明しているが、これも適切な切り口の一つであろう。

日本は法治主義であると国際的にも明言している。それを徹底するべき時だろう。


信仰や宗教という次元から「問題」を探すのは愚かで、かつ危険な人権侵害になる。公的権力は宗派の適・不適を論じるべきではない。「第4の権力」であるメディアも同列だ。勝てる見込みのない訴訟になる。発生したトラブルに法律で規定された犯罪行為がある場合に法的処罰をすれば十分である。それ以上の何ものも余計な勇み足。「現世」を否定し「来世」を志向するのは信仰の自由に属する。「人間本来無一物」と信じて全財産を喜捨(=寄付)するなどの行為も自由な宗教的行為だ。受け取る教団の側が固辞すれば、申し出た側こそ落胆するに違いない。日本国内の修道院もそのはずだが、修道士は私有財産を持たない。従って、(小生も伝聞ではあるが)国民年金保険料も修道会が納め、年金も修道会が受け取っている。だからと言って、個々の修道士の人権を教団が侵害しているとは誰も言わない。これも自由な信仰に属する。それが直観に基づく非合理な体系ともいえる宗教というものだ。〇〇百万円程度の寄付ならば小生の祖父も菩提寺にしている。金額が△△億円に達しなかったのは持っていなかったからに違いない。試みに近隣の寺や神社に足を運び境内を眺めてみればいい。寄付者の「ご芳名」を彫った「寄進者奉名板」を容易に見つけることができよう。それが嬉しいからそうするわけだ。富裕な御仁であれば、法主のために御堂の一つも建立して差し上げようと言うのは、後世にも伝わる文化活動であった。マア、実際に則して一般論を述べれば、こんな話しになる。家庭崩壊、宗教二世という言葉をいまマスコミは好んでいる。が、問題はあくまでも具体的な法律に基づいて把握し、法的に吟味するというのが、本筋だろう。

そもそも信仰自体は自由であるのが原則だ。社会が介入すれば定義として「弾圧」に該当する。教団からみれば「法難」である。故に、少なくとも法律上の議論にすることが不可欠だ ― たとえ既存の法律を適用したり新規立法によるとしても、それが「宗教弾圧」に該当する可能性は常にあることを歴史は教えてくれている。例えば、維新直後の廃仏毀釈運動などは国民的ヒステリーであったとも言えるだろう。ま、その廃仏毀釈運動のお陰で大寺院・興福寺が打撃を蒙り、今の「奈良公園」という市民のための憩いの場が提供されたのだから、何が幸いするか、事前には見通せないものだ。とはいえ、その当時の非条理な攻撃で哀しい思いをした多数の被害者を思えば、いま公園になっているからと言って、免罪されるものではないだろう。


こう考えると、信者数を考慮すると、何を議論するにしても5年ないし10年程度の時間をかけながら、日本社会との折り合いをつけていくしか、「旧・統一教会」に関してはとりうる対応方針はない、と。そんな風に思っている。

やはり、20年のネグレクトのツケは大きい。現状を所与として、何かを解決したいなら、今後将来にかけてやっていくしかない。連日の批判的な特集報道は信者たちの人権擁護の視点からも非常に問題が多いと思っている。営利上の動機としか見えない所がある。


2022年8月11日木曜日

断想: これも世代ギャップというものか?

ずっと昔から世代間の対立はあった(はずだ)。時代が激しく変動する中では父と息子の間ですら、価値観や世界観、愛読書、日常言語空間がまったく違ってくる。最近読み直しているのだが、島崎藤村の『夜明け前』に登場する主人公・青山半蔵と半蔵の父・吉左衛門は一つの典型であると思うし、天寿・天職を全うした父と世相が変転する中で悲劇的な人生を閉じた半蔵の対比は、その時代の中では極くありふれた家族像であったに違いない。小生と亡くなった父はまったく違った時代背景で成長したし、趣味も感性も考え方も違っていた。父と祖父が成長した時代もまったく別の世界であった。祖父は大正デモクラシーの空気を当たり前だと思い、父は政党の腐敗と軍部の清潔を人々が信じていた時代に育ったわけだから。

