2023年3月11日土曜日

ホンノ一言: とうとう銀行破綻が出てしまったインフレ抑制策

アメリカ西海岸に本拠をもつ大規模金融機関"Silicon Valley Bank (SVB)"がFRBの攻撃的金利引き上げ政策の中で、突然、経営破綻した。

SVB catered mainly to the insular ecosystem of startups and the investors that fund them. Its deposits boomed alongside the tech industry, rising 86% in 2021 to $\$$189 billion and peaking at $\$$198 billion a quarter later. The bank poured large amounts of the deposits into U.S. Treasurys and other government-sponsored debt securities.

Tech tumbled after the Federal Reserve began raising rates last year to curb inflation. Startups, as a result, drained their deposits with SVB faster than the bank expected. And new investment stalled, meaning fresh money wasn’t coming into the bank. 

Rising interest rates, meanwhile, dented the value of SVB’s massive bond portfolio. The bank needed fresh capital.

Source:Wall Street Journal,  March 10, 2023 6:33 pm ET

Author: Rachel Louise, Corrie Driebusch and Meghan Bobrowsky

URL: https://www.wsj.com/articles/svb-financial-pulls-capital-raise-explores-alternatives-including-possible-sale-sources-say-11de7522

同銀行はシリコンバレーのスタートアップ企業に金融サービスを提供していた。スタートアップ企業は、ベンチャー資本だけではなく負債で多くの資金を得ているので、金利引き上げは経営の足を引っ張る。そこでSVBから多額の資金を引き出した。他方、SVBは財務省が発行する国債で多額の運用を行っていた。その国債の市場価格が急速な金利引き上げによって暴落した。流動性危機に陥った同銀行は資本市場からマネーを調達しようとしたが不安に駆られた顧客が取り付けに殺到したので間に合わなかった。大略、そんな顛末であるようだ。


大規模な金融機関の経営破綻でニューヨーク株式市場には激震が走り銀行株は暴落した。金融不安が全米に拡大すると極めて危険な状況になる。まさか、こんな風になるとはネエ・・・とは言えない。予測できたことである。


インフレ抑え込みに金利を引き上げるのは確かに効果があるが、賃金上昇が伴っているホームメイド・インフレが進行中であれば、マクロ経済に与える犠牲も大きい。

今回のインフレは労働市場の引き締まりからもたらされる賃金上昇が主因の一つだというがその雇用状況引き締まりの原因は、労働需要の過大というより、労働供給がコロナ禍の後、減少している点にあることを無視できない。

つまりサプライサイドに原因がある以上、金利引き上げによる総需要抑制は政策選択としては賢明ではない。スティグリッツが主張するように、財政支出の削減を検討するべきだろう。財政支出削減と同規模の減税を行えば痛みの少ない総需要抑制策になる。かつてニクソン政権が断行した(そして必ずしも成功しなかった)賃金引上げガイドラインなど所得政策も選択肢の中には入るだろう。

今回の銀行破綻は、(巨額のウクライナ軍事支援という事情もあるが)財政拡大下で強行しようとしているインフレ抑制がひき起こした荒っぽい《クラウディング・アウト》であると考えられる。


それにしても金利引き上げに伴う国債価格暴落による銀行破綻。今後の日本にとっても他人事ではない。十分、起こりうる事態である。恐ろしい話である。

2023年3月10日金曜日

一言メモ: JAXAの打ち上げ失敗 ― 正当な不信と有害な不信と

先日はJAXAのH3ロケット打ち上げ予定日が異常検知のため延期されたことについて投稿した。

異常検知による延期であるから工学的観点から言えば失敗とは認識されていない。そんなことを書いて、これを失敗だと言い募るマスコミが報道の失敗をしていると述べた。

ところが、今度は打ち上げ後、14分ほどが経過してから、第2エンジンに点火できず、自己破壊指令を送信したというのだから、これは《打ち上げ失敗》である。発射前の段階でセンサーは何の異常も検知できなかったのかと、この点にこそJAXAの技術に対して不信が高まるだろうし、寧ろ高まるべきでもある。

