インドで開催されたG20に日本の林外相が国会審議のため欠席した件で非難、批判が集中している。
どうやら旧態依然とした国会の慣行が非難の対象になっている。国益を犠牲にしてでも首相以下全閣僚が予算委員会に出席する必要性があるのか。答弁時間がたとえ1分程度であっても、重要な国際会議に(日本だけが)欠席する必要があるのか。こんな批判だ。そして批判は主に野党に向かっているようである。しかし、実は、与党の自民党が決めれば、たとえ野党が反対しようが、どうにでもなるのは自明である。だから、要するに、今回の件は自民党が外相の国会優先、G20欠席を決めたということである。
これを<旧態依然>だとメディアはこぞって非難しているわけだ。
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小生はどうにもへそ曲がりで、こと政治に関することとメディア報道に関することについては、物事を真っすぐに見るのが嫌なたちである ― 政治やマスコミは自らの利益のために国民を騙したがるものだと考えていることにもなるが。
そもそも「重要な国際会議」に日本だけが代理出席ですませれば日本は損をするだろうことは分かり切っている。その分かり切っていることを日本の行政府だけは分からなかったのか?日本政府はそれほどの馬鹿なのか?
それは違う。「日本政府はそれほどの馬鹿ではない」という大前提がある。
この大前提が真であるか偽であるかは別の論点としてあるが、まずはこの大前提のとおりだと思って考えるしかないであろう — この前提は間違いだと考える立場もあるが、そもそも一国の政府の賢愚は「あの人が大臣だから」とか、「この人が次官だから」などという次元の問題ではない。とすると「日本政府は国益の何たるかもわからない馬鹿だ」と本気で考えるなら、仕方がない。革命なり、反乱なり、海外移住を真剣に計画するべきではないだろうか ― 諦めて傍観するのも一つの解ではあるが。そう思われるのだ、な。
故に、この大前提と矛盾しない見方は何だろうという問いかけは、誰かが既に発していてもよいのではないかと考える。
いまのところ、二つの可能性を思いつくのみだ。
第1は、故意の「ズル休み」だ。外相自身が出席する場合、予想される展開に危険を察して、意図的にサボったというのが一つ。
第2は、野党に責任をなすりつけ、これを機に閣僚の日常執務を国会出席よりは優先させる流れを内閣(と政府全体)が醸し出そうとしている可能性がある。
第1の観方からは、日本の対ロ外交、対中外交を対米外交、対G7外交、対「西側」外交とバランス付けようとしている意味で、日本の外交メッセージになっているという見方が出てくる。まさか今後数年以内に日本がG7の中で孤立し、G7から「脱退」する可能性は低いと思うが、《G7》という集団に所属することから得られる国益も時代の中で変わっていくものだろう・・・というのは当たり前の前提として意識するべきではないか。ドイツが英米主導のNATOに所属することによるドイツの国益はドイツ人自身が考えるべきだというのと相似の問いかけだ。
第2の観方は、岸田内閣による「奇襲」かもしれない。「政治主導」の建前を実現するにはそれは必要なことだ、と。そんな主旨かもしれない。これ自体は当たり前すぎる話しで、世界広しと言えども、日本ほど政府の閣僚が国会審議に物理的かつ形式的に拘束される国はない。その損失は国民が引き受けている以上、とっくに改善されて然るべきだった。議員による立法作業が盛んに行われているならまだしも、現状の国会で行政府の責任者を長時間拘束する道理はないだろう。
国会議員は英語で言う"Lawmaker"である。つまり法の作成者である。
国会議員達が法律を立法する職務に高い能力を発揮して誠実に取り組む時にのみ、行政府(=内閣)は立法府(=国会)を信頼し、国会の要望に応じて審議に協力し、現場に則した立法に協力する意志を示すものだ。
しかし、ここ日本では国会は現状のような体たらくである。かつ、一度施行された法律は現実の問題に応じて臨機応変に修正されず、杓子定規に適用しては社会的な混乱を招いたりすることも目立つ。日本の国情をみれば、コンプライアンス、つまり<ルール尊重>、<遵法精神>という言葉は、むしろ現場ゝの自由なイノベーションを阻害している面がある。これでは、「コンプライアンス」という外来の言葉に内容がこもっていないと言うべきだ。
前の投稿と同じ主旨になるが、コンプライアンスという<外来文化>もその適用には気を付けた方がいい。日本というお国柄を考えながら、それが発展の足を引っ張らないように注意することが勘所だ。
本筋から話がずれてしまったが、そう思いますがネエ・・・ということで。
【加筆】2023-03-04
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