2012年5月29日火曜日

親族が親族をまず扶養することにするのか?

芸人の次長・課長河本準一が推定年収3千万円以上でありながら、実の母親が生活保護費を受給していた事件に関連して小宮山厚労相が次のような方針を語った由。
小宮山洋子厚生労働相は25日の衆院社会保障と税の一体改革特別委員会で、生活保護費の支給水準引き下げを検討する考えを示した。また、生活保護受給者の親族らが受給者を扶養できる場合、親族らに保護費の返還を求める考えも示した。(出所:毎日新聞 2012年05月25日 21時17分)
更に同じ記事には次のような解説も紹介されている。
生活保護をめぐっては、人気お笑いコンビ、「次長課長」の河本準一さんが同日の記者会見で、自分の母親の受給について「適切でなかった」と謝罪した。生活保護受給者は209万人(今年2月時点)と過去最多を更新し続けているが、親族の扶養義務が徹底されていない点も一因とされており、永岡桂子氏(自民)が小宮山氏の見解をただした。
要するに自分が高い収入を得ていながら、母親に生活保護を受けさせ、国税で養われる状態を放置しているのは「適切ではない」という考え方である。もし親族が貧困に陥り、その親族が生活保護費を受給し、自分がその親族を扶養しない場合は受給した保護費を返還するよう国から文書が届くかもしれないというご提案です、な。

× × ×

いやはや、トンでもない社会になってきたものだと感じ入るばかりだ。この話は奥方たちが視聴しているワイドショーでもお気に入りの話題になっているようだ。その一つで若い青年の意見が紹介されていた。確かフジ系の<特ダネ!>だったかと思うが、『一口に親族が扶養するといっても、そこにはDVやその他の色々な状態が考えられます。親族だから扶養すると決めつけるより、多くの側面を考慮するべきではないでしょうか?』と、全くそのとおりだ。20代〜30代の人たちには、本当に真面目に、<正解探し>ではなく<自分の頭>で問題を考えている人が多いように、このところ思い知ることが多いのだ、な。これは、ひょっとして、「ゆとり教育」の隠れた効果かもしれないなあ。

小生は、ズバリ、親族が親族を扶養する。それを最優先で考える。この考え方には心から大賛成である。なぜなら、親族が団結し、経済的な問題はまず家族で、それから親族間で、相互協力すれば、まず最初に雇用保険は不必要になろう。なくしてもよい。国家直営の公的年金制度も要らない。なくしてもよい。医療保険も、国は自賠責ならず最低保障医療保険を制度化しておけばよいであろう。あとは自分たちでやるほうが余程賢い金の使い方ができるというものだ。故に、現行の保険制度はなくしてもよい。そうすれば現在の財政赤字もあっという間に解決されてしまうだろう。これのどこが悪いのか?政府は、親族中心・親族優先の社会を再構築してほしいものだ。そして負担の少ない、自由の多い社会を作ってほしいものだ。そのとき、各自に責任が生じ、責任を感じるとき、人は自然に成長するものだと思う。生まれてきた以上は、そんな人生をおくりたいものだなあ。

要りもしないのに、社会保障は必要だからと戦前期の政府が言い募って、その実は<財源拡大>が主目的であった。これほどの長寿社会になると分かっていれば、昭和48年の「福祉元年」も絶対になかったであろう。だから、報道されたように「親族が親族の面倒をみてほしい」と国自らが言い出したのは「国も肝心なところが分かってきたではないか」と、この点だけは心から大賛成なのである。

ただ、一方で親族の扶養責任を問いながら、同じ政府が社会保障の維持運営に必要ですからと<消費税率の大幅引き上げ>を提案しているのは、これ以上に無遠慮・無作法・無責任なやり方はないかもしれない。まあ、<三無主義>政党政権であれば、不思議ではないが。

2012年5月27日日曜日

日曜日の話し(5/27)