この不信は正当な不信である。


システムが正常に機能していれば、何度かの試行錯誤をしていようと、技術を信頼するべきである。試行錯誤の一つ一つについて不信を声高にとなえるのは、安全を過剰に志向させ、リスク回避の心理を強め、得られるかもしれない成果を遠ざけ、結果としてイノベーションを停滞させるだけである。これは有害な不信である。これ正に、現代日本社会について耳にタコができるほど聞かされている指摘である。

一方、正当な不信もある。システムを信頼できないエビデンスが示されたときに、不信を明らかに伝えることは、システム設計の検証、必要なシステム改革を促すうえで非常に有益である。正当な不信は、システム開発の目的を再確認させ、目的合理性をより徹底させ、結果としてプロジェクトの成功をより確実にするのである。

ところが、今回の本物の(?)失敗のあと、JAXAを批判する声は、先日の単なる延期の時に比べると、意外なほどに少ない ― マア、WBCが始まって日本全体がお祭り気分になっていることもあるのだろうが。


「バグ」、「システムダウン」、「アクシデント」は開発プロジェクトの中では異なった要素で受け止め方も対応方針も異なる。今回の打ち上げ失敗は二番目のシステムダウンに該当する。聞くところによると、H3ロケットは低コスト化、軽量化、効率化を追求した機種であるそうだ。ギリギリの効率化を目指す発想は、何だか戦前のゼロ戦開発を連想させる。ハザード・トレランス、フォールト・トレランスは頑健なシステムを造る重要な因子だが、ここを軽視しがちな日本的工学の弱みが(強みもここから出てくるのだが)凝縮されているのでなければ幸いだ。みずほ銀行のシステムダウンを何だか思い出してしまう。

2023年3月9日木曜日

覚え書き: 日本の賃上げ、アメリカのインフレ抑え込み、景気の現状は様々だ

今日の報道ではカナダが利上げ停止を発表したそうだ。

【ニューヨーク=大島有美子】カナダ銀行(中央銀行)が主要7カ国(G7)の中銀に先駆けて高インフレ抑制のための継続利上げを停止した。主要国より著しい住宅市場の冷え込みなど、米国などと比べて金融引き締めの影響が現れている背景がある。一方、米連邦準備理事会(FRB)のパウエル議長は利上げ再加速を示唆しており、インフレが収まらなければ再利上げを迫られるリスクもくすぶる。

Source:日本経済新聞、2023年3月9日 7:56

アメリカのFRBは金利加速を示唆しているので方向性は逆である。日銀はどうするのだろう?

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利上げはインフレ対応政策であるが、一方で全ての経済政策は究極的にはマクロ経済全体に目配りするべきもので、特に雇用と直結する以上、景気変動には注意を怠るべきではない、というのが標準的な経済政策観であろう。

もちろん経済政策には複数のツールがあって金利を操作する金融政策はその一つであるから、物価とは別の政策目標があるなら、それは金融政策とは別の政策ツールによって達成するべきであるという理屈もある。だから、いくら景気が悪化してもインフレを抑え込むのが金利政策の使命なのだ、という原則論者もいるわけである。

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現時点の景気を日本とアメリカとで見ておきたい。

日本は景気動向指数として先行系列、一致系列、遅行系列の三種を公表している大変親切な政府がある国である。

1月の数値が公表されたので、先行、一致、遅行の順にグラフを示しておく。

URL: https://shigeru-nishiyama.shinyapps.io/getdrawci/

先行指数は引き続き低下し続けており、今後、景気後退が進む前兆が明瞭である。


一致指数の低下は始まったばかりである。生産、販売の現場はマイナスの方向を辿りつつある。日本では既に景気悪化は始まっている。


雇用、賃金分野などから構成される遅行指数は直近では頭打ちの気配である。この遅行指数までもが低下し始めると、本格的かつ持続的な景気後退に入っていると判断しても可である。

前の投稿にも書いたが、足元で重点的な政策課題は《賃金引上げ》である。現時点の日本経済は、金融引き締めに転ずる状況ではない。

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アメリカはどうか?