このようにジェネレーション・ギャップは日本にはずっと当たり前のように存在していたわけだが、最近のように《ジジイ連中》という括り方を頻繁に目にしたり、耳にしたりするようになると、すでに初老から「本じいさん」になりかかっている小生にはヤッパリ愉快ではない。というか、「じじい連中」の方は、そっちはそっちで《青二才の分際》などと日常的に話しているのが今の日本社会で、「ジジイが・・・」とか、「青二才が・・・」とか、英米などアングロサクソン社会の英語空間では、この辺の生活感情をどんな言葉で表現しているのかと、よく思ったりするのだが、これかという結果が見当たらず、どうもピンと来ないのだ、な。大体、次期大統領選挙にトランプ氏が再び立候補するとか、その対抗馬はバイデン現大統領よりヒラリー・クリントン氏のほうが勝てるのではないかとか、少なくともアメリカでは<ジジイ>、<ババア>は引っ込んでいろという声は日本よりは小さいようだ。イギリスも96歳のエリザベス二世女王が在位しており、英国民の中に<代替わり願望>が高まっているとは、まったく聞こえてこない。どうも年齢をめぐる感性というか、外国と日本とはお国柄が違うような気がする。

いずれにせよ、時代を問わず、国を問わず、二つの年齢階級をとって、ランダム抽出して同人数にそろえた上で、何かの基準で(例えば能力基準で)ソートして、上から同順位ごとに1対1で比較すれば、

高齢者は、実績と資産をもつが、体力・精力は衰えている。

青壮年は、実績が足りず、資産も乏しいが、体力・精力は旺盛である。

こうなることは自明だろう。故に、役割分担はそれほどの難問ではない理屈だ。

激動の時代には、時に若年でありながら、実績を示し、資産も形成できる極く少数の人間が出現する。そんな英雄が登場すれば、高齢者の出番はない。これもよく分かるロジックだ。


父の好んだ詩は島崎藤村『若菜集』にある「草枕」であった。長詩であるこの詩は:

夕波くらく啼く千鳥

われは千鳥にあらねども

心の羽をうちふりて

さみしきかたに飛べるかな

  

若き心の一筋に

なぐさめもなくなげきわび

胸の氷のむすぼれて

とけて涙となりにけり

こんな風に始まる。正に明治・新体詩の浪漫主義そのものだ。

藤村の詩作品は小生も好んだが、以前にも投稿したことがあるが、自分自身と一体化しているという意味になると三好達治である。藤村の『若菜集』に相当するのは、三好の『測量船』ということになるが、有名な『あはれ花びらながれ をみなごに花びらながれ』で始まる「甃のうへ」よりは、もっとモダンな散文詩「Enfance finie」が好きである。

海の遠くに島が……、雨に椿の花が堕ちた。鳥籠に春が、春が鳥のゐない鳥籠に。

約束はみんな壊れたね。

海には雲が、ね、雲には地球が、映つてゐるね。

空には階段があるね。


 今日記憶の旗が落ちて、大きな川のやうに、私は人と訣わかれよう。床ゆかに私の足跡が、足跡に微かな塵が……、ああ哀れな私よ。

僕は、さあ僕よ、僕は遠い旅に出ようね。

URL:https://www.aozora.gr.jp/cards/001749/files/55797_55505.html
Source:青空文庫

実は、この作品のすぐ後にある「十一月の視野に於て」は、こんな風に始まる(一部の漢字を平仮名にしている):

倫理の矢にあたっておちる倫理のことり。風景の上に忍耐されるそのフラット・スピン!

 ことりは叫ぶ。否、否、否。私は、私からおちる血を私の血とは認めない。否!

 現代日本人とマスコミの好きな《倫理》が、その人の自由な生を束縛する檻のような存在として働き、その人を不幸にしている現実に目を向けている詩人の感性が何となく伝わって来るではないか。

個人の善悪を考える倫理と、善を求める社会に個人を従わせる共産主義の理念とは、実はホンノ一歩であるほど近い関係にあるということに、詩人といわれる人たちは非常に敏感であったことが分かる・・・ような気がするのは小生だけなのだろうか?

