若い時分には抽象的議論を好まなかったが、齢をとってから哲学の面白さが分かると言うのは、年齢進行に伴う知的活動の変化パターンを考えると、どうやら自然であるそうだ。
数学は若者の学問、医学は経験とデータ蓄積がものを言う中高年の学問とは聞いていたが、考えてみると数学は何日(何か月?)も一点に集中する持続力と腕力的計算力がものを言う側面もある。それでなくとも老眼になると計算は億劫になる。その数学においても、晩年に心を病むまで抽象的思考に没入したカント―ル辺りは、抽象的思考が年齢とともに深化する一例であるのかもしれない。
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かなり前になるか、こんな投稿をしたことがある。
新実在論は、形而上学、構築主義と並列してマルクス・ガブリエルは述べているのだが、それによると、例えば
自然科学によって研究できるもの、メス・顕微鏡・脳スキャンによって解剖・分析・可視化できるものだけが存在するのだというような主張は、明らかに行き過ぎでしょう。もしそのようなものしか存在しないのだとすれば、ドイツ連邦共和国も、未来も、数も、わたしの見るさまざまな夢も、どれも存在しないことになってしまうからです。しかし、これらはどれも存在している以上・・・
出所:マルクス・ガブリエル『なぜ世界は存在しないのか』(講談社選書メチエ)
最近流行の新実在論に関してだった。
というか、ずっと昔に投稿したとおり、小生は自分が唯物論者だと思ってきた。実際に投稿もしている。ところが最近になってこんな観方もあると気が付いた。
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よく物質と精神の二つに分ける議論をするが、同じ程度に意味のある問題は生命と非生命との区分だと思う。その生命だが、明らかに非生命の物質から生まれたものであることは自明である。はるか昔には、生命の根源には「生気」があると考える「生気論」が主流を占めていたが、現在は生命現象も特定の化学反応サイクルに帰着できる化学現象であると理解されている。大雑把に言えば、生命も非生命と同じ<物性物理学>の研究対象であると言っても言い過ぎではなくなってきた。
精神も生命ある生物に宿ると考えれば、精神もまた物質の中に存在する理屈だ。生命活動を生む性質が、モノの世界に最初から潜在しているとすれば、実際に生まれ出た生命に宿る精神活動もまた最初からモノの中に可能性として潜在していたことになる。とすれば、正に<両部不二>、金剛界と胎蔵界は所詮は一つと喝破した空海に通じる。というか、物質と精神を分けて考えてきた哲学は大前提からして的が外れていたことになるではないか、と。そう考えてきたのだ、な。文字通りの<唯物論>になるのじゃあないかというのは、こんな意味合いでである。
ただ、逆の考え方もありうることに最近になって気が付いた。確かに空海が唯物論者といえば可笑しいことこの上ない。
上で述べた事は要するにこういうことだ。精神活動も含め全ての生命現象はいずれ誕生するだろうと最初からモノの世界に可能性として潜在していた、という意味では精神と物質と言っても両方とも物理化学的現象の部分的現れである。モノの世界から単細胞生物が自然に発生し、それが多細胞生物に自然に進化し、更に多種の動植物が分岐し複雑化してきた。そして現時点においては、その最終段階として知的生物としての人類がある。そうなるべくしてそうなった性質が、最初から物質の属性として存在していたということだ。が、これを逆向きに考えると、そんな進化プロセスが実現する可能性が最初からあったことになる。つまり、人類という知的精神を備えた生物がこの世界に登場する可能性がそもそも最初の時点においてモノの世界にはモノの特性として潜在していたという理屈になる。
こう考えると、人間がもっている知性の働き、たとえば<論理>という推論の道具、<美>や<善>といった価値概念も、様々の抽象概念も、それが人間知性によって抱かれる前から可能性として存在していたという理屈になるのではないか。
となると、長い進化の歴史も、モノの属性が順々に現れてきたと理解するよりは、最初から存在していた抽象的概念が可能性から現実へと具象化される過程そのものであった、と。そう理解してもよいというロジックになる。そもそも不可能な事は不可能であり、可能なものはいつかは現実の事になる。こうなると、正にヘーゲルである。
というか、《神》という概念ですら、その概念に対応する何かが最初から《モノ自体》の中に潜在しており、いま地球上に現れた人類がそんな概念をもつに至っているのは、知るべくして知った、と。決して根拠のないことではない、とすら言えそうだ。
後ろ向きに究極的原因にまで遡ろうと考えてモノが有する物性物理的特性としてこの世界を見るのも一つの観方だ。そうではなく無限の未来に目を向けて最初から存在していた抽象的イデア(≒概念)が、モノの世界に反映され、この世に具象化されてきたのが、世界誕生以来の歴史全体。これもまた一つの世界観になる。前者は因果論的世界観であるし、後者は目的論的世界観になるか。
どちらが正しいかは識別のしようがない。そもそもが反証不可能な形而上学である。
マ、確かに若い時分はこんな言葉遊びをするよりは、手計算を丸一日も続ける方が何か面白い結果が得られそうな気がしたものだ。しかし、大事な結論は、自分個人にとっての大事か、世界にとっての大事か、程度の差があるにせよ、手を動かす腕力仕事よりは、抽象的な思考から出てくるものなのかもしれない。現代の数学から<集合>や<空間>といった抽象概念を取り去れば、何も残らないと言っても、言い過ぎではないだろう。
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