アメリカの景気動向指数はThe Conference Boardが公表している。日本と同様、先行指数、一致指数、遅行指数が作成されている。

これを見ると、先行指数は相当速いスピードで低下していて、こんな説明がされている。

The Conference Board Leading Economic Index® (LEI)for theU.S. fell by 0.3 percent in January 2023 to 110.3 (2016=100), following a decline of 0.8 percent in December. The LEI is now down 3.6 percent over the six-month period between July 2022 and January 2023—a steeper rate of decline than its 2.4 percent contraction over the previous six-month period (January–July 2022).

一方、生産、販売の現状を示す一致指数は日本よりは腰の強い動きになっている。

 The Conference Board Coincident Economic Index® (CEI) for the U.S. increased by 0.2 percent in January 2023 to 109.5 (2016=100), after no change in December. The CEI is now up 0.7 percent over the six-month period between July 2022 and January 2023—close to the 0.6 percent growth it recorded over the previous six months. 

確かにFRBが予想以上に腰の強い米国景気をみて

景気よりはインフレだ

と、金利引き上げの鞭をふるい続けるとしても根拠のある判断である。

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経済学者クルーグマンは"Peering Through the Fog of Inflation"というタイトルでThe New York Timesに寄稿している。 そこで

But inflation went far higher for longer than we expected, and at least some of Team Transitory issued mea culpas, while some of those who had predicted inflation doubled down on their pessimism, with warnings of many years of stagflation to come.

...

I don’t believe they’re right. But maybe the crucial point is just how murky the situation is.

The truth is that we don’t have a very clear picture of what’s happening to inflation right now.

URL: https://www.nytimes.com/2023/03/03/opinion/inflation-us-economy.html

Source: The New York Times, March 3, 2023

要するに、コロナ禍の後の物価上昇は一時的だとクルーグマンを含めて指摘したエコノミストはいたが、その点については既に自らの誤りを認めている。そこで、現在、インフレ率が高いか、低いかを見る時に参照するインフレ率の数値だが、その人ごとに重視する数値がバラバラである、と。ある人は、消費者物価指数の総合を見るし、別の人は食品、光熱費関係品目を除いた「コア・インフレ率」を見る。ところが、コロナ禍とコロナ禍からの回復過程で、非常にイレギュラーな変動を占める商品が多数出てきた。それらもインフレ率から外した方がいいヨネ、と。そんなこんなで、今では、専門家ごとに別々の数値を参照しながら、高いとか、低いと言っている状態だ。

まあ、現在のアメリカで繰り広げられている専門的論議も中々にビミョーなところがあるわけだ。

そこで最後には

The Fed is creeping its way forward through a dense data fog, and this suggests to me that it should avoid drastic moves in either direction.

何だかサジを投げてしまった心境が伝わってくる。


カナダは明瞭な政策判断ができたが、アメリカの金融当局はまだまだ《データの霧》の中を匍匐前進するように行くしかないと、そう言いたいようである。



2023年3月8日水曜日

感想: 「世論」の具体的な形はどこにある?

何事によらず「世論」が大事だというお題目(?)は戦後日本体制のもとではオールマイティである。戦前日本では『天皇陛下におかせられては……』と声をはなてば軍人は座っていても直ちに立って直立不動の姿勢をとっていたのは、映画でよく撮られていたので、知っている人は多い。誇張された演出であったに違いないが、多分、概ね事実だったのだろう。もし江戸時代に遡るなら、例の『この紋所が目に入らぬか!』という世界がそこにはあった。

日本という国にはこんな(ほぼ)全ての人を黙らせる必殺の言葉が秩序維持の観点からどうしても必要なのだと思っているのだ。それが今では『世論は…』という文句になっている。しかし『世論』なるもの、「天皇陛下」とも「紋所」とも異なり、具体的な形になっていないのが最大の弱みだ。

とすれば、今の現代日本社会で『世論』というのは具体的にどこにあるのか?どこに視える化されているのか?