ま、どちらにしても、好んだ詩作品を対比してみても、父と小生の育った文化的背景の差が明らかに見てとれる。


足元で日本社会が問題視している「(旧)統一教会」は、安倍元首相暗殺事件の衝撃が後遺症のように尾を引いた一種のヒステリー症状だと観ているが、こんな世相の中では、「・・・を守る」と言いながら、実際にはごく一部の人を守りながら、その他の色々な人の繊細な悩みや迷いを山津波のように押し潰し、結局は最初に守りたかった人たちをも守れないという事態に至る・・・そんな結末が多いのが戦後日本社会の在りのままの実態である・・・と思うのは小生だけだろうか?

三好達治が『測量船』を発表したのは1930年12月で、時の民政党内閣首相であった浜口雄幸総理が東京駅で狙撃された翌月である。正義を求める日本人の殺伐とした世間に置かれていた一人の人間ならではの詩作であることがよく分かる。


長くなりすぎた。「旧・統一教会」については日を変えて感想をメモすることにしよう。

2022年8月10日水曜日

断想: 「野球留学」というものについて

夏の風物詩というと「甲子園」であるのはずっと変わらない戦後日本の習わしのようだ。亡くなった父の思い出話を覚えているが、父が少年時代であった昭和初期の頃には既にそうであったそうだ。中京明石の延長25回、海草中学のエース・嶋投手が演じた全試合完封+準決勝及び決勝の2試合連続ノーヒットノーランをリアルタイムで聴いていたなど(TV放送は日本では戦後文明の所産だ)、父の回顧談は驚きであるのと同時に羨ましくもあったものだ。

ずっと以前になるが、高校野球については、こんな投稿をした事がある:

県外から「野球留学」してきた選手がレギュラーとして出場しているチームも多く、毎年「規制するべきではないか」との声があがるが、とくにルールが設けられていないのが現状。 

「おらが街」のチームを応援しようとメンバーをみたら全員他県出身者だったとなれば、複雑な感情を抱く人がでてくるのは当然だ。 

 この投稿は日付をみると、もう6年も前になるが、上のような状況は益々進んで(感じ方によっては酷くなって)いるようだ。

上の下りの後、こんなことを書いてまとめている。

まあ、とにかく小生は保守的、つまりは昔は良かったと語ることが多い右翼である。だから、この件については「全員が県外出身者なんて、その地域代表であるはずがない」。そう断言する。

だって、プロ野球でも外人枠があるんだよ、と。優勝したいなら日本ハム球団だって、どこから選手を調達しても自由でしょ、と。プロなんだから。優勝したいのだから。しかし、外人枠でそれは制限されている。自国の日本人選手がチームの多数を占めること。そう制限されているんだよね、と。プロでもそうなっているのだ。

高校に入学するまで、本人も両親もその県のどこにも住んだ経験がなく、親戚もおらず、その県とはまったく無縁で、ただ野球をしたいのでその県内に進学したのであれば、その県からみれば「県外者」である。100パーセント、県外者で構成される野球チームは、現時点でもちろんその県に居住しているのだが、「地域代表」となる資格を欠いているのではないか。極めて常識的な問いかけである。

種目を問わず「ナショナル・チーム」を編成しようとすれば、その国と何らかの縁がある選手を軸にするべきだ、という意見には相当の人が賛成するのではあるまいか。サッカーのW杯に出る日本代表チームに生粋の日本人が僅か1人のみでは、まともに応援もしてくれないだろう。

都道府県代表と言いながら、地元の人たちと何の縁もなく、近隣住民から応援もしてもらえないなら、淋しいのではないかと思う。

もっとも野球部は県外から留学してきた生徒がほとんどだが、その他の生徒はおそらく地元から入学している学校も多いかもしれない。とすれば、同じ高校で学ぶ野球部が甲子園に出場するなら、応援してあげたくなるのも同級生なりの人情というべきか。子がそう思うなら、保護者たる親もその学校を応援する気持ちになるだろう。

