2023年11月9日木曜日

断想:時の流れを超越するのはモノや理念ではなく人間心理である

1968年と言えば、55年前だから、《今は昔》といえる程の以前かもしれない。その年に刊行された『源氏物語の世界』(新潮選書、Kindle版)を読んだのだが(不勉強もあって初読である)、55年も前の世代はもうこんな風に考えていたのか、という感想だ。その感性は現在の現役世代は元より、小生の世代より余程進んでいる。

そんな風に感じました。中村真一郎である。若い頃は入試問題にも頻出していた作家である ― そういえば、東野圭吾も村上春樹も流石に齢を感じる昨今、真剣に文学をやっている作家は日本に残っているのだろうか?自然科学は無論だが、経済学や政治学、国際関係論だけじゃあ、文明は栄えませんゼ……

例えば

この『蜻蛉日記』は、したがって一人の女性の苦悩の歴史を書き綴ったものである。――ただし、「日記」といっても今日のように、毎日、書き続けた日録ではなく、その結婚生活の終わりに近付いた頃に、思い出として書かれたもの、つまりメモワール、回想録と言うべきである。

……この日記は、「反小説」のレアリスムの傑作だということになる。……風俗習慣の相違にもかかわらず、人間心理は不思議に普遍的なものである。人はその事実に改めて感動しないわけにはいかないだろう。

こんな下りを読むと、日本文学史をよく知らない人であれば、「ハテ、蜻蛉日記なんていうベストセラーが最近出たかなあ?」と思うに違いない。実際、『蜻蛉日記』というタイトルを『▲▲』と伏字にすれば、上のような評価は明治時代の一人の無名の女性が書いた日記を評価する文章としても通用するはずだ。実は、この『蜻蛉日記』は紫式部よりも更に一世代も前に生きた藤原道綱の母によって千年以上も前に書かれた日記である。

55年も前の世代の人の感受性に<先進性>を感じとれると同時に、千年以上前の平安時代に生きた女流作家の現代性にも驚かされる人がいるかもしれない。


更に、読み進めていくと、

王朝末期はデカダンスの時代である。そして明治以来の近代日本はデカダンスの時代を持つだけの、不健全な余裕がなかったから、王朝末期の文明とその所産とが、積極的に評価されたことは一度もない。…明治・大正・昭和の三代は、生活倫理のうえでかなりきびしい時代だった。…近代日本の道徳の理想が、いかに偏狭なまでに厳格であったかは、「恋愛」というものに対する世論の反応を見るだけで充分である。恋愛は最も個人的な行為であり、個人の本能の流露であり、個人の幸福を人生最高の価値とするものである。

 「常々思うのだが」と言うとまるでドラマのようだが、多くの若い人が成人式を迎える時、あるいは社会人として巣立つ春、ワイドショーの取材記者からマイクを向けられた時に、ほぼ例外なく「人の役に立つ人間になりたいと思います」とか、「多くの人を喜ばせてあげられる人になりたいです」とか、要するに非常に<利他主義的抱負>を口にする人がほとんであることに、小生はホントに呆れ果てているのだ。

確かに、令和という現代は、明治・大正・昭和という近代日本の精神を直系として継承した時代である。

そう感じます。

確かに、人の役に立ちたいという利他的価値観は大切だ。しかし、利他的精神は自己犠牲を尊い行動であると評価する価値観の上に立っている。

普通に考えれば「家族を大切にして幸福を築いていきたいと思います」と、こんな風に自然な願望をマイクを通してTV画面で語る若い人が半数以上はいるはずだが、何故いないのだろう?

こんな疑問が萌してからもう何年たつだろう?


日本人はいまだに個人主義を消化しきっていない。そもそも個人主義という理念そのものがキリスト教を精神的土台とするヨーロッパで育ってきた価値観である。アジアの島国・日本に移植しようとしても、そうそう同じに育つはずはない。どうしてもそう思われるのだ、な。故に、民主主義もまたその精神の上で未消化のままであるのだ。それを裏付けるものではないか。そう考えることにしている。

人の役に立ちたい、仕える人 ― 顧客志向なら客を主とする姿勢になる ― に喜んでほしいという願望が、現代日本社会で尊重される価値観として支持され、評価され、社会で共有されているという正にその状況の下で、多くの<人権侵害>が隠れて進行してきているのである。多分、そういうメカニズムがある。

利他主義が堕落すれば常に上目をつかう「奴隷の態度」になってしまう。

フランスの故ミッテラン大統領に隠し子がいる事実が発覚したとき、女性記者からそれを指摘された元大統領は"Et alors?"(それが何か?)と答えたそうだ。

個人の人権を尊重するフランスのお国柄が伝わって来るではないか。平安時代の上流貴族社会もまた自由恋愛至上主義が骨の髄から肯定されていた時代だった。そのことを同じ時代に生きた作家による古典から知ることが出来る。現代日本が継承しているのは、平安時代の後に支配者となった武家の倫理である。「殿」の観念、「家」の観念、上意下達と男尊女卑の厳格な道徳観である。死をもって償う贖罪観が現代日本の死刑制度維持に反映していないと言えるのだろうか。平安時代を通して日本で死刑は執行されていない。

武家とは侍、サムライ、つまりは「さぶらう人」。誰かに仕えるという精神を持するのが武士である。現代日本人が継承するべき精神は、武士ではなく、武士以前の日本人が持っていた自由な精神であるのかもしれない。


ただ、そのフランスもジャニーズの創業者社長の男色行為は児童虐待、即ち「犯罪」であると非難しているそうだから、人権と犯罪概念のバランスも時代によって刻々と変化するものと考えるべきであって、それこそこの世は無常、常なきモノと言うべきなのだろう。

人の道徳や価値観は時代によって変わる。しかし、人間の感情や心理は変わらない。それだけは真理だと言えそうだ。

【加筆修正】2023-11-10

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