まさか「世論調査」がそうだと考えるお目出たい人は少なかろう。メディア各社ごとに数字が余りに違っていて信用できないのは誰もが知っている。そして、時を追って甚だしく数字が変化する。まるで陽炎がたつ「逃げ水」のようである。


こんなことを考えてみたのだが、例えば「ヤフコメ」などのネット・コメントがそうなのかもしれないネエと思った。

TVのワイドショーがネット・コメントを引用したりすることが増えた。世論はもはや新聞、週刊誌などの印刷物、テレビ、ラジオなどの電波放送ではなく、ネットに書き込まれたコメントの総体ではないか、と。

そう思うと、小生が一介の小役人であった頃、毎日の通勤電車の車内ではほとんど全員が新聞や週刊誌を読んでいた情景が思い起こされた。手持無沙汰そうな客は社内の吊り広告で次号『週刊〇〇』の見出しを眺めていた。乗客が読んでいた新聞の過半数はスポーツ新聞である。帰りの車内なら『夕刊フジ』か『日刊ゲンダイ』。週刊誌なら『週刊文春』、『週刊新潮』、『週刊ポスト』、要するに<大衆紙>である。後は少数派だった。比較的良質とされた『週刊朝日』や『サンデー毎日』は目に入らない。理髪店で待っている時に手に取ったくらいだ。廃刊、いや休刊になるはずだ。

そんなずっと以前の電車の中で読まれていた印刷物と今のネットコメントを比べてみると、実に似ている。

スポーツ新聞社の記事がネットには結構多い。以前なら週刊誌の編集部に持ち込むようなレベルの取材記事がネットには溢れている。誇張や憶測、匂わせなど、書きっぷりも似ている。反エリート、親アイドルの傾向も同じだ。想定している読者層が似ているのだ。今日も通勤電車の車内ではスマホでそんなネット記事を読んでいる人が多いのかもしれない。

前の<大衆紙>が今の<ネット>に変じた。技術進歩がそれを可能にした。そんな所なのだ。マスコミのマスとは「大衆」のことだ。世論と大衆とは現代社会で切り離すことはできない。

それとも「世論」は必ずしも「大衆」の願いではないわけで?


スポーツ新聞や週刊誌に載せる記事を書いていた人たちは、今はネットにコメントを書いたり、投稿したりしている人になった。そうした仕事をしたくて、それで生計を立てて人生を歩む人がいる。そうした仕事が面白いと感じる人たちは時代を問わず一定割合だけ現れるものであるし、と同時にそうした人たちは世間から必要とされるのだ、と。善い悪いの問題とは関係ない。規範的な意味合いではなく実証的な意味合いだ。そうなンだ、ということだ。

早稲田大学の校歌の三番に

〽集り散じて 人は変れど、 仰ぐは同じき 理想の光

こんな歌詞があるが、 

〽集り散じて 人は変れど、 生きるは同じき 暮らしのすがた

正に『万古不易』。本質は変わらない。だからこそ、社会は科学の対象になりうるのだと改めて思った次第。 

であるからこそ、『王様やエリート達が間違うこともある』という認識と『世論が間違うこともある』という認識と、こんな認識もまた万古不易の問題を提供している。

真の知恵は常に少数意見の中に隠されている。

これが万古不易の真理であろう。多数派の意見は知恵とは関係ない。まして有識者会議の結論は気休めである。宝石のような真理はそう簡単に凡人には見つからないものだ。

2023年3月6日月曜日

覚え書き: 日米のホームメイド・インフレ率

資源価格高騰などで名目の輸入金額が増える時、上昇した輸入価格を国内の販売価格に全く転嫁できないときは、輸入金額が増えた分だけ国内需要が奪われ名目GDPは減少する。それでも実質の経済活動水準に変化がないとすれば実質GDPは同じである理屈だ。故に、輸入インフレに対して国内販売価格が何も変わらなければ名目GDP(分子)を実質GDP(分母)で割った《GDPデフレーター》は下がることになる。GDPは、ザックリと言えば、労働と資本に分配される要素所得、つまり国民所得と等価の関係にある。実質GDPが同じなら生産活動に投下されている生産要素の量も同じだ。他方、生産要素が得る所得は減る。生産要素とは労働と資本である。