とはいえ、小生の叔父は住んでいる愛媛の(愛媛県立である)松山商業が甲子園に出る年は、自分は松商OBでないにもかかわらず、「じっとしてはおれん」と言いながら夜の船に乗って甲子園球場に駆け付け、応援に声をからしていたものである。ほとんどが県外の野球留学生なら、そんな風に甲子園にかけつける地元の人は、広がりとしては、期待できまい。応援するのは、その学校に通っている生徒とその関係者のみ・・・かもしれない。

やはり淋しいなあと感じるのは、世代ギャップというものなのだろう。

2022年8月9日火曜日

メモ: 農産物価格のインフレはやはり投機のせいであったか?

日本国内の報道でも、この秋から本格的な食料品価格上昇が始まる、と。もう何度も話題になっている。

今回のインフレは、コロナ・パンデミック中の財政支援、その後のサプライチェーン混乱に、突然のロシア=ウクライナ戦争勃発という想定外の要因が重なって進行したものだが、どうやら怖れていたインフレもピークアウト近しという情況だ。

NYTに定期寄稿しているKrugmanだが、先日、こんな風に書いている。

Even so, historical experience wouldn’t have led us to expect this much inflation from overheating. So something was wrong with my model of inflation — again, a model shared by many others, including those who were right to worry in early 2021. I know it sounds lame to say that Team Inflation was right for the wrong reasons, but it’s also arguably true.

One possibility is that historical experience was misleading because until recently the economy was almost always running a bit cold — producing less than it could — and inflation didn’t depend much on exactly how cold it was. Maybe in a hot economy the relationship between G.D.P. and inflation gets a lot steeper.

最近年のように低圧経済下において生産、雇用と物価の間の関係はフラットになっていて、生産や雇用が弱めであっても物価は硬直的であった。であるので、生産が望ましい水準まで回復するとしても、インフレはそれ程は加速しないはずである、と。ところが、(予想に反して)今回の回復プロセスでは生産、雇用と物価との間の関係がより敏感(=steep)な関係になっていた・・・。

やや弁解を述べた最後に

Looking ahead, the economy is currently cooling off — the decline in first quarter G.D.P. was probably a quirk, but overall growth seems to be running below trend. And private sector economists I talk to mostly believe that inflation either has already peaked or will peak soon. So things may seem less puzzling a few months from now.

今回のインフレもピークアウトしたか、間もなくするかであり、分かりやすい状況になって来た、という具合にまとめている。

★

実際、農産物価格についてWSJは最近の価格急落を伝えている。

今年に入りインフレや戦争に伴う供給問題が懸念材料に浮上すると、商品価格の上昇を見込んだ市場参加者が先物市場に資金を注ぎ込み、相場を押し上げていた。小麦と大豆は最高値をたびたび更新し、トウモロコシは史上最高値に迫っていたが、ここにきて状況は一変した。投機筋は利益を確定してインフレ取引を手じまい、リセッション(景気後退)に備えて穀物市場から撤退した。

確かにグラフをみると歴然としている。

URL:https://jp.wsj.com/articles/speculators-exit-agricultural-markets-intensifying-crop-selloff-11659726280
Source:Wall Street Journal、2022 年 8 月 6 日 04:05 JST

このグラフをみると、実は2020年の年末近くから上昇を始めている。その後、2021年にはサプライショック、2022年にはウクライナ戦争が勃発して更に上昇したわけだ。今回の下落は、ウクライナ戦争による不規則変動をキャンセルした状態で、正に文字通りの《投機》であったことが分かる。

WSJの報道によれば、

ウクライナは今週、ロシアによる侵攻後で初めて海路で穀物を輸出したが、黒海経由の安全な食糧輸送を約束した協定はほごにされる可能性がある。協定が守られたとしても、ウクライナに滞留している穀物の在庫解消には数カ月かかりそうだ。米農務省は、今収穫期のウクライナからの穀物・種子輸出量は前期の半分程度になると予想している。

