ずっと昔から世代間の対立はあった(はずだ)。時代が激しく変動する中では父と息子の間ですら、価値観や世界観、愛読書、日常言語空間がまったく違ってくる。最近読み直しているのだが、島崎藤村の『夜明け前』に登場する主人公・青山半蔵と半蔵の父・吉左衛門は一つの典型であると思うし、天寿・天職を全うした父と世相が変転する中で悲劇的な人生を閉じた半蔵の対比は、その時代の中では極くありふれた家族像であったに違いない。小生と亡くなった父はまったく違った時代背景で成長したし、趣味も感性も考え方も違っていた。父と祖父が成長した時代もまったく別の世界であった。祖父は大正デモクラシーの空気を当たり前だと思い、父は政党の腐敗と軍部の清潔を人々が信じていた時代に育ったわけだから。
このようにジェネレーション・ギャップは日本にはずっと当たり前のように存在していたわけだが、最近のように《ジジイ連中》という括り方を頻繁に目にしたり、耳にしたりするようになると、すでに初老から「本じいさん」になりかかっている小生にはヤッパリ愉快ではない。というか、「じじい連中」の方は、そっちはそっちで《青二才の分際》などと日常的に話しているのが今の日本社会で、「ジジイが・・・」とか、「青二才が・・・」とか、英米などアングロサクソン社会の英語空間では、この辺の生活感情をどんな言葉で表現しているのかと、よく思ったりするのだが、これかという結果が見当たらず、どうもピンと来ないのだ、な。大体、次期大統領選挙にトランプ氏が再び立候補するとか、その対抗馬はバイデン現大統領よりヒラリー・クリントン氏のほうが勝てるのではないかとか、少なくともアメリカでは<ジジイ>、<ババア>は引っ込んでいろという声は日本よりは小さいようだ。イギリスも96歳のエリザベス二世女王が在位しており、英国民の中に<代替わり願望>が高まっているとは、まったく聞こえてこない。どうも年齢をめぐる感性というか、外国と日本とはお国柄が違うような気がする。
いずれにせよ、時代を問わず、国を問わず、二つの年齢階級をとって、ランダム抽出して同人数にそろえた上で、何かの基準で(例えば能力基準で)ソートして、上から同順位ごとに1対1で比較すれば、
高齢者は、実績と資産をもつが、体力・精力は衰えている。
青壮年は、実績が足りず、資産も乏しいが、体力・精力は旺盛である。
こうなることは自明だろう。故に、役割分担はそれほどの難問ではない理屈だ。
激動の時代には、時に若年でありながら、実績を示し、資産も形成できる極く少数の人間が出現する。そんな英雄が登場すれば、高齢者の出番はない。これもよく分かるロジックだ。
父の好んだ詩は島崎藤村『若菜集』にある「草枕」であった。長詩であるこの詩は:
夕波くらく啼く千鳥
われは千鳥にあらねども
心の羽をうちふりて
さみしきかたに飛べるかな
若き心の一筋に
なぐさめもなくなげきわび
胸の氷のむすぼれて
とけて涙となりにけり
こんな風に始まる。正に明治・新体詩の浪漫主義そのものだ。
藤村の詩作品は小生も好んだが、以前にも投稿したことがあるが、自分自身と一体化しているという意味になると三好達治である。藤村の『若菜集』に相当するのは、三好の『測量船』ということになるが、有名な『あはれ花びらながれ をみなごに花びらながれ』で始まる「甃のうへ」よりは、もっとモダンな散文詩「Enfance finie」が好きである。
海の遠くに島が……、雨に椿の花が堕ちた。鳥籠に春が、春が鳥のゐない鳥籠に。
約束はみんな壊れたね。
海には雲が、ね、雲には地球が、映つてゐるね。
空には階段があるね。
今日記憶の旗が落ちて、大きな川のやうに、私は人と訣 れよう。床 に私の足跡が、足跡に微かな塵が……、ああ哀れな私よ。僕は、さあ僕よ、僕は遠い旅に出ようね。
URL:https://www.aozora.gr.jp/cards/001749/files/55797_55505.html
Source:青空文庫
実は、この作品のすぐ後にある「十一月の視野に於て」は、こんな風に始まる(一部の漢字を平仮名にしている):
倫理の矢にあたっておちる倫理のことり。風景の上に忍耐されるそのフラット・スピン!
ことりは叫ぶ。否、否、否。私は、私からおちる血を私の血とは認めない。否!
現代日本人とマスコミの好きな《倫理》が、その人の自由な生を束縛する檻のような存在として働き、その人を不幸にしている現実に目を向けている詩人の感性が何となく伝わって来るではないか。
個人の善悪を考える倫理と、善を求める社会に個人を従わせる共産主義の理念とは、実はホンノ一歩であるほど近い関係にあるということに、詩人といわれる人たちは非常に敏感であったことが分かる・・・ような気がするのは小生だけなのだろうか?
ま、どちらにしても、好んだ詩作品を対比してみても、父と小生の育った文化的背景の差が明らかに見てとれる。
足元で日本社会が問題視している「(旧)統一教会」は、安倍元首相暗殺事件の衝撃が後遺症のように尾を引いた一種のヒステリー症状だと観ているが、こんな世相の中では、「・・・を守る」と言いながら、実際にはごく一部の人を守りながら、その他の色々な人の繊細な悩みや迷いを山津波のように押し潰し、結局は最初に守りたかった人たちをも守れないという事態に至る・・・そんな結末が多いのが戦後日本社会の在りのままの実態である・・・と思うのは小生だけだろうか?
三好達治が『測量船』を発表したのは1930年12月で、時の民政党内閣首相であった浜口雄幸総理が東京駅で狙撃された翌月である。正義を求める日本人の殺伐とした世間に置かれていた一人の人間ならではの詩作であることがよく分かる。
長くなりすぎた。「旧・統一教会」については日を変えて感想をメモすることにしよう。
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