2022年8月7日日曜日

ホンノ一言: 「オミクロンは風邪のようなものだ」に対する異論・反論について

加筆:2022-08-09

感染者が確認された都市では全数検査ないし広域大規模検査を実施する建て前の中国では、今回のオミクロン株感染者の概ね90%が無症状者であるという。無症状であるにもかかわらず、ロックダウンで外出禁止になるのではフラストレーションも増すというものだ。

日本では、よほど気になる向きを除けば、無症状者であれば検査はするまい。おそらく毎日発表される「新規感染確認者」の何倍もの感染者が、自覚もせず、検査されないまま、自然治癒しているという情況なのだろうと推測される。

今回のオミクロン株を風邪に似た疾病の一つとして治療体制を見直そうという提案が話題になっている。

これに対して、

後遺症を考えれば、とんでもない暴論である。

そんな反論が国内(と限ったわけではないとも思うが)にはある。たとえば

7月22日にアメリカとカナダの研究チームが「子どものコロナ後遺症」に関する最新の調査を発表した。子どもは軽症で済むからと決して侮ってはいけないコロナの現実が明らかになってきた。

という海外の研究結果を紹介した上で 

 最近SNSでは、子どもがコロナに罹患し、その後になって体に異変が現れたという投稿が増えている。

「小学生、後遺症で髪の毛が抜け始めた。ほぼ寝たきり」

「息子は学校で倒れたらしい。本人はブレインフォグ中で断片的な記憶しかない」

「下の子(小学生)が先月コロナに罹患して、一か月以上経過して、咳・たん・全身倦怠感」

症状は深刻で、心配する親たち、不安を抱える子どもたちの様子が投稿に表れている。脱毛、ブレインフォグ、倦怠感などは“コロナ後遺症”の主な症状だ。これまで大人ばかりが注目されてきたが、最新の調査で子どもにも“コロナ後遺症”がでることが確認されてきている。 

URL: https://news.yahoo.co.jp/articles/936206b2066530102aac454dd3d0d4987fd1ea7b

Original:TBS NEWS DIG、8/7(日) 8:01配信

厳重な注意を喚起している。が、中国で観察された無症状率から憶測すると、後遺症発生率の研究にはかなり「サンプル・セレクション・バイアス(Sample Selection Bias)」、というより"Censored Data"が結果に影響しているのではないかと思われ、解釈には注意が要る。

何かの提案をするならするで、当然のことながら、データに基づいて提案しているわけである。これに対して、その提案にネガティブなデータにスポットライトを当てて反対するのは、反対意見に共通する典型的なパターンであって、そうなる理由は「どのデータを最も重視するか」という観点の違いに帰することが多い。

実際、中国の<ゼロ・コロナ戦略>にも、西洋の<ウィズ・コロナ戦略>にも、そういう異なった戦略を採用する異なった理由があるわけで、更に掘り下げると、戦略の違いは何を目的とするかという目的の違いに帰着するのがロジックである。目的が異なれば、目的を達成するための最適戦略が異なるのは当然であり、いま国によって、地域によって、やっていることが違うのは、戦略の違いというより、目的の違いが根本的な理由である。

そして「目的の違い」と言うと、『要するに、経済を回したい、命よりも経済なんですよネ』と非難を込めて言い募る向きが多いが、単に「経済」というよりも

その人、一人一人の個人の基本的人権、特に自由を保障する社会であるべきだ

こんな言い方の方がより的を射ているのではないかと思っている。いま西洋、具体的には西側諸国ということになるが、コロナ感染抑止のための行動規制をほぼ撤廃しているのは、感染抑止を名目にした人権侵害(≒自由の制限)を極力避けるというのが、本質的な理由であろう、と。小生はそう観ているところだ。

命よりも、お金が大事。そういうことなンでしょ!

日本では頻繁に耳に入るこんな非難だが、その裏側には(補償金があるにせよ、ないにせよ)どこか全体主義的な統一志向、管理志向の匂いがするのだが、そう感じるのは小生だけだろうか?

社会全体として善いことであれば、一部の人が色々な事を我慢するとしても仕方がないという価値観には、特に西洋的伝統に忠実であれば、異論をもつ人は相当数いるだろう。

コロナ後遺症が重要な問題で、懸念しなければならないという指摘には、確かに賛成だ。しかし、後遺症発症者を可能な限りゼロにするという考え方は、事実上、ゼロ・コロナ論と同じである。

上にあげた提案の主旨は、当然だがウィズ・コロナ論から出てきている。「インフルエンザや風邪の治療体制に近い体制に移ろう」ということであり、つまりは《病態に沿った組織戦略》の提案である。その目的は医療資源の効率的使用にある。医療資源は、現時点では量的制約下にあるので、もし命が大切なのであれば最も効率的に診療サービスを活用するとき、医療のアウトプットは最大になる。この事は後遺症治療にも寄与するはずだ。

議論の本質はこういうことであり、『風邪と同じ』という言語表現をとるかどうかは、マア、どうでもよい些事である。やはり、ここ近年の日本に目立つ、言葉使いを批判する一例だと思う。

日本は心の底から《ものも言いよう》のお国柄なのである

ホントにそう思う。

言葉重視の原則は、マナーの第一歩でもあるので、反対するわけではないが、礼を重視するなら「言葉尻」に拘るのではなく、礼の本質、つまり「辞譲の心」に目を向けて語らなければなるまい。辞譲とは簡単にいえば「相手を立てる」ということであって、自分の意見を正論として主張し相手の意見を異論として否定するという態度とは正反対なのである。自分は礼なるものを捨て去り自己主張に専念しつつ、相手には礼に適った言葉づかいを求めるのは、二重の意味で<無礼者>に該当するわけだ。



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