 一方、米国は記録的な猛暑と干ばつに見舞われ、作柄に深刻な影響が及んでいる。ゴールドマンのアナリストは3日のリポートで「トウモロコシ、大豆、春小麦の生育状況はここ6週間、ほぼ継続して悪化している」と指摘。米国の収穫量が2~3%減少し、トウモロコシと大豆は消費量に対する在庫量の割合が過去最低水準に落ち込むとの予測を示した。

基本的には《供給制約》が続くため、短期的な見通しとしては、元のトレンドに戻ってから再上昇する可能性が高い。そう予測しているようだ。

「この秋の食料品価格上昇」とだけ報道しておけばイイ状況ではないようだ。 

★

<報道>と言うのは、井戸端会議のように、思い出す時にだけツマミ食いのような気分で話題にするというのでは、寧ろ情報提供という面ではかえって有害であって、重要なテーマについては定期的にコーナーを設けて、地道に汗をかきながら伝えておくという地味な努力が大切であると思う。

状況は刻々と変わっている。最近のワイドショーは酷いもので、あの話題はスルーして触れない、この話題も何かの理由で都合が悪い、そんな思惑がアリアリと観察される状態で、これでは次にTV画面で話されるときには、映画で30分ばかり中座して、また観始めるようなもので、分かったような分からないような気分だけが残ることだろう。

いや、いや、最後はまたまた国内メディア批判でまとめてしまった。仕事に没頭した若い時分には日本のメディアのアラを意識しなかったのだが、少しゆとりが出来て、国内報道に触れるようになると、どうしてもフラストレーションがたまってくる。本ブログをそんな思いのはけ口にしたくはないが、これもWebLog、世相を記録する日々の航海日誌ということで。


 


2022年8月8日月曜日

ホンノ一言: 「ならぬものは、ならぬのです」じゃあ江戸時代と同じですぜ

新たな技術が研究開発され、文明が高度化する一方で、技術の恩恵を享受する側の一般消費者の側で<低脳化現象>が進んでいる兆しが、また一つ確認されたような気がする。

こんな話がある:

甲子園球場で「チアリーダー」を盗撮したら罪に問われる?

内容はこんな風だ:

全国高校野球選手権大会が8月6日から開幕した。甲子園球場の観衆をわかすのは、球児のプレーだが、チアリーダーの応援姿にもドラマがある。しかし、そのチアリーダーたちの衣装を見直すべきだという声があらわれている。スマホの普及とともに、チアリーダーの「盗撮被害」が増えていることが背景にあるようだ。

なるほど盗撮ですか・・・と。確かにネエ、目を奪われて撮影したくなる御仁も球場現場には多くいるかもしれない。野球を見に来ているのにネエ・・・。余計な催しが視線を奪ってしまっているわけか、そう思いました。

甲子園球場のある兵庫県の場合、「通常衣服で隠されている下着又は身体」を撮影した場合に犯罪になります。たとえば、駅のエスカレーターでスマホを使ってスカート内を撮影するというのが最も多い類型です。

URL: https://news.livedoor.com/article/detail/22640074/
Original:livedoor NEWS、2022年8月8日 10時39分、 弁護士ドットコム

確かに駅のエスカレーターで上にある対象物をコッソリと撮影する行為と、チアリーダーたちの動作の中の特定の一瞬間において垣間見える対象を本人の同意を得ることなくスナップ撮影する行為は、外見上かつ形式上、非常に類似している、とも言える ― 法律的思考は常に唯物論的で形式論理学的であるものだ。 


「これは破廉恥だと言えば、それで破廉恥なのである」と判定される理屈、というかそうした議論も時に有効だというのは、小生も商売柄なじみがある。

ここでポイントになるのは、何が破廉恥であると判定するかどうかの大前提は、

破廉恥だから破廉恥なのだ

という風に、証明不可能な価値観に立つしか方法がない。つまり

そう思うから、そうなのだ

という論法で、大前提から議論をスタートして、あとは外見上の類似に着目して、結論を下す。その点で極めて演繹的な議論をしていると言える ― この話題については先日も投稿した。

