2023年11月11日土曜日

断想: 日本人が「個人主義」を(真に?)理解できたかもしれない時代はあった?

最近の投稿で頻繁に登場する語句の中で「個人主義」、「民主主義」、「信仰」、「モノ」は中でも頻出単語であるだろう。

個人主義と民主主義との関連性は意外に大きなテーマだが、個人主義がヨーロッパの香りのする理念であることを述べるのは割と簡単だ。

例えば、リルケという詩人、というより芸術家がいるが、彼の名句の中に

必要なのは、孤独、大きな内的な孤独というものだけなのです。

というのがある。

リルケは無神論者でも無宗教でもなかったから、「孤独」と言っても「宇宙における真正の孤独」ではなく、神と自己自身が一対一で対話できる状況を指していると考える方が正しい(はずだ)。

ただ、上と同じ言葉を例えば日本国内のワイドショーに出てくる某コメンテーターが口にしたと考えてみたまえ。世間は「孤独」を肯定する発言に非難轟々、そのコメンテーターは大炎上するのが必至である。

しかし、個人主義とは最初からそういうものであり、社会の前にまず先に「自己自身」が存在する。つまり孤独な自己から自分の人生が始まるという認識を受け入れなければ、理屈として、個人主義にはならない。

だからこそ、個人主義を基調とする社会では「同調圧力」は否定するべき悪習であって、決して容認するべきではないという姿勢をとりうる。ロジックはこうなる(はずだ)。

★

フランスが政教分離を徹底するのは、無神論や無宗教を基本とするからではなく、むしろその正反対で、過去においてカトリック教会が余りにも強大であり、現在も宗教勢力が決して軽視できない存在であること、加えてイスラム教徒移民が無視できない数となり、宗教的対立が社会的不安定につながる可能性を懸念しているからである。即ち、宗教や信仰という面に対して、フランス政治は非常に"sensitive"であって、この種の話題に敏感な感受性をもっている。ここを見なければなるまい。

そこまで警戒しても、時にイスラム狂信者によるテロ事件が何度も発生しているのがフランスの国情だ。発生はしても、それは何故かという理由を体感として理解できる素地がフランス社会には備わっている、というか継承できている。表現の自由と信仰の尊厳の両立について心の底から悩めるだけの感性を継承できている。というか、そういう感性を持たざるを得ない。そう観えるのだ、な。

ここが同じ政教分離でも現代日本社会の情況とはかなり違っている(ように観える)。

日本社会は、上にも触れたように「孤独」という言葉を機械的に解釈することしかできず、内実を含めた意味ある言葉としてもはや聞くことができない状態に、つまり宗教的なことに関する感覚や直観が非常に「退化」した社会になってしまった。そう観ているのだ、な。

★

戦後日本は政教分離に非常に神経質になっているが、フランスと異なるのは戦前期・日本の国家神道を崇拝する極右勢力を警戒するということであって、極左勢力を警戒する狙いはない。しかしながら、日本人の精神生活に実際に神道信仰が戦前期に根付いていたかといえばそんな事実はなかった、と。亡くなった父はそう断言していた。要するに、戦前期・日本に「信仰」と言えるような精神生活は社会全体を見渡せばホボなかったのではないかと、小生は想像している。それどころか、戦後早々の政治状況を考慮すると、自然を尊重する「信仰」とは正反対の人智万能の「科学的社会主義」を信じる傾向が強かったのではないか?そう思うくらいだ。

旧制高校生の間で昭和天皇は『天ちゃん』の呼び名で通っており、それはどうやら父の学年だけではなく、カミさんの父の学年でもそうであったようであり、ということは全国の若い者の間で「天皇崇拝」とか、「八百万の神々」などを信仰するという心理は、戦前期の日本人の間で微々たるものであった。そんなお寒い状況があったからこそ、日本政府は余計にシャカリキとなり様々な行事を国家として運営していたのである。

父の昔話を小生はそんなものかと聞いていたわけだ。

明治・大正・昭和と近代日本に生きた日本人の精神生活から、いつの間にか信仰とか宗教というものは、実のところ無視できるほどのマイナーな存在になってしまった — 残っていたとしても、江戸以前の宗教文化とは質的に全く異なるものになった。その穴を埋めたのはヨーロッパ起源の科学と哲学の二つだ。そして、科学、哲学の二つとも自然だけではなく、社会をも考察対象とするようになっていた。西洋とは異なり、日本においては、信仰は古い土着の思想、科学は外来の新しい思想だ。

外来の新しいものは土着の古いものよりは優れたものとして信頼されるのが日本のお国柄である。いくらライフスタイルや日常ツールで日本と西洋が同じ外観を示すとしても、精神構造は違っている。ずいぶん以前から、そんな風に思うようになった。