従って、国内にある労働と資本の報酬率が下がっていることをGDPデフレーターの低下は伝えている。労働の報酬である賃金か、でなければ企業資本の収益率かが低下している事実を伝えているわけだ(逆は逆)。これも国内物価の変動を測る指標の中の一つなのである。


そのGDPデフレーター上昇率の推移だが、アメリカは下図のようになっている。


最終期は昨年第4四半期である。これを見ると、2020年第2四半期を底にして最近時点までアメリカ国内の生産要素の報酬率が急上昇してきたことが明らかだ。つまりアメリカ国内の賃金が上昇しているわけで、これは輸入インフレではなく、アメリカ国内の《ホームメイド・インフレ》である。その背景に消費者物価の上昇があるのは勿論で、その最初の原因が輸入物価の上昇であったことも分かっているが、それを補うための賃金が上昇しつつあるわけだ。

このような経済状況をいま日本政府は実現したいと一生懸命なのだ。では、日本のGDPデフレ―ターはどうなっているかと言えば、



直近は昨年第4四半期である。アメリカとは異なり、コロナ禍の中で賃金も企業利益もほとんど上昇していない。つまり日本国内で《ホームメイド・インフレ》が発生している兆しはない。それでも昨年末にかけて日本のGDPデフレーターは対前年で上昇しているようだ。但し、これがトレンドの変化を示唆する動きであるとは確言できない。

【備考】2015年(と2019年)前後に上昇率のスパイクが認められるのは消費税率引き上げによるものだ。大雑把な説明は以下のとおり: GDPは市場価格表示で集計されるので、厳密に言えば要素費用表示の国民所得(=労働所得+資本所得)とは合致しない。間接税(及び控除項目としての経常補助金)と固定資本減耗がGDPに加わる分だけの違いがある。そのため消費税率引き上げによる国内物価上昇は「ホームメイド・インフレ」として把握されることになる。


これをみても、確かに、日米のマクロ経済の体質には大きな差異がある。『賃金は上げないものだ』、『賃金は上がらないものだ』、『賃金ベア・アップを要求するのは控えよう』、マア、そんなデフレ体質が染みついてしまっている。それを払しょくしたいのが現在の政策課題なのだが、これは政府が実行するというより、日本人全体の意識が背景にある以上、政府の努力だけではどうにもならない面がある ― 韓国の文政権が断行したように、最低賃金を法的に上げれば必ず賃金は上がる。乱暴なようだが、その後、判明しているように確かにこの方法には効果がある。しかし、経済界が動揺するなどの副作用も大きく政権交代への導火線になる可能性がある。実行は難しいだろう。

それにしても失われた20年間の間ずっと続いた日本の「ホームメイド・デフレ」は酷いネエ・・・改めてグラフにすると、その惨憺ぶりに慄然とする。


2023年3月3日金曜日

ホンノ一言: 外相のG20欠席の件に関して

インドで開催されたG20に日本の林外相が国会審議のため欠席した件で非難、批判が集中している。

どうやら旧態依然とした国会の慣行が非難の対象になっている。国益を犠牲にしてでも首相以下全閣僚が予算委員会に出席する必要性があるのか。答弁時間がたとえ1分程度であっても、重要な国際会議に(日本だけが)欠席する必要があるのか。こんな批判だ。そして批判は主に野党に向かっているようである。しかし、実は、与党の自民党が決めれば、たとえ野党が反対しようが、どうにでもなるのは自明である。だから、要するに、今回の件は自民党が外相の国会優先、G20欠席を決めたということである。

これを<旧態依然>だとメディアはこぞって非難しているわけだ。

*

小生はどうにもへそ曲がりで、こと政治に関することとメディア報道に関することについては、物事を真っすぐに見るのが嫌なたちである ― 政治やマスコミは自らの利益のために国民を騙したがるものだと考えていることにもなるが。


そもそも「重要な国際会議」に日本だけが代理出席ですませれば日本は損をするだろうことは分かり切っている。その分かり切っていることを日本の行政府だけは分からなかったのか?日本政府はそれほどの馬鹿なのか?