もちろん演繹的議論が説得力をもつかどうかには条件があり、それは出発点である大前提が正しいことは誰の目にも明らか、自明であり、大前提(=公理)が誤りであるとは到底考えられない、その位にまで確実であるときにのみ<大前提>たりうるわけだ。デカルトのいう

これを否定することは絶対にできない。 したがってこれは、誰もが受け入れられる、かつ受け入れざるをえない(ほどに確実なこと)

演繹的議論を起こすための大前提とは、本来、こういうものでなければならない。でなければ、帰結を含めて議論全体が怪しくなるのが演繹的議論の弱点だ。


しかし、人間の知性は全て演繹的に進めるべきものではない。実際、このような思考を極端に推し進めれば、中世キリスト教神学の暗黒時代に逆戻りすることにもなる。

特定行為を判定するのに目的に着目するのは法律的議論の本質を為すはずだが、目的論ではなく因果関係論に目を向けるのも大切だ。

破廉恥行為が確認されるのであれば、その行為がなされた原因は何であったのか、ここを確認しなければならない。人たるもの、誰もが<自由意志>をもっているが、だから行動はすべて自由意志に基づくものであり、原因を問うのは無意味であり、すべて結果には自己責任を負わなければならない、と。そうは割り切れないでしょ、というのがごく最近の流れであろう。つまり、行動はすべて自由意志による、故に破廉恥な行為をするならば、破廉恥な意思と目的を持っていたからだ、と。こうした目的論的な思考ではなく、ある特定の事象が発生していれば、多くのケースにおいて、特定の行為とその結果がもたらされる法則性が観察できるのであれば、時間的に先立つ特定の事象が、その後の結果の(蓋然的な)原因であると認識できる。こういう帰納的議論があっても大いに有意義であろう。

であれば、ある事象が先立って発生しており、その時に破廉恥と判定される行為が観察されるのであれば、破廉恥な行動が非であると判定すると同時に、その破廉恥な行為の原因をつくった側にも結果を誘発したという罪を認めなければなるまい。

(心理学的?)因果関係が存在するかどうかを追求するスピリットは、近代科学を支えている大黒柱である。

法律的議論に科学的思考が混じってはいけない理由はない。


2022年8月7日日曜日

ホンノ一言: 「オミクロンは風邪のようなものだ」に対する異論・反論について

加筆:2022-08-09

感染者が確認された都市では全数検査ないし広域大規模検査を実施する建て前の中国では、今回のオミクロン株感染者の概ね90%が無症状者であるという。無症状であるにもかかわらず、ロックダウンで外出禁止になるのではフラストレーションも増すというものだ。

日本では、よほど気になる向きを除けば、無症状者であれば検査はするまい。おそらく毎日発表される「新規感染確認者」の何倍もの感染者が、自覚もせず、検査されないまま、自然治癒しているという情況なのだろうと推測される。

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今回のオミクロン株を風邪に似た疾病の一つとして治療体制を見直そうという提案が話題になっている。

これに対して、

後遺症を考えれば、とんでもない暴論である。

そんな反論が国内(と限ったわけではないとも思うが)にはある。たとえば

7月22日にアメリカとカナダの研究チームが「子どものコロナ後遺症」に関する最新の調査を発表した。子どもは軽症で済むからと決して侮ってはいけないコロナの現実が明らかになってきた。

という海外の研究結果を紹介した上で 

 最近SNSでは、子どもがコロナに罹患し、その後になって体に異変が現れたという投稿が増えている。

「小学生、後遺症で髪の毛が抜け始めた。ほぼ寝たきり」

「息子は学校で倒れたらしい。本人はブレインフォグ中で断片的な記憶しかない」

「下の子(小学生)が先月コロナに罹患して、一か月以上経過して、咳・たん・全身倦怠感」

症状は深刻で、心配する親たち、不安を抱える子どもたちの様子が投稿に表れている。脱毛、ブレインフォグ、倦怠感などは“コロナ後遺症”の主な症状だ。これまで大人ばかりが注目されてきたが、最新の調査で子どもにも“コロナ後遺症”がでることが確認されてきている。 