★

かつて、といっても500年も昔だが、浄土真宗門徒による一向一揆が盛んなりし時代であれば、

必要なのは、孤独、大きな内的な孤独というものだけなのです。

という上の言葉の意味を正しく理解できていた可能性がある ― 他力本願の浄土信仰と、来世の幸福を重んじるキリスト教福音主義とは微妙に違うとは感じているが。

ということは、数百年も昔の日本人の方がヨーロッパ人のいう「個人主義」という観念を、より近く自分自身の精神生活に則して、正確に共感できる感性を身につけていた。

昨今、どうもそう感じられるのだ、な。

科学的社会主義への共感と、個人主義とは、実は水と油である

小生はそう考えている。社会的同調圧力を制度化すれば、それはそのまま社会主義になって当たり前であるから。日本人のマルクス好きは、まだ戦前期と似ているのではないだろうか。

今日はとりとめない断想になってしまった。これも前稿の補足ということで。


2023年11月9日木曜日

断想:時の流れを超越するのはモノや理念ではなく人間心理である

1968年と言えば、55年前だから、《今は昔》といえる程の以前かもしれない。その年に刊行された『源氏物語の世界』(新潮選書、Kindle版)を読んだのだが(不勉強もあって初読である)、55年も前の世代はもうこんな風に考えていたのか、という感想だ。その感性は現在の現役世代は元より、小生の世代より余程進んでいる。

そんな風に感じました。中村真一郎である。若い頃は入試問題にも頻出していた作家である ― そういえば、東野圭吾も村上春樹も流石に齢を感じる昨今、真剣に文学をやっている作家は日本に残っているのだろうか?自然科学は無論だが、経済学や政治学、国際関係論だけじゃあ、文明は栄えませんゼ……

例えば

この『蜻蛉日記』は、したがって一人の女性の苦悩の歴史を書き綴ったものである。――ただし、「日記」といっても今日のように、毎日、書き続けた日録ではなく、その結婚生活の終わりに近付いた頃に、思い出として書かれたもの、つまりメモワール、回想録と言うべきである。

……この日記は、「反小説」のレアリスムの傑作だということになる。……風俗習慣の相違にもかかわらず、人間心理は不思議に普遍的なものである。人はその事実に改めて感動しないわけにはいかないだろう。

こんな下りを読むと、日本文学史をよく知らない人であれば、「ハテ、蜻蛉日記なんていうベストセラーが最近出たかなあ?」と思うに違いない。実際、『蜻蛉日記』というタイトルを『▲▲』と伏字にすれば、上のような評価は明治時代の一人の無名の女性が書いた日記を評価する文章としても通用するはずだ。実は、この『蜻蛉日記』は紫式部よりも更に一世代も前に生きた藤原道綱の母によって千年以上も前に書かれた日記である。

55年も前の世代の人の感受性に<先進性>を感じとれると同時に、千年以上前の平安時代に生きた女流作家の現代性にも驚かされる人がいるかもしれない。


更に、読み進めていくと、

王朝末期はデカダンスの時代である。そして明治以来の近代日本はデカダンスの時代を持つだけの、不健全な余裕がなかったから、王朝末期の文明とその所産とが、積極的に評価されたことは一度もない。…明治・大正・昭和の三代は、生活倫理のうえでかなりきびしい時代だった。…近代日本の道徳の理想が、いかに偏狭なまでに厳格であったかは、「恋愛」というものに対する世論の反応を見るだけで充分である。恋愛は最も個人的な行為であり、個人の本能の流露であり、個人の幸福を人生最高の価値とするものである。

 「常々思うのだが」と言うとまるでドラマのようだが、多くの若い人が成人式を迎える時、あるいは社会人として巣立つ春、ワイドショーの取材記者からマイクを向けられた時に、ほぼ例外なく「人の役に立つ人間になりたいと思います」とか、「多くの人を喜ばせてあげられる人になりたいです」とか、要するに非常に<利他主義的抱負>を口にする人がほとんであることに、小生はホントに呆れ果てているのだ。

確かに、令和という現代は、明治・大正・昭和という近代日本の精神を直系として継承した時代である。

そう感じます。

確かに、人の役に立ちたいという利他的価値観は大切だ。しかし、利他的精神は自己犠牲を尊い行動であると評価する価値観の上に立っている。

普通に考えれば「家族を大切にして幸福を築いていきたいと思います」と、こんな風に自然な願望をマイクを通してTV画面で語る若い人が半数以上はいるはずだが、何故いないのだろう?

こんな疑問が萌してからもう何年たつだろう?