本日は、戦前期日本であれば「海軍記念日」であり、戸口には国旗が掲げられ、大通りは華やかな喧噪の中、多くの人が練り歩いていることだろう。しかし、現代に暮らす日本人が、近々70年ほど前まで日常に根付いていた習慣を思い起こすことはなくなった。それは、その頃の社会システムがモラル的にも政治体制的にも否定されてしまったからである。このことを残念に感じている日本人はいまでも少なからずいるだろう。

その国の歴史的変革を引き起こすほどの大きな原因となると、いくつもあるものではない。一つは人口構造だ。もう一つは生産技術上のイノベーションである。人口変動は、中でも抗うことのできない決定的な力をもつ。古代ローマ帝国の運命もそうであるし、近くは中国・清王朝の衰退も乾隆帝の時代に見られた急速な人口増加が引き起こした現象である。西ヨーロッパが14世紀に見舞われたペスト禍は、労働と資本の価格構造を激変させて、欧州封建体制をくつがえした。戦争もまた国民の人口構造を激しく揺るがす主因であることは言うまでもないことだ。

人口と技術進歩は経済学の範疇であり、いわば社会の下部構造である。小生も、基本的には下部構造が上部構造を決めていく、そういう社会観に立って物事を考えている。この辺は(というより、この辺だけは)マルクスと同じ目線だ。しかし、歴史的変革をもたらす三つ目の主因(と小生が個人的に考えている)ものは、人間の精神や魂やモラルと関係するので上部構造に属する。つまり<宗教>の変革である。

中国歴代の王朝交代には、ほとんど常に新興の宗教教団の活動を見ることができる。東ローマ帝国は6世紀に第一期黄金時代を迎え、帝国全体の領土を概ね復元できたのであるが、狭量な宗教政策をとったために、シリアからエジプトに至る地域住民の離反を招き、それが7世紀のイスラム帝国(=サラセン帝国)誕生の遠因になってしまった。ヨーロッパの中世と近世を分ける区分に宗教改革があったことは言うをまたない。

本来、宗教は人間が心の中で考える世界であり、それが世間の実態を変えるはずはないのだが、住民の意識を変え、生産活動の在り方を変え、政治を変える中で、純粋な信仰が歴史を変えてしまうことは現実にあったことと認めざるを得ない。これを逆に考えて、まずその時代の生産システムを運営するのに最も便利なようなモラル、社会意識、それを支える哲学と宗教が生まれるのだと考えてもよいのだが、これはやはり余りに単眼的で割り切りすぎだと感じる。

× × ×

日本の歴史を振り返っても、6世紀の仏教伝来後の国内対立と7世紀初めの神仏習合政策が一つの時代を作った。その後、奈良を舞台にして仏教が拡大したが、その過程は日本の古代社会の発展と並行している。天皇家から摂関家に権力が移り、政治システムが変容する平安時代の初期、都が奈良から京へ移っただけではなく、天台宗・真言宗という平安仏教が新たに興っている。貴族政治から武家政治に変わる前後には、禅宗や浄土宗、日蓮宗などの鎌倉仏教が生まれた。このように振り返ると、時代の変革期には、宗教上の改革が並行して見られるのだ。もちろん、この宗教上の変革を、時代の進展の結果と見るか、原因と見るかは意見が分かれよう。

日本の中世と近世・江戸時代を区分する要点の一つは<政治>と<宗教>との権力関係である。<中世>という時代の特徴は、まず第一に宗教が政治を動かしていた、それほどの権威と力をもっていたことである。これは、ヨーロッパの歴史と日本史で共通している点でもある。というより、儒教や道教まで宗教とみなせば、東アジアも同じである。徳川幕府による仏教対策は確かに日本の中世と近世をわけるものである。では、明治維新をどう考えるか?天皇による王政復古は、神仏習合から神仏分離・廃仏毀釈への原点回帰運動でもあった。つまり明治政府の宗教政策は、国家神道=神道国教化路線でもあったのだ、な。これは日本史上初めての宗教政策である。つまり、宗教政策という次元で見ても、明治維新は大きな歴史的変革であったわけだ。