URL: https://news.yahoo.co.jp/articles/936206b2066530102aac454dd3d0d4987fd1ea7b

Original:TBS NEWS DIG、8/7(日) 8:01配信

厳重な注意を喚起している。が、中国で観察された無症状率から憶測すると、後遺症発生率の研究にはかなり「サンプル・セレクション・バイアス(Sample Selection Bias)」、というより"Censored Data"が結果に影響しているのではないかと思われ、解釈には注意が要る。

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何かの提案をするならするで、当然のことながら、データに基づいて提案しているわけである。これに対して、その提案にネガティブなデータにスポットライトを当てて反対するのは、反対意見に共通する典型的なパターンであって、そうなる理由は「どのデータを最も重視するか」という観点の違いに帰することが多い。

実際、中国の<ゼロ・コロナ戦略>にも、西洋の<ウィズ・コロナ戦略>にも、そういう異なった戦略を採用する異なった理由があるわけで、更に掘り下げると、戦略の違いは何を目的とするかという目的の違いに帰着するのがロジックである。目的が異なれば、目的を達成するための最適戦略が異なるのは当然であり、いま国によって、地域によって、やっていることが違うのは、戦略の違いというより、目的の違いが根本的な理由である。

そして「目的の違い」と言うと、『要するに、経済を回したい、命よりも経済なんですよネ』と非難を込めて言い募る向きが多いが、単に「経済」というよりも

その人、一人一人の個人の基本的人権、特に自由を保障する社会であるべきだ

こんな言い方の方がより的を射ているのではないかと思っている。いま西洋、具体的には西側諸国ということになるが、コロナ感染抑止のための行動規制をほぼ撤廃しているのは、感染抑止を名目にした人権侵害(≒自由の制限)を極力避けるというのが、本質的な理由であろう、と。小生はそう観ているところだ。

命よりも、お金が大事。そういうことなンでしょ!

日本では頻繁に耳に入るこんな非難だが、その裏側には(補償金があるにせよ、ないにせよ)どこか全体主義的な統一志向、管理志向の匂いがするのだが、そう感じるのは小生だけだろうか?

社会全体として善いことであれば、一部の人が色々な事を我慢するとしても仕方がないという価値観には、特に西洋的伝統に忠実であれば、異論をもつ人は相当数いるだろう。

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コロナ後遺症が重要な問題で、懸念しなければならないという指摘には、確かに賛成だ。しかし、後遺症発症者を可能な限りゼロにするという考え方は、事実上、ゼロ・コロナ論と同じである。

上にあげた提案の主旨は、当然だがウィズ・コロナ論から出てきている。「インフルエンザや風邪の治療体制に近い体制に移ろう」ということであり、つまりは《病態に沿った組織戦略》の提案である。その目的は医療資源の効率的使用にある。医療資源は、現時点では量的制約下にあるので、もし命が大切なのであれば最も効率的に診療サービスを活用するとき、医療のアウトプットは最大になる。この事は後遺症治療にも寄与するはずだ。

議論の本質はこういうことであり、『風邪と同じ』という言語表現をとるかどうかは、マア、どうでもよい些事である。やはり、ここ近年の日本に目立つ、言葉使いを批判する一例だと思う。

日本は心の底から《ものも言いよう》のお国柄なのである

ホントにそう思う。

言葉重視の原則は、マナーの第一歩でもあるので、反対するわけではないが、礼を重視するなら「言葉尻」に拘るのではなく、礼の本質、つまり「辞譲の心」に目を向けて語らなければなるまい。辞譲とは簡単にいえば「相手を立てる」ということであって、自分の意見を正論として主張し相手の意見を異論として否定するという態度とは正反対なのである。自分は礼なるものを捨て去り自己主張に専念しつつ、相手には礼に適った言葉づかいを求めるのは、二重の意味で<無礼者>に該当するわけだ。



2022年8月3日水曜日

ホンノ一言: 米下院議長の訪台に思う

 昨日は、米下院のナンシー・ペロシ議長が台湾を訪問する(だろう)というので、世界中が大騒ぎをしていた様子。その中で、日本のTV画面はコロナ第7波がメインの話題で、その辺は実に一貫して国内メンタリティ重視路線が貫かれていた。今日の報道では、ペロシ議長が乗った航空機の航跡を追跡する「フライトレーダー24」を台湾到着時には70万人以上の人が視聴していた、と。