日本人はいまだに個人主義を消化しきっていない。そもそも個人主義という理念そのものがキリスト教を精神的土台とするヨーロッパで育ってきた価値観である。アジアの島国・日本に移植しようとしても、そうそう同じに育つはずはない。どうしてもそう思われるのだ、な。故に、民主主義もまたその精神の上で未消化のままであるのだ。それを裏付けるものではないか。そう考えることにしている。

人の役に立ちたい、仕える人 ― 顧客志向なら客を主とする姿勢になる ― に喜んでほしいという願望が、現代日本社会で尊重される価値観として支持され、評価され、社会で共有されているという正にその状況の下で、多くの<人権侵害>が隠れて進行してきているのである。多分、そういうメカニズムがある。

利他主義が堕落すれば常に上目をつかう「奴隷の態度」になってしまう。

フランスの故ミッテラン大統領に隠し子がいる事実が発覚したとき、女性記者からそれを指摘された元大統領は"Et alors?"(それが何か?)と答えたそうだ。

個人の人権を尊重するフランスのお国柄が伝わって来るではないか。平安時代の上流貴族社会もまた自由恋愛至上主義が骨の髄から肯定されていた時代だった。そのことを同じ時代に生きた作家による古典から知ることが出来る。現代日本が継承しているのは、平安時代の後に支配者となった武家の倫理である。「殿」の観念、「家」の観念、上意下達と男尊女卑の厳格な道徳観である。死をもって償う贖罪観が現代日本の死刑制度維持に反映していないと言えるのだろうか。平安時代を通して日本で死刑は執行されていない。

武家とは侍、サムライ、つまりは「さぶらう人」。誰かに仕えるという精神を持するのが武士である。現代日本人が継承するべき精神は、武士ではなく、武士以前の日本人が持っていた自由な精神であるのかもしれない。


ただ、そのフランスもジャニーズの創業者社長の男色行為は児童虐待、即ち「犯罪」であると非難しているそうだから、人権と犯罪概念のバランスも時代によって刻々と変化するものと考えるべきであって、それこそこの世は無常、常なきモノと言うべきなのだろう。

人の道徳や価値観は時代によって変わる。しかし、人間の感情や心理は変わらない。それだけは真理だと言えそうだ。

【加筆修正】2023-11-10

2023年11月3日金曜日

ホンノ一言: 「反ユダヤ思想」という力にも作用・反作用の関係が当てはまるのではないか

 「イスラエル=ハマス戦争」という呼称は、国家対国家の戦闘行為を指す「戦争」とは(どこかが)違っているようで、どこか違和感を感じるが、ともかく現実に戦争的現象、というか戦時特有の残虐行為が進められていることは確かだ。

「ハマス」は殺人者集団、というかテロリズムを信奉するガザ市内の政治結社である。その政治結社が自国民に対して大規模な武装攻撃をした。となると、イスラエル国内の「内乱」にも見えてしまうが、しかし、ガザ市はパレスチナ人が暮らす「自治区」だ。つまりはイ政府にとっては「外国」に近い存在だ。それでイ政府は今回の軍事行動を「戦争」であると宣言した。

しかし、戦争なら敵軍を支援する第三国があってもイスラエルの内政に干渉しているとは言えまい。中国も新疆ウイグル自治区を抱えているが、そこで「暴動」と「殺人」が発生すれば、中国軍はウズベク人を敵として戦争を宣言し、戦時にのみ許される行動がとれるのか?いや、いや、北京政府は『これは戦争ではない。中国の内政である』と主張するはずだ。マ、細かな理屈は専門外のことでよく分からない。

いずれにせよ、戦争には戦争目的がある。イスラエル政府の戦争目的とは何か?敵の降伏か?領土(=ガザ市?)の併合か?敵の軍事力の消滅か?イ政府の戦争目的がいま一つ明らかでない印象がある。究極的目的は「戦闘行為の終了」、つまり「平和」であるのに決まっているはずだが……


それはともかく、


この「戦争」が始まって以来、世界中で《反ユダヤ主義的事件》が激増しているそうだ。例えばWall Street Journalでも

 欧州連合(EU)の専門機関、欧州基本権機関(FRA)の2019年の報告書によると、欧州在住ユダヤ人の89%が、過去5年間に自国で反ユダヤの傾向が強まったと回答している。それが原因で欧州を離れることを考えているとの回答は40%近くに達した。

 ユダヤ系市民権団体の名誉毀損防止連盟(ADL)によると、米国でも反ユダヤ事件は徐々に増えている。2013年は751件だったが、2022年には3697件に達したという。

Source: Wall Street Journal

Date: 2023 年 11 月 3 日 06:03 JST

Author: Bojan Pancevski, Matthew Dalton, David Luhnow and Karolina Jeznach

URL:  https://jp.wsj.com/articles/wave-of-antisemitism-has-european-jews-wondering-if-they-will-ever-be-safe-fe5a4463


小生は歴史が専門でもないし、仮に歴史専攻であっても欧州の反ユダヤ思想を軽々に議論できないこと位は知っている。

ただ、どんな自然現象も社会現象も力学的解釈ができるものだし、社会現象については心理学的見方も可能だと思うことが多い。自然についても、社会についても、ある力が作用する時は、反作用という力を考えなければ均衡というノーマルな状態を考えることができない。

思うのだが、「反ユダヤ思想」という思想が社会的な力なり、エネルギーとして根強くあり続けたのであれば、「汎ユダヤ思想」という反対の思想も逆向きの力として存在し、欧州社会で作用してきたのではないか。

これは古典力学の単なる類推だが、反ユダヤ思想と汎ユダヤ思想は同じ社会的現実の表と裏の関係にある。そう思うのだが、違うのか?