それは違う。「日本政府はそれほどの馬鹿ではない」という大前提がある。

この大前提が真であるか偽であるかは別の論点としてあるが、まずはこの大前提のとおりだと思って考えるしかないであろう — この前提は間違いだと考える立場もあるが、そもそも一国の政府の賢愚は「あの人が大臣だから」とか、「この人が次官だから」などという次元の問題ではない。とすると「日本政府は国益の何たるかもわからない馬鹿だ」と本気で考えるなら、仕方がない。革命なり、反乱なり、海外移住を真剣に計画するべきではないだろうか ― 諦めて傍観するのも一つの解ではあるが。そう思われるのだ、な。

故に、この大前提と矛盾しない見方は何だろうという問いかけは、誰かが既に発していてもよいのではないかと考える。


いまのところ、二つの可能性を思いつくのみだ。

第1は、故意の「ズル休み」だ。外相自身が出席する場合、予想される展開に危険を察して、意図的にサボったというのが一つ。

第2は、野党に責任をなすりつけ、これを機に閣僚の日常執務を国会出席よりは優先させる流れを内閣(と政府全体)が醸し出そうとしている可能性がある。

第1の観方からは、日本の対ロ外交、対中外交を対米外交、対G7外交、対「西側」外交とバランス付けようとしている意味で、日本の外交メッセージになっているという見方が出てくる。まさか今後数年以内に日本がG7の中で孤立し、G7から「脱退」する可能性は低いと思うが、《G7》という集団に所属することから得られる国益も時代の中で変わっていくものだろう・・・というのは当たり前の前提として意識するべきではないか。ドイツが英米主導のNATOに所属することによるドイツの国益はドイツ人自身が考えるべきだというのと相似の問いかけだ。

第2の観方は、岸田内閣による「奇襲」かもしれない。「政治主導」の建前を実現するにはそれは必要なことだ、と。そんな主旨かもしれない。これ自体は当たり前すぎる話しで、世界広しと言えども、日本ほど政府の閣僚が国会審議に物理的かつ形式的に拘束される国はない。その損失は国民が引き受けている以上、とっくに改善されて然るべきだった。議員による立法作業が盛んに行われているならまだしも、現状の国会で行政府の責任者を長時間拘束する道理はないだろう。


国会議員は英語で言う"Lawmaker"である。つまり法の作成者である。

国会議員達が法律を立法する職務に高い能力を発揮して誠実に取り組む時にのみ、行政府(=内閣)は立法府(=国会)を信頼し、国会の要望に応じて審議に協力し、現場に則した立法に協力する意志を示すものだ。

しかし、ここ日本では国会は現状のような体たらくである。かつ、一度施行された法律は現実の問題に応じて臨機応変に修正されず、杓子定規に適用しては社会的な混乱を招いたりすることも目立つ。日本の国情をみれば、コンプライアンス、つまり<ルール尊重>、<遵法精神>という言葉は、むしろ現場ゝの自由なイノベーションを阻害している面がある。これでは、「コンプライアンス」という外来の言葉に内容がこもっていないと言うべきだ。

前の投稿と同じ主旨になるが、コンプライアンスという<外来文化>もその適用には気を付けた方がいい。日本というお国柄を考えながら、それが発展の足を引っ張らないように注意することが勘所だ。

本筋から話がずれてしまったが、そう思いますがネエ・・・ということで。

【加筆】2023-03-04

2023年3月2日木曜日

断想: 西洋的な二項対立の思考パターンを一度捨ててみてはどうか?