フライトレーダー24のデータによると、ペロシ氏を乗せたとみられる米空軍所属の航空機は日本時間2日午後7時すぎにインドネシアのカリマンタン島付近、同午後9時半にフィリピン東方の海上を飛行した。中国が軍事拠点化を進める南シナ海上空を迂回して台湾に向かった。同機の航路を閲覧した人数は台湾到着時点で70万8000人だった。飛行時間は約7時間におよび、総閲覧者数は292万人にのぼった。

Source:日本経済新聞、 2022年8月3日 11:17 (2022年8月3日 12:30更新)

総閲覧者数が292万人というから相当の注目度であったわけだ ― 視聴者数の国籍別内訳などがあるともっと興味深いのだが。


この台湾訪問にはかなり批判もあったようで、NYTのコラムニストであるThomas Friedmanは"Why Pelosi’s Visit to Taiwan Is Utterly Reckless"というタイトルで寄稿している。

I have a lot of respect for House Speaker Nancy Pelosi. But if she does go ahead with a visit to Taiwan this week, against President Biden’s wishes, she will be doing something that is utterly reckless, dangerous and irresponsible.

全く向こう見ずで、かつ危険、無責任極まりないと酷評している。しかも、" against President Biden’s wishes"、つまり大統領の希望に反して、ということだから、共感の余地なしというところだ。結構リベラルなニューヨーク・タイムズでこうだから、あとは推して知るべし。

ただ、ここまで「愚か」というしかない行動になると、表面から判断してもよいのだろうかという疑問が生じるというものだ。

アメリカは<三権分立>を盾にして『行政府の長が立法府の議長に指示することはできない』、まあこんなメッセージを発して中国には冷静な対応を要請している由。

何だか胡散臭い。アメリカの政府はいかんとも出来ず、行ってはダメだとは言えない。が、アメリカという国家の意志は十分に分かったはずだ、と。中国から観れば、アメリカ政府こそ無責任の極みと映るに違いない。責任を持つべき国家元首は誰なのか、と。

ただ、北京政府はなぜこれほど怒るのだろう?(北京政府の言う通り)台湾は中国の一部である。仮にペロシ議長が深圳や南京、蘇州や天津を訪問したいと言えば、北京政府はウェルカムであったろう。台湾も中国の一部であり、アメリカ政府もそう認めているのだから、中国の一部である台湾を訪問しても怒る筋合いはないだろう。なぜ台湾訪問に限って北京政府は怒るのか・・・というのは屁理屈で、台北政府は自らの国旗をもち、総統を選び、法律も自ら制定して北京政府とは独立して台湾を統治している。つまり中国は今も中央政府に従わない地域が残る「内乱状態」にある。清朝初期、康熙帝の時代に発生した「三藩の乱」と類似の情況にある。その「賊軍」の拠点を訪問し、歓迎を受けるというのは、米国は北京政府に敵対する意志がある。ま、そんな理屈になるのだろう。が、それでも北京はワシントンに敵対する意志は持たないだろうと、小生は勝手に思っている。喜ぶのは、日本や東南アジア、インドであるのは明らかだ。戦前期・日本が苦労したように、これから中国は対米外交に苦しむ運命にある。

中国はモヤモヤした国際政治環境に追い込まれている。不愉快千万なことだろう。投資リスクは高まる一方だ。このままでは閉塞感が蔓延するだろう。いずれやって来る高齢化を考えると、お先真っ暗だ。これもロシアとの親密路線を死守しているからだ。そんな日和見主義、敗北主義が中国国内で頭をもたげてくるようなら、中国にとっては敗北の方程式になるかもしれない。


一口に言えば、(ホワイトハウスではないが)ワシントンによる恫喝である。ひょっとすると、今回のペロシ議長の訪台、ホワイトハウスと水面下では話がついているのだろう。