少なくとも「反ユダヤ思想」という一方向の思想が、それのみで独立した思想として非常に永い期間に渡って継承され続けるという情況は、理解しづらい。理屈として奇妙ではないか。マア、『分かってないんだよネエ』と言われれば、それまでだが……


いい例えではないが、高気圧があるから低気圧もありうる。台風という低気圧があるから暴風雨が発生するのは事実だが、低気圧をなくしたいなら高気圧をなくさなければならない。低気圧と高気圧は、共に存在するか、両者ともに消えるかのどちらかである。一方だけが存在することはない。

両方とも消失させるには、相互混入と均質化のほかにとり得る道はない。


人間の言葉では「▲▲思想」とか「〇〇主義」とか色々な表現に分かれるが、実態として存在する「戦闘状態」という現実は一つであって、二つあるわけではない。なので、現実を説明する言葉は一つに収束するのが自然だ。それがそうならないのは、現実を超越した《独善》に当事者の精神が支配されているからだという理屈になり、その意味で関係者は《盲目》になっている。

18世紀の《啓蒙主義》は英語でいえば"enlightenment"で目を開くという意味だ。この思想が近代世界の発展をもたらしたのは明らかである。

あらゆる独断と独善を排するという姿勢を当事国以外の世界が保つことがいま最も重要なのだろう。

【加筆】2023-11-04

2023年11月1日水曜日

ホンノ一言: アマチュア議員による素人行政で日本経済は何とかなるのだろうか?

岸田首相が今国会の所信表明演説で《経済、経済、経済》という風に「経済」という単語を連呼したそうな。

確かに、日本人全般が政府の政策のどんな分野に最も高い関心を持っているかと言えば、ほとんどの時点で、「暮らし」や「経済」であるのは一貫した事実だ。外交でも、安全保障でもない、普通の日本人が最も強く願望している政策が「暮らし」に関係するものであるというのは、ほぼ自明のことであろう。

その自明のことに、ほとんどのマスメディアは、気が付いていないのかもしれない。視聴者は外交や軍事にもソリャア関心はあるでしょう。エンターテインメントも求めるものだ。しかし、メディア産業に期待しているのは「暮らし」の役に立つ情報だ。この辺でズレを感じるようになって久しい。メディア産業の企業行動が変容した背景としては、永年の<停滞慣れ>、<横ばい慣れ>、<現状維持を良しとする気風>、マア、この辺りを挙げてもよいかもしれない。要するに、経済面でニュースがなかったのだろう ― そんな事はなかったのだが。

そこへ、コロナ後のインフレがやってきた。

インフレ+賃金上昇+高金利

という普通の成長経済への移行が停滞・日本でも間近に迫って来た。


ところが、折しも現時点の日本は空前の人出不足である。成長しようにも労働力の限界が表面化するのは時間の問題である。これまで非正規労働力の源泉として日本経済を支えてきた女性もこれ以上は難しいほどにまで就業率は高まっている。賃金は、政府が旗を振る前から上がっていくであろう。


この人出不足に対応するためにも自動化、AI化など資本設備の高度化が叫ばれている。今は、そんな筋道で議論されているようで、マスコミもここまでは理解してそんな話を何度もしている。


しかし、現時点の日本経済で足らないのは人手、つまり労働資源だけではない。



URL:https://www.ene100.jp/zumen/1-2-7

上図は日本の電力使用実績の推移である。

よく「失われた30年」と言われるが、失われたはずの30年の間も東日本大震災までは日本の電力使用は拡大していた。停滞基調が明らかになるのは、図から明らかなように、東日本大震災の《福一原発事故》の後である。福一事故のあと、日本の電力使用は一貫して横ばい、ないし弱含みである。

福一原発事故のあと、ずっと電力使用が横ばいを続けているのは、需要が伸びていないためというよりは、発電能力が制約されているからであるのは精緻なデータ分析で立証するまでもないであろう。

失われた30年を問題とするのはもう古い。「震災後の停滞」と言うべきだ。

日本経済の成長にとっていま足らないのは<人手=労働力>だけではない。<電力≒エネルギー>も足らないのだ。 

これでは日本全体のアウトプットを増やしようがない。成長を持続させるのは無理だ。

こんな理屈になる。 


「震災後の停滞」と言うと、アベノミクスを否定するような見方になるが、本質的にはそう認識するのが正しいと小生は考えている。

こんな風に思います。



電気が足らない状況で設備投資をして、デジタル化、自動化を進め、人出不足を補えと云われても、そもそも利益は増えず、ビジネスにならないのではないか?

頻繁に「節電要請」をされるなんて、ご勘弁だ。

それよりエネルギー制約がなく電気料金が安価な外国に生産活動拠点を置く方がよいに決まっている。

いま日本が注目されているのは、ビジネス要因ではなく、地政学的な安全保障上の要因で注目されているだけであろう。めっきが剥がれるのは時間の問題だ。やるべきことをやらなければならないわけだ。

もう時間がないのである。そう思えませんか?


今日はエネルギーだけの話しだが、後もまた推して知るべし。研究、大学、初中等教育、リカレント教育などの人材育成から始まり、育児支援、家庭支援、生活支援、社会保障、税制、果ては農林水産業、食糧安全保障、etc. etc. etc. ...。つまるところ、頑張っているのは目立つ所だけで、総合経済ヴィジョンなる冊子を発行している機関も人も学会も寡聞にして知らない。

日本国内のどの政党も、政策立案マシンと呼ぶに値するような組織とは根本的に違う。票は集めても、政策形成に資する人的リソースが集まるメカニズムがない。お寒い限りなのだ、な。

日本の政党は、「ハマス」のような政治結社ではなく、要するに「全国的な選挙互助会」、いや「日本選挙互助会連盟」と言うべきかもしれない。明らかに政治結社ではない。

その意味では、日本の政党は組織として強くはなく「弱い組織」である。財閥系老舗のメガ企業がどこも"coherence"(=一貫性、凝集性)に欠く、クラゲのような多足生物に似ているのは、日本的組織としては共通しているのかもしれない。


いま経済運営のプロフェッショナルは政府内にはいないのだろう。総合的な経済運営プランを所管するセクションもかつては存在したが、いまはない(と言っても可であろう)。専門家が政府部内におらずとも、《市場経済》を基軸として、原則自由にビジネスが展開されるなら、それこそ「安価な経済マネジメント」を行っているわけで、《小さい政府》のメリットを享受できる。しかしながら、日本では多種多様な規制で成長産業への参入ができず、(供給責任という名目から)退出さえも自由にできないお国柄だ。であれば、賢い行政を行うためのプロフェッショナルに任せるべきだ。

規制過剰な行政モデルの下で「政治主導」などと言いだせば、
バスに乗ったら乗客主導で走らせるべきだ
そんなバカな結果になる。「民主主義」って、そんな意味じゃあありませんゼ。危なくって仕方がない。下手は上手に任せる方がよい。

素人より玄人の方が上手なことは確かにある ― もちろん専門家と言われても全く信用できないような分野もあるが。

所詮は、欧米直輸入の「民主主義」が自らの血肉として身についていない日本人の弱みということか。

そう思われてなりませぬ。


専門知識のない国会議員が行政府を方向付ける《素人行政》がこの先も続いていくのかと思うと、ちょっと暗澹としてくる気持ちでございます。

マンション管理のイロハも知らない素人役員の寄合で自主管理するなんて小生が暮らしているマンションだけにしてほしいものだ。

【加筆修正】2023-11-05、11-06


2023年10月29日日曜日

覚え書: 東京某日日誌

東京へ墓参を兼ねて三泊四日で往復してきた。宿泊は、ここ近年は上野界隈が気に入っている。というか、学生時代に東日暮里に下宿していたから、上野、根岸、日暮里・谷中といえば小生の縄張り内でもある。

ただ両親の墓は船橋にある。八千代、柏に近い所だ。アンデルセン公演へ曲がる十字路、県民の森入口からすぐの所にある。行けば休憩を含めて小半刻は過ごす。

天気が余りに好かったので、母が晩年に過ごしていた取手市の戸頭団地を再訪してみた。関東鉄道の駅から出ると、国道の下をくぐるようなトンネルがある。それをみると、記憶は大分曖昧になったが、確かにこの道を毎日急ぎ足で歩いて駅に入り、1時間半もかけて役所に登庁し、日がな一日雑用に追われて、深夜になってまた駅を出て、この道を歩いて家に向かっていたよナア…と。母は起きて待っていたことが多い。寝ていればよかったのに……。その頃の生活の感情だけが胸に蘇るような感覚だ。




その頃、食堂「ガシュラット」という店名だったかどうか、忘却してしまったが、本を買ったついでに、この場所にある店で何度かラーメンを食べたような記憶がある ― 本屋の方はなくなっているようだ。それにしても、ほとんど誰も歩いていない。シャッターを下ろしたままの店も多い。

店に入って餃子ライスを頼んだが、相客はすべて高齢の女性、お婆ちゃん達である。どの人も軽めの麺類をすすっている。小生が母と一緒にここで暮らしていた時分から住んでいるのだろうか?その当時幼かった子供たちは概ね独立して町を出ていき、この界隈の住人全体が高齢化しているのだろう。自分はこうした町の変化を共に経験しては来ず、今は通りすがりの旅行客に過ぎない。

帰りは取手駅には戻らず、守谷から「つくばエクスプレス」に乗って新御徒町駅で降りた。流山辺りでは子供連れの若いお母さんが何人も乗ってきて活気があった。

上野に戻り時間があったので寛永寺の清水観音堂で御朱印をもらった。


弁天堂にも寄ろうと思ったが観光客で黒山の人だかりだ。根本中堂まで歩いて行こうかとも思ったが、腹の調子が悪く、そのままホテルに帰った。




2023年10月23日月曜日

断想: 秋冷えて徒然に思うこと。科学が全てじゃないでしょうに。

明日から三泊四日で東京往復。両親の墓の植木の片側が近年の酷夏で枯死してしまい、そこに墓誌を建てることにした。工事は終わっているのでその確認だ。もう片側の植木はまだ健在ではある(そうだ)が、写真をみると何だか緑葉と茶葉を混ぜ合わせたような姿になっていて痛々しい。いずれ自然石などに置き換えなければならないかもしれない。

いま暮らしている北海道の港町は冬がもうそこまで来ている。少し前までは記録的な酷暑でみなウンザリしているのを思えばまさに、歳月怱々として過ぐ、だ。

岬回りの経路でショッピングモールまで歩いて行くと海の色に緑が混じり、雪を思わせる雲が低く垂れている。浜辺も海水浴客の賑わいはとおに無くなり、海の家の煙突からは何か調理でもしているのか一筋の煙がたち上るばかりである。

秋冷えて 炊ぐ煙や 苫のいえ

波音の つづれつづれに 雪もよい

雪虫の はかなく飛んで くも低し


今朝は早くに月参りで住職が来て読経をして帰った。来年、五重相伝が寺であるので参加を予約しておく。


最近、いつだったか何かのワイドショーで『位牌には何も宿ってないんです。木で作ったタダのモノなんですね』と、TV局お好みのテーマになった終活、墓じまいに関連した話しをしていた時だったのだろう、こんなことを言っているコメンテーターがいた。

当たり前のことを仰々しく、と。そんな感じでありンした。

『私には単に木で作ったモノにしか見えないですけど』とでも言えばイイものを、と。


まあ、小生も統計学でメシを食ってきたから、測定不能な対象は、元来は苦手であってもおかしくない。しかし、データでとらえ切れない事柄が多いこと位はわきまえているつもりだ。そもそも「企業理念」とか、「普遍的価値」など、見ることもできないし、数字にすることもできない。イメージだけの存在である。そんなことは誰でも知っているわけだ。


英国の数学者・哲学者であったバートランド・ラッセルが『西洋哲学史』という大著を書いている。ラッセルの書く本は大著が多いのだが、隅から隅まで読み通す人はそうそうはいないはずだ。小生も上の本を全部読み通したわけではないが、明瞭に記憶に残っている一節はある。

人間の知識には三つの階層があり、一つは科学によって得る知識。二つ目は科学ではないが理性の働きによって得る知識。三つめは理性とは別の直観によって得られる宗教的知識。この三つである。

こんな風に人間の知すべてを分類しているわけだ。

具体的に言い換えると、科学的知識は実験や観察など経験的事実に基づいて構成される。データによって反証不能な仮説は科学的仮説とは言えない。故に「神は存在する」という仮説(?)は科学の対象ではない。

科学とは違って、哲学は必ずしも経験的事実から出発はしない。その代わりに、自明である大前提、例えば「公理」から出発して論理的に様々な結論を得ることが多い。その意味では、数学は科学ではなく哲学の一種だ。倫理学も善悪などの価値を扱うが、プラトンの『ゴルギアス』にしろ、カントの『道徳形而上学原論』にせよ、議論はあくまでもロジカルである。経験を超越する概念をあつかう形而上学になると初学者には敷居が高くなるのも哲学の特徴だ。

哲学と宗教は似ているようで全く違う。哲学は《懐疑》から出発する。懐疑から議論を初めて結論を得るにはロジックが要る。そこが宗教とは異なる。宗教にとっての出発点は「神の存在」や「浄土という世界」を疑うことなく信じるという行為である。哲学者はすべてを疑うが、宗教者はある存在については疑わずに信じる。それが《信仰》という行為である。