その明治期・宗教政策が、現実の政治にどのような影響を与えたのか?その考察は、日本史・近現代にかかわる無数の研究として公表されてきたのだが、やはり太平洋戦争敗戦に至るまでの色々な意思決定に明治期・宗教政策が暗黙の、あるいはエクスプリシットな影響力を行使してきたことは否定できないと思う。それは何も<神国日本>とか<皇国史観>などを敢えて持ち出さずとも明らかではないか、と。

だとすれば戦後日本の宗教政策はどうなのか?どう変わったのか?確かに政府はいかなる宗教をも支持しないことになったが、天皇が日本国の統合の象徴であり、伊勢神宮の祭主を天皇家が務め、その他宗教とは相いれない形になっていることを考慮すれば、どうしても現行の宗教政策は、その本質において明治期・宗教政策がそのまま継続されていると、・・・小生にはそう思われてしまうのだ、な。


法隆寺・金堂壁画・二号壁全図


上の写真にみる法隆寺壁画は、昭和24年の不審火による火災で金堂が炎上し、壁画は焼け焦げ、永遠に元の姿は戻らなくなってしまった。和辻哲郎は名著『古寺巡礼』の中で、壁画の作者が求めたものは「美の完全な表現」であり、「画面において浄土の光景を物語ることではなくして、ただ永遠なるいのちを暗示する意味深い形を創作するにある」、そんなことであったのだろうと記している。制作時期は600年代末から700年代初め、奈良の都もまだなかった時代であると推定されている。

もし敗戦直後に、仏教と神道との融和を進める神仏習合政策に再び戻っていれば、その後の日本人の感性はどうなっていたであろう。小生は、日本の外交から日本人の倫理観に至るまで、相当に違った結果になっていたのじゃないかと思われるのですね。神仏習合は、聖徳太子が永年の学究の果てにようやく辿りついた本地垂迹思想に基づくものであり、世界でも例をみない<戦略的宗教政策>であった。その大方針が、江戸末期まで営々と貫かれたのだが、ついに明治政府に至って日本古来の宗教である神道が国際的宗教である仏教を抑える形で国家的支援を得た。その意味では、現在の日本の宗教政策は、江戸・室町・鎌倉・平安時代を飛び越えて、1400年も昔の水準に逆戻りしているとすら、(小生には)感じられるのである。

2012年5月26日土曜日

ギリシア離脱からユーロ全面崩壊への予測も

独仏首脳を含むEUの公式声明にもかかわらず、ギリシアのユーロ圏離脱は、既にかなり高い確率で予想されている。

ドイツ紙Frankfurter Allgemeine Zeitungにドイツ銀行幹部の発言が紹介されている。
Der designierte Co-Vorstandsvorsitzende der Deutschen Bank, Jürgen Fitschen, betrachtet Griechenland als „gescheiterten Staat“ (failed state). Auf einer Konferenz in Berlin sagte der Manager, dass es keine Patentlösung für die europäische Schuldenkrise gebe, auch weil die Situation in Griechenland einzigartig sei – und das Land eben ein „gescheiterter Staat“ sei. (Source: 25.05.2012 )
ドイツ金融界でもギリシア放棄が覚悟されつつあるようだ。

ところが同じ記事にはモルガン・スタンレーの更なる予測が紹介されている。
Dass solche Diskussion aber längst nicht mehr zu stoppen sind, zeigte am Freitag auch eine in London vorgelegte Studie der amerikanischen Investmentbank Morgan Stanley. Diese hält sogar den Zusammenbruch der Eurozone für möglich. Dabei handele es sich allerdings nicht um das Basisszenario der Bank. In der Studie schätzt der Analyst Daniele Antonucci die Wahrscheinlichkeit eines kompletten Zusammenbruchs der Währungsunion auf 35 Prozent. Zuvor hatte er sie noch mit 25 Prozent angegeben. Zudem reduzierte Antonucci den erwarteten Zeithorizont, nämlich von zuvor fünf Jahren auf lediglich zwölf bis 18 Monate. Als das wahrscheinlichste Szenario skizziert er zunächst einen Austritt Griechenlands, gefolgt von einer Phase, in der sich andere Länder verstärkt anstecken könnten.
 確率的には35%の蓋然性で通貨ユーロの全面的崩壊が予測されると専門家は結論付けている。それも、以前の25%よりも上方修正されており、時間的にも5年以内から1年乃至1年半以内に短縮されている。