東洋にも二項対立的な思考パターンはある。たとえば

是非之心、智之端也

という孟子の名句にあるように、是非を知るのは知の初めである。世界には正しい事と間違った事があると考えるのは、現代世界で今もやっていることだ。

その他にも、理非曲直とか真偽とか善悪とか、人間世界の全体を単純に2分類するとらえ方は数学にも似ていて誰にも分かりやすい長所がある。そして、この単純2分類が認識論にまで影響すると、<物質と精神>などになり、物質は生成消滅するが精神、つまり魂は永遠不滅であるとか、マア、そんな哲学が生まれたりする。

前にも投稿したが、小生も若い頃から西洋的思考に慣らされてきた。デカルトよろしく、精神と物質、カントよろしく自然法則と倫理法則などと考えていた。しかし、今では前の投稿にも書いたが、

よく物質と精神の二つに分ける議論をするが、同じ程度に意味のある問題は生命と非生命との区分だと思う。その生命だが、明らかに非生命の物質から生まれたものであることは自明である。はるか昔には、生命の根源には「生気」があると考える「生気論」が主流を占めていたが、現在は生命現象も特定の化学反応サイクルに帰着できる化学現象であると理解されている。大雑把に言えば、生命も非生命と同じ<物性物理学>の研究対象であると言っても言い過ぎではなくなってきた。

精神も生命ある生物に宿ると考えれば、精神もまた物質の中に存在する理屈だ。生命活動を生む性質が、モノの世界に最初から潜在しているとすれば、実際に生まれ出た生命に宿る精神活動もまた最初からモノの中に可能性として潜在していたことになる。とすれば、正に<両部不二>、金剛界と胎蔵界は所詮は一つと喝破した空海に通じる。というか、物質と精神を分けて考えてきた哲学は大前提からして的が外れていたことになるではないか、と。そう考えてきたのだ、な。文字通りの<唯物論>になるのじゃあないかというのは、こんな意味合いでである。

前の投稿は、唯物論のようでもあるし、逆に考えると唯心論のようでもある、と。要するに、西洋的な二項対立思考では見えなくなる面がある。そういうことだ。

こう考えると、日本人は、明治維新以降、ずいぶん西洋文化にかぶれてしまった。大体「唯物論」とか「唯心論」、「唯識論」などという考え方自体が、西洋的であって、ほとんど全ては明治以降の学問の立場から得られてきた知識である。

我々の思考パターンから、西洋の借り物を一切消去して、元々の日本人の自然認識、社会認識、人間認識に立ち戻って考えると、どんなとらえ方になるのか?

これまた有効な問題提起じゃなかろうかと考えると、正に夏目漱石が晩年に至って辿り着いた心境であるし、と同時に、江戸時代の国学者・本居宣長は《 漢意 ( からごころ ) 批判》を生涯のテーマにしたが、要するにこれは《外来文化批判》、《日本文化再評価》の立場であり、外国の考え方によるのではなく日本人のとらえ方でもう一度日本人が生み出した文物を見直そう、と。その方が自分自身を正しく知ることが出来る。そういう立場から学問的成果を出そうと努力したわけだ。これが「国学」であった ― 島崎藤村の『夜明け前』を読むと、プラス面もあるし、マイナス面もあったと思うわけだが。

最近になって<宗教>が話題になることが多いが、西洋的な自然科学的思考に頭から足まで染まってしか世界を見れなくなると、宗教とか、信仰という人間行動を的確に理解できないはずだ。

中国の儒学には《温故知新》という名句がある。『論語』が原典だ。高校の漢文の初歩に登場する。中国伝来の外来文化ではあるが、『古きをたずねて新しきを知る』、小生はこの言葉が大変好きである。継承されてきた文化は、それが誕生した当時の人間のあり方、社会の在り方をリアルに共有しない限り、分からないものである。それを単純に「古い」などと結論付けている間は、人間社会が前に向いて進んでいくはずがない。それがロジックだと思う。《古い vs 新しい》という単純2分類で考えている人は自宅のリフォームすら上手に出来ないだろう。