深く信じることが宗教であるから、「**主義」もまた宗教と同じような色彩を帯びる。狂信的**主義者と狂信的▲▲教信徒は非常に類似した行動をするものだ。

魂という存在、その魂の行方、あるいは宇宙を支配している輪廻という思想に経験的根拠はない。それは事実であるとも、事実でないとも言えず反証不能である。もちろん疑うことによって哲学を展開することは可能である。デカルトやパスカルはそんな宗教哲学を展開したが、両者の議論はまったく異なる。それは観察事実に基づく科学ではないからだ。それでも宗教という知の世界があるのは精神的安定、つまり心の救済を感じる人が多いからに他ならない。

言い換えると、科学によって人間の精神的安定が得られるとは限らない。科学は、むしろ、私たちの生活水準向上に資する知識である。


さてト・・・位牌の話しに戻ろうか。

信仰に基づいて位牌というモノをみるとき、その人は観察可能なモノを目で確認しているだけではない。位牌の向こう側、つまり目に見える《此岸》という此の世界と目には見えないが超越的に存在しているはずの《彼岸》の世界と、その二つの世界の境界にある《扉》をみていると言うのが正しい理解であろう。

いま「扉」と比喩的表現を使ったが、広く使われている言葉は「偶像」である。信徒が偶像をみるとき木で出来た美術作品をみるのではなく、その奥にある存在を感得する……、まあ150キロのストレートをバットでどう飛ばすかなど、打てるようになるまで自分で試みるより他に方法はない。哲学と違い、宗教や信仰は本を読んで「分かった」というものではないわけだ。

即ち、同じ位牌を見る時も、信仰に基づいてみる人と、信仰なく科学的見地から見るヒトと、二人とも外見としては「視覚情報」を受けとるという同じ行為をしているのだが、その視覚情報をどのように処理し、悟性によって何を認識しているかにおいて、同じ行動をしているわけではない。

小生はもともと唯物論を支持するものだが、生命現象や生物の記憶、理性、理論などが現に存在していることを考えると、既に投稿したように唯物論と唯心論は同じコインの両面なのじゃないかと思うようになったわけで、であるからこそ単なる木で出来たモノに潜在している超越的存在をイメージするとしても、そんな認識には意味があると考えているわけだ。

長くなったが、

信仰という前提がなければ、位牌も仏像も、十字架も、鰯の頭も、豚にかけた真珠も、どれも物理的存在という点では共通している

と、一先ずの結論を出しておいてもよいだろう。


それにしても、人類の知的財産の全てが経験から得られる科学的知識ではないこと位は、中学や高校でも数学や音楽、美術などの学科があるわけだから、当然、分かっていると思うのだが、どうもそうではなく、大事なのは科学だけであると考えて

位牌は木で出来たモノで、そこには何もないんです

と。他の観点があると思わないのかネエ?そう思います。ショパンの夜想曲を聴いて、美しいとなぜ感じるのか?美しいと感じる人と、感じない人がいるのは何故なのか?どこが違うのか?<美>という存在は詰まるところ何なのか?それは一つなのか?複数、存在するのか?

科学的アプローチの他にも、色々な考察方法があるわけである。

何故もっと深く考えることをしないのかネエ、と。そう思いました、という覚え書きということで。


2023年10月20日金曜日

一言メモ: ヒトの公判がそれほど面白いですかネエ、という話し

今日は下世話な批判ということで。


「猿之助一家心中事件」の公判が今日あるというのでTV各局は「待ってました!」とばかりワイドショーの話題にしている。

複数のTV局の異なるワイドショーで全てとり上げているので、一体、今日中に同じ話を何回聞くことになるのだろう?これは《公共の電波の無駄使い》ではないか、電波の重複使用ではないかと。公共性のある報道価値のある事柄なのかと。そう思っちまいます。

小生: ヨソの家族の一家心中事件だよ。心中でまだ生きていた人を救急搬送して治療して生き残った一人を、今度は有罪にして、刑務所に入れるか、入れないかという、その裁判をやっている。わざわざそんな事をやって、今日はそれをTV各局がエンターテインメントにするかねえ?俺にはこれこそ《人権侵害》としか見えないけどネ。

カミさん: ニュースなんだから報道でしょ?

小生: 事実のあらましなら、もうみんな知ってるヨ。大体、視聴者はそれほどデバ亀じゃあないヨ。これで猿之助に執行猶予がつかず実刑になったら、それこそ又「待ってましたア!」とばかりに熱をあげてTV画面で解説するのだろうネエ……目に見えるナア。もしそうなれば、これまた《人権侵害》じゃないかネ。日本のマスコミならいかにもやりそうだろ?

カミさん: 何だか人の不幸を待ってるみたいに言ってるヨ。テレビ局の人だって一生懸命仕事をしてるんだから。

小生: マ、それはそうだな。でも仕事の仕方が間違っているんだヨ。

この件については、発生直後の世間の反応をみた感想を投稿した。

有名人が心中をしたり自殺をするとワイドショーはそれで盛り上がる。いま荒れているパレスチナ・ガザ地区の病院にロケット弾(の破片?)が着弾して多数の犠牲者が出ると、「待ってました!」とばかりに重大ニュースにする — ま、重大ニュースであること自体は認めるが、それでも何度も反復して残酷な録画を再生して視聴者に見せるMCはやはり鈍感なのだろう。

ヤレ、ヤレ……多くの被害が発生していたにも関わらず、ジャニーズや旧・統一教会には口をつぐんでおいて、ヒトの心中や生き残った家族の公判は「待ってマシタ」とばかりに放送するのか、と。

これが今日一日の感想であります。


伝えるべき話には違いないが、新型のコロナウイルスが確認されるのとはワケが違う。どうもヒトの不幸をネタにしている印象がある。

不幸を伝えるのも時には必要だが、先に投稿もしているが、メディアというのは「役に立つ情報」を提供してナンボだと思う。社会の役に立つからこそ許認可権に守られているのだと思う。

とくに何の役に立つわけでもないのに、社会の多数が求めているからという根拠で特定個人の不幸を話題にして多数派勢力のエンターテインメントに供するのは、学校内、会社内でも見られる《イジメの構図》とそっくりだ。日本国民と一人の個人とが対立すると、日本では個人が「吹けば飛ぶような存在」となり、戦前期・軍国日本と同じ「社会に生かされている人間」、「鴻毛より軽きもの」として扱われがちである。

日本社会の底層では数々の《人権侵害》が蔓延していると小生はみているが、その根本的原因は「社会」から議論を始める日本人の思考回路にある。社会でなければ、町や会社、家族など共同体でもよい。個人ではない集団や組織である。<法人>という方がピンと来るかもしれない。日本では、この法人を個人に優越させて考える傾向が非常に強い。法人を個人より優越させて考える習慣があると人権侵害が多々発生するだろう。

みんなはこうしている

というシンプルな理屈が日本社会を強く支配している。

ちなみに、一人一人の日本人には強い束縛力を発揮する日本社会であるが、「黒船」ならぬ欧米先進国から来た外国人に対しては猫のように大人しくなる傾向は、常々情けなく感じているところだ。

ある人は、「法律で決まっているから仕方がない」と上から目線で語ったりする場面があるが、こんな諦念主義が大いに問題だ。法がおかしいと判断すれば変えればよいという理屈ではないか。法律が人権の上にあると考えるのは間違いだ。当たり前だが、この当たり前のことが日本社会ではしばしば否定されたりする。これが《人間軽視》であるのか、《管理の都合》であるのか、《日本的精神》であるのか、発生の起源は小生にはよく分からない。

人権とは前にも書いたが「個人の人権」だ。根底には個人主義の価値観がある。平等とは全ての個人の間の平等を指す。個人とは法人の逆でリアルに存在する人間である。法人は実体ではなく、リアルに存在するのは個人である。法人には「基本的法人権?」とか「法人の尊厳?」などという概念はない。あるべきでもない。

社会や共同体に先立って個人があると考える個人主義は、極めて西洋の香りのする思想で、現代においても日本人には苦手科目だ。社会の同調圧力にさらされながら日本で生きる日本人なら誰もがそんな感覚をもっているはずだ。

個人主義が苦手なその日本のマスコミ企業で働いている記者はほぼ全て日本人であり、個人主義の考え方が苦手である。その振る舞いが、欧米先進国のメディア企業と異なっていても、思考のあり方が違っていると考えれば当たり前の現象だ。


日本のマスメディアの振る舞いに対しては、どうしても冷淡な眼差しになってしまう。ま、「黒船」よろしく英国・BBCの報道があって以来、本年春から夏にかけて進んだ《マスメディアの信用崩塊》は思うに全治10年。(そもそも信用というのがあったと仮定しての上であるが)「信用」を取り戻すには、少なくとも10年程度の時間と誠実でたゆまぬ努力を必要とする。

日本国内の「ジャーナリズム産業」の構造は、その間に激動の時代を迎えるだろう。そんな風に予想している。

良質のジャーナリズムなき社会は、全てを「日誌」に記録する義務を負わず、情報を社内で共有しようとしない組織と同じである。国内企業で実力不足なら、外資の参入を仰ぐしかないという理屈だ。国籍を問わず取材記者として活用すれば日本国内のマスコミ企業にとってショック療法になろう ― 狭小な日本語空間で採算がとれるかどうかはまた別の難問だが。

これまた、国内産業合理化のための《黒船待望論》である。

【加筆修正】2023/10/21、10/23