欧米は、既にギリシアは諦め、それよりユーロの全面的崩壊の心配へと変わりつつあるようだ。この流れを食い止めることができるのは、ドイツの欧州総合経済計画へのコミットだけだろう。

2012年5月25日金曜日

民主党内・増税ゲームの行方は?

提出されている消費税増税法案に対して小沢グループは反対を唱えている。これではまずいので総理・党執行部が話し合いの場を模索している。近日うちに総理と小沢一郎元代表が会談することにもなった。

× × ×

消費税率引き上げについては、本来、税率という軸、その他の税という軸、歳出構造見直しという軸、時間軸という四つの軸に沿って検討しなければならない。しかし、マスメディアの報道振りをみると「要するに増税に賛成か、反対か?」だけの単細胞的政界事情に堕しているので、誰がどんなことを構想しているのか、全く伝わってこない。「ここで△△選手がヒットを打ちました」、そんな風でありプロ野球結果の放送と同じなのである。

消費税率引き上げは永遠に絶対的にダメというなら、では今の財政をどうするというアイデアを提出しないと政治家とは言えまい。税収は予算の半分にも達していないので歳出を半分にカットすることを主張しないといけない。なぜそれを主張しないのか?堂々と主張するべきである。主張するべきことを主張するなら、そこで初めて<ドイツ流の財政緊縮路線>と<社会民主主義的財政政策>との路線対決が実現し、この日本でも歴史的政治劇が繰り広げられることになる。国会議員として月額2百万円に迫る報酬を得ている以上は、反対派と勝負するのが<志>ではないかと小生などは思うのだが、これはひょっとすると小生個人の勝手な思い込みかもしれない。

考えてもみなされ。国会議員を続けてはじめて報酬をもらえる職場である。タカ対タカのゲームを展開して、明らかな敗北を喫するかもしれないリスクは嫌であろう。そんなリスクを双方ともに負担するより、妥協をして折り合えるように協調するほうが敵味方双方にとって得である。但し、妥協をするにしても、どちらがタカであり、ハトであるかを決めないと妥協は成り立たない。もちろん最初から融和的にハトになることを申し出てもよいが、申し出れば相手は高姿勢に転じてタカとなる。それ故、解はタカ対ハト、ハト対タカ。いずれかでなくてはならない。

このような古典的なタカ−ハトゲームが、民主党内政争ドラマにも当てはまっているように思われる。陳腐なのだな、実に。だとすれば、<限定戦争>が効果的である。<示威行動>である。自分たちの勢力と決意を示して相手に譲歩を迫る戦術である。「お前が譲れ!」と。「おれがタカになる!」と。もちろんこれは小沢一郎の師匠である田中角栄が巧みであった戦術でもあったろうが、相手が引かず全面戦争になれば、自分も破滅するというリスクがあるわけであり、その意味ではいま世界で流行している<瀬戸際戦術>である。

× × ×

小生のみるところでは、全面戦争になれば、どうも野田政権側が最終的には勝利し、小沢反主流派側が屈服することになるのではないかとみる。やはり霞ヶ関官僚集団が(曲がりなりにも結束して)政権側を支持しているのは、たとえ検察が動けないという点を認めるとしても、江戸時代の「大奥」を抱き込んでいるのと同じであり、最終的勝因になると思う。

反対派の小沢グループには、消費税率引き上げに代わりうる妙案が(多分)ない点が最大のウィークポイントである。激烈な歳出カットは、たとえ公務員給与を5割引き下げるとしても到底不十分である以上、歳出全般の削減になり、それは増税と同じ程の痛みを国民に与えるであろう。これでは<痛み>という点で、いまの増税案とあまり違わない。国民全体の痛みは同じ、歳出カットという点では官僚が猛反対となれば、説得力をもつはずがない。だから「消費税率引き上げ絶対反対」は、小沢一郎議員にとって、割にあう勝負ではないのである。

