新たな技術が研究開発され、文明が高度化する一方で、技術の恩恵を享受する側の一般消費者の側で<低脳化現象>が進んでいる兆しが、また一つ確認されたような気がする。
こんな話がある:
甲子園球場で「チアリーダー」を盗撮したら罪に問われる?
内容はこんな風だ:
全国高校野球選手権大会が8月6日から開幕した。甲子園球場の観衆をわかすのは、球児のプレーだが、チアリーダーの応援姿にもドラマがある。しかし、そのチアリーダーたちの衣装を見直すべきだという声があらわれている。スマホの普及とともに、チアリーダーの「盗撮被害」が増えていることが背景にあるようだ。
なるほど盗撮ですか・・・と。確かにネエ、目を奪われて撮影したくなる御仁も球場現場には多くいるかもしれない。野球を見に来ているのにネエ・・・。余計な催しが視線を奪ってしまっているわけか、そう思いました。
甲子園球場のある兵庫県の場合、「通常衣服で隠されている下着又は身体」を撮影した場合に犯罪になります。たとえば、駅のエスカレーターでスマホを使ってスカート内を撮影するというのが最も多い類型です。
URL: https://news.livedoor.com/article/detail/22640074/
Original:livedoor NEWS、2022年8月8日 10時39分、 弁護士ドットコム
確かに駅のエスカレーターで上にある対象物をコッソリと撮影する行為と、チアリーダーたちの動作の中の特定の一瞬間において垣間見える対象を本人の同意を得ることなくスナップ撮影する行為は、外見上かつ形式上、非常に類似している、とも言える ― 法律的思考は常に唯物論的で形式論理学的であるものだ。
「これは破廉恥だと言えば、それで破廉恥なのである」と判定される理屈、というかそうした議論も時に有効だというのは、小生も商売柄なじみがある。
ここでポイントになるのは、何が破廉恥であると判定するかどうかの大前提は、
破廉恥だから破廉恥なのだ
という風に、証明不可能な価値観に立つしか方法がない。つまり
そう思うから、そうなのだ
という論法で、大前提から議論をスタートして、あとは外見上の類似に着目して、結論を下す。その点で極めて演繹的な議論をしていると言える ― この話題については先日も投稿した。
もちろん演繹的議論が説得力をもつかどうかには条件があり、それは出発点である大前提が正しいことは誰の目にも明らか、自明であり、大前提(=公理)が誤りであるとは到底考えられない、その位にまで確実であるときにのみ<大前提>たりうるわけだ。デカルトのいう
これを否定することは絶対にできない。 したがってこれは、誰もが受け入れられる、かつ受け入れざるをえない(ほどに確実なこと)
演繹的議論を起こすための大前提とは、本来、こういうものでなければならない。でなければ、帰結を含めて議論全体が怪しくなるのが演繹的議論の弱点だ。
しかし、人間の知性は全て演繹的に進めるべきものではない。実際、このような思考を極端に推し進めれば、中世キリスト教神学の暗黒時代に逆戻りすることにもなる。
特定行為を判定するのに目的に着目するのは法律的議論の本質を為すはずだが、目的論ではなく因果関係論に目を向けるのも大切だ。
破廉恥行為が確認されるのであれば、その行為がなされた原因は何であったのか、ここを確認しなければならない。人たるもの、誰もが<自由意志>をもっているが、だから行動はすべて自由意志に基づくものであり、原因を問うのは無意味であり、すべて結果には自己責任を負わなければならない、と。そうは割り切れないでしょ、というのがごく最近の流れであろう。つまり、行動はすべて自由意志による、故に破廉恥な行為をするならば、破廉恥な意思と目的を持っていたからだ、と。こうした目的論的な思考ではなく、ある特定の事象が発生していれば、多くのケースにおいて、特定の行為とその結果がもたらされる法則性が観察できるのであれば、時間的に先立つ特定の事象が、その後の結果の(蓋然的な)原因であると認識できる。こういう帰納的議論があっても大いに有意義であろう。
であれば、ある事象が先立って発生しており、その時に破廉恥と判定される行為が観察されるのであれば、破廉恥な行動が非であると判定すると同時に、その破廉恥な行為の原因をつくった側にも結果を誘発したという罪を認めなければなるまい。
(心理学的?)因果関係が存在するかどうかを追求するスピリットは、近代科学を支えている大黒柱である。
法律的議論に科学的思考が混じってはいけない理由はない。
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