何事によらず「世論」が大事だというお題目(?)は戦後日本体制のもとではオールマイティである。戦前日本では『天皇陛下におかせられては……』と声をはなてば軍人は座っていても直ちに立って直立不動の姿勢をとっていたのは、映画でよく撮られていたので、知っている人は多い。誇張された演出であったに違いないが、多分、概ね事実だったのだろう。もし江戸時代に遡るなら、例の『この紋所が目に入らぬか!』という世界がそこにはあった。
日本という国にはこんな(ほぼ)全ての人を黙らせる必殺の言葉が秩序維持の観点からどうしても必要なのだと思っているのだ。それが今では『世論は…』という文句になっている。しかし『世論』なるもの、「天皇陛下」とも「紋所」とも異なり、具体的な形になっていないのが最大の弱みだ。
とすれば、今の現代日本社会で『世論』というのは具体的にどこにあるのか?どこに視える化されているのか?
まさか「世論調査」がそうだと考えるお目出たい人は少なかろう。メディア各社ごとに数字が余りに違っていて信用できないのは誰もが知っている。そして、時を追って甚だしく数字が変化する。まるで陽炎がたつ「逃げ水」のようである。
こんなことを考えてみたのだが、例えば「ヤフコメ」などのネット・コメントがそうなのかもしれないネエと思った。
TVのワイドショーがネット・コメントを引用したりすることが増えた。世論はもはや新聞、週刊誌などの印刷物、テレビ、ラジオなどの電波放送ではなく、ネットに書き込まれたコメントの総体ではないか、と。
そう思うと、小生が一介の小役人であった頃、毎日の通勤電車の車内ではほとんど全員が新聞や週刊誌を読んでいた情景が思い起こされた。手持無沙汰そうな客は社内の吊り広告で次号『週刊〇〇』の見出しを眺めていた。乗客が読んでいた新聞の過半数はスポーツ新聞である。帰りの車内なら『夕刊フジ』か『日刊ゲンダイ』。週刊誌なら『週刊文春』、『週刊新潮』、『週刊ポスト』、要するに<大衆紙>である。後は少数派だった。比較的良質とされた『週刊朝日』や『サンデー毎日』は目に入らない。理髪店で待っている時に手に取ったくらいだ。廃刊、いや休刊になるはずだ。
そんなずっと以前の電車の中で読まれていた印刷物と今のネットコメントを比べてみると、実に似ている。
スポーツ新聞社の記事がネットには結構多い。以前なら週刊誌の編集部に持ち込むようなレベルの取材記事がネットには溢れている。誇張や憶測、匂わせなど、書きっぷりも似ている。反エリート、親アイドルの傾向も同じだ。想定している読者層が似ているのだ。今日も通勤電車の車内ではスマホでそんなネット記事を読んでいる人が多いのかもしれない。
前の<大衆紙>が今の<ネット>に変じた。技術進歩がそれを可能にした。そんな所なのだ。マスコミのマスとは「大衆」のことだ。世論と大衆とは現代社会で切り離すことはできない。
それとも「世論」は必ずしも「大衆」の願いではないわけで?
スポーツ新聞や週刊誌に載せる記事を書いていた人たちは、今はネットにコメントを書いたり、投稿したりしている人になった。そうした仕事をしたくて、それで生計を立てて人生を歩む人がいる。そうした仕事が面白いと感じる人たちは時代を問わず一定割合だけ現れるものであるし、と同時にそうした人たちは世間から必要とされるのだ、と。善い悪いの問題とは関係ない。規範的な意味合いではなく実証的な意味合いだ。そうなンだ、ということだ。
早稲田大学の校歌の三番に
〽集り散じて 人は変れど、 仰ぐは同じき 理想の光
こんな歌詞があるが、
〽集り散じて 人は変れど、 生きるは同じき 暮らしのすがた
正に『万古不易』。本質は変わらない。だからこそ、社会は科学の対象になりうるのだと改めて思った次第。
であるからこそ、『王様やエリート達が間違うこともある』という認識と『世論が間違うこともある』という認識と、こんな認識もまた万古不易の問題を提供している。
真の知恵は常に少数意見の中に隠されている。
これが万古不易の真理であろう。多数派の意見は知恵とは関係ない。まして有識者会議の結論は気休めである。宝石のような真理はそう簡単に凡人には見つからないものだ。
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