もちろん長期的に言えば、歳出カット、民営化の加速、規制撤廃をするのが、いま恵まれている経営側はともかく、大多数の日本人には(結果として)最大の恩恵を及ぼすはずである。カネのない日本政府が歩むべき自然な道である。それは滅亡への道だというのは、日本のエスタブリッシュメントによる宣伝である。宣伝にすぎないのだが、しかし、日本列島は孤島であり、宣伝が宣伝だとは知られておらず、開放すると本当に滅びるのだと見られている。戦後の歴史を見ると正反対であったのに、そんな事実を語る経営者・労働組合上層部は今はいない。

小沢一郎議員が信念を通すなら、消費税増税に反対して、「それからどうする?」。ここを語らないといけない。ここを語らずして勝機はない。「今は反対するのが賢いよな」と、この程度の覚悟なら、つまりは好機に乗ずるだけのオポチュニストであるわけで、ただの条件闘争である。チルドレン達の首を守りたい。チルドレン達にかつがれて、見捨てることができない。「我が敵は増税でなく議席配分にあり」。何となくそんな風に見えますなあ。だからバーターではないかという訳。これでは歴史にも残らない、つまらない政治家であったと後世の人に言われておしまいになろう。

(以下、あとで追加)
それにしても<3.11大震災>や<福島第一>、<全原発停止>、<エネルギー制約>など根本的環境変化がありながら民主党のマニフェスト回帰が唱えられたりするのは、一体全体、どういう思考回路なのだろうなあ?これもまあ<示威行動>の一つであるとは分かっているが、世に通ると考える国政議員のその感性がなあ・・・と、いまこんなことも思ったということをメモしておこう。確かに<改訂マニフェスト>を出すべきところであるし。

2012年5月23日水曜日

いまや死語と化したスピリット ― 反骨精神

北海道地方限定のTV番組でS市の北25条付近に位置する洋菓子店「モンレーブ」が紹介された。その店は、懐かしいバタークリーム・デコレーションケーキを今もなお作り続けているので、今朝紹介されたわけである。パティシェの店主はもう70歳を越す大ベテランで、S市の西にある港町O市が華やかに栄えていた頃、支店を構えていたコロンバンで修業したとのことだ。

とにかく仕事は厳しくて、つらかったですけどネ。それに中々上手にならない。でもね、<反骨精神>って言うんでしょうか、今に見ていろと。そんな気持ちで先輩の技を盗んでいきました・・・
独立して店を出して、生クリーム全盛のいま、それでもなお昭和世代にとっては懐かしいバタークリームを作り続けているのは<KY>の典型でありますねえ。風を読まない。頑固である。我を張る。人の助言をきかない。すべてこれらは、現代日本的価値尺度でマイナス点がつくだろう。しかし、そんな人が、敗戦後に国家再興を進めていた頃の日本では最も求められた人材であったし、おそらく今の日本、これからの日本でも一番必要な人物像であろう。この点だけは、小生、間違いない。そう確信しているのだ。

しかし、いま一番必要な人材を教育で作り出そうとすれば、中央統制をやめない教育官僚と権力の味を知る政治家に批判の刃が向けられるのはほぼ確実だ。だから、重要性はわかってはいるが、そんな政策はとらない。ま、実際には当てはまらないとは思うが、万が一、これが事実だとすれば日本の未来を奪っているのは、日本の政府である。そう言えますな。

火力発電にシフトする中でコスト上昇に苦しむ電力業界によい情報が出てきた。安価な低品質炭を液化する技術を商用化できそうだというものだ。
日揮は火力発電用の新しい低価格燃料を開発し、2015年から生産を始める。これまで使えなかった低品質石炭を加工して液化した燃料で、約300億円を投じてインドネシアに生産設備を建設。日本やアジアで販売し、3~5割安い価格で石油火力向けの重油の代替を目指す。世界の石炭埋蔵量の約半分を占める低品質炭の活用が進めば火力発電コストの低下につながりそうだ。(出所: 日本経済新聞2012年5月23日)
会計上の発電コストは、原発には及ばないが石油火力や太陽光よりは遥かに効率的である。



もちろん、このコストは会計上のコストであり、環境へ与える全ての外部不経済を加味した経済的コストではないと思われる。

全原発停止は市場環境の変化である。その変化がこうした企業行動の変化を誘発した。日揮という企業は、何も<日本国>のことを思って新技術を開発するわけではない。もうけるためである。だから感心できない、評価できないと言い出したら、その人は共産主義者である。利益は企業にとっては確かに目標だ。しかし、社会の観点に立てば、利益はツールであり、目標を達成するための手段である。目標は、日本国のエネルギー事情を改善することである。目標を達成できれば、全員が助かる。全員が助かる方法を見出した者には褒賞を与えるほうが早く助かるだろう。それが利益である。政府は、感謝状を発行したり、褒賞を与えたり、その他一切、何もしなくともよいのである。アダム・スミスが「見えざる手」と形容したのはこれである。

市場経済は、それ自体に価値があるわけではない。(政府にとっては、低コストで)社会経済の運営ができるから価値があるのだ。マーケットに委ねておくと、国民の目標を自然に達成できることは多い。だから使う。それだけのことである。目標を達成できなければ、市場には任せない。当たり前のことだ。しかし、代わりの手段がえらくカネを食うようなら、これも困る。

いま日本の政府にはカネがない。であれば、やるべきことは安上がりの社会運営技術を利用することだ。つまりマーケットに委ねる分野を増やすのが理屈にはかなっている。というか、自然だ。やり方を変えないまま、カネが足りないから、増税する。不自然である。とはいえ、<市場>なるもの、<市場的なるもの一切>を日本人が心から嫌っているのなら、それは仕方がない。社会を運営するには、カネがいるのだから、増税を承諾するしか仕方がない。「いるものはいる」。これが今の社会状況であろう。カネがかかって仕方がないなあ・・・・金持ちのはずなのに、どこか貧困感をぬぐえないのは、そのためだと思われる・・・小生の親戚にもいます、そんなタイプが。

いや<反骨精神>から、グダグダとくねるうちに、増税の話になってしまった。能率が悪い原因についてはまたにしよう。

2012年5月22日火曜日

西ヨーロッパとギリシアの遠い関係について

欧州は大きなテーマだが、かといってギリシアばかりを議論していると、流石に飽きるというか、辟易としてくる。ところが最近、小生がGoogle Readerに登録しているお気に入りのフィードでは、どこもギリシアに関する議論で花盛りだ。こういう「議論の洪水」のような状況は、たとえば特定の経済問題が注目を浴びた時にアメリカから発せられるディスカッション・ペーパーもそうである。石油価格高騰についても、財政政策の乗数効果についても、その時々に解くべき問題が提出されると数えきれないほどの研究レポート、計算結果、シミュレーションがネット経由、ブログ、研究所のパブリケーションとなって押し寄せてくる。

この辺のダイナミズムは、日本と海外が決定的に違っている点だと感じるのは、なにも小生だけではないと思う。もし日本国がアメリカ合衆国であったなら、今頃は星の数ほどの財政健全化シミュレーション、消費増税の経済効果、原発停止と再エネ移行のコストとベネフィット等々の研究結果がネットで公開され、やりとりされ、政治家もその要約をレクチャーされているに違いない。ここはアメリカではないというだけの理由で、何たる違いであろう。ただアメリカ人も、ギリシア問題は大統領選ほど関心をそそられないのか、主に欧州から色々な意見が提出されているようだ。とはいえ、正面からギリシアを論じたものは無数にあって、特定のものを挙げにくい。それより最近のProject Syndicateに投稿されたDominique Moisi氏の寄稿が面白い。"The Reason for Europe"である。

氏はヨーロッパを評価する10の観点を挙げている。心覚えまでに列挙しておきