2023年11月11日土曜日

断想: 日本人が「個人主義」を(真に?)理解できたかもしれない時代はあった?

最近の投稿で頻繁に登場する語句の中で「個人主義」、「民主主義」、「信仰」、「モノ」は中でも頻出単語であるだろう。

個人主義と民主主義との関連性は意外に大きなテーマだが、個人主義がヨーロッパの香りのする理念であることを述べるのは割と簡単だ。

例えば、リルケという詩人、というより芸術家がいるが、彼の名句の中に

必要なのは、孤独、大きな内的な孤独というものだけなのです。

というのがある。

リルケは無神論者でも無宗教でもなかったから、「孤独」と言っても「宇宙における真正の孤独」ではなく、神と自己自身が一対一で対話できる状況を指していると考える方が正しい(はずだ)。

ただ、上と同じ言葉を例えば日本国内のワイドショーに出てくる某コメンテーターが口にしたと考えてみたまえ。世間は「孤独」を肯定する発言に非難轟々、そのコメンテーターは大炎上するのが必至である。

しかし、個人主義とは最初からそういうものであり、社会の前にまず先に「自己自身」が存在する。つまり孤独な自己から自分の人生が始まるという認識を受け入れなければ、理屈として、個人主義にはならない。

だからこそ、個人主義を基調とする社会では「同調圧力」は否定するべき悪習であって、決して容認するべきではないという姿勢をとりうる。ロジックはこうなる(はずだ)。

フランスが政教分離を徹底するのは、無神論や無宗教を基本とするからではなく、むしろその正反対で、過去においてカトリック教会が余りにも強大であり、現在も宗教勢力が決して軽視できない存在であること、加えてイスラム教徒移民が無視できない数となり、宗教的対立が社会的不安定につながる可能性を懸念しているからである。即ち、宗教や信仰という面に対して、フランス政治は非常に"sensitive"であって、この種の話題に敏感な感受性をもっている。ここを見なければなるまい。

そこまで警戒しても、時にイスラム狂信者によるテロ事件が何度も発生しているのがフランスの国情だ。発生はしても、それは何故かという理由を体感として理解できる素地がフランス社会には備わっている、というか継承できている。表現の自由と信仰の尊厳の両立について心の底から悩めるだけの感性を継承できている。というか、そういう感性を持たざるを得ない。そう観えるのだ、な。

ここが同じ政教分離でも現代日本社会の情況とはかなり違っている(ように観える)。

日本社会は、上にも触れたように「孤独」という言葉を機械的に解釈することしかできず、内実を含めた意味ある言葉としてもはや聞くことができない状態に、つまり宗教的なことに関する感覚や直観が非常に「退化」した社会になってしまった。そう観ているのだ、な。

戦後日本は政教分離に非常に神経質になっているが、フランスと異なるのは戦前期・日本の国家神道を崇拝する極右勢力を警戒するということであって、極左勢力を警戒する狙いはない。しかしながら、日本人の精神生活に実際に神道信仰が戦前期に根付いていたかといえばそんな事実はなかった、と。亡くなった父はそう断言していた。要するに、戦前期・日本に「信仰」と言えるような精神生活は社会全体を見渡せばホボなかったのではないかと、小生は想像している。それどころか、戦後早々の政治状況を考慮すると、自然を尊重する「信仰」とは正反対の人智万能の「科学的社会主義」を信じる傾向が強かったのではないか?そう思うくらいだ。

旧制高校生の間で昭和天皇は『天ちゃん』の呼び名で通っており、それはどうやら父の学年だけではなく、カミさんの父の学年でもそうであったようであり、ということは全国の若い者の間で「天皇崇拝」とか、「八百万の神々」などを信仰するという心理は、戦前期の日本人の間で微々たるものであった。そんなお寒い状況があったからこそ、日本政府は余計にシャカリキとなり様々な行事を国家として運営していたのである。

父の昔話を小生はそんなものかと聞いていたわけだ。

明治・大正・昭和と近代日本に生きた日本人の精神生活から、いつの間にか信仰とか宗教というものは、実のところ無視できるほどのマイナーな存在になってしまった — 残っていたとしても、江戸以前の宗教文化とは質的に全く異なるものになった。その穴を埋めたのはヨーロッパ起源の科学と哲学の二つだ。そして、科学、哲学の二つとも自然だけではなく、社会をも考察対象とするようになっていた。西洋とは異なり、日本においては、信仰は古い土着の思想、科学は外来の新しい思想だ。

外来の新しいものは土着の古いものよりは優れたものとして信頼されるのが日本のお国柄である。いくらライフスタイルや日常ツールで日本と西洋が同じ外観を示すとしても、精神構造は違っている。ずいぶん以前から、そんな風に思うようになった。

かつて、といっても500年も昔だが、浄土真宗門徒による一向一揆が盛んなりし時代であれば、

必要なのは、孤独、大きな内的な孤独というものだけなのです。

という上の言葉の意味を正しく理解できていた可能性がある ― 他力本願の浄土信仰と、来世の幸福を重んじるキリスト教福音主義とは微妙に違うとは感じているが。

ということは、数百年も昔の日本人の方がヨーロッパ人のいう「個人主義」という観念を、より近く自分自身の精神生活に則して、正確に共感できる感性を身につけていた。

昨今、どうもそう感じられるのだ、な。

科学的社会主義への共感と、個人主義とは、実は水と油である

小生はそう考えている。社会的同調圧力を制度化すれば、それはそのまま社会主義になって当たり前であるから。日本人のマルクス好きは、まだ戦前期と似ているのではないだろうか。

今日はとりとめない断想になってしまった。これも前稿の補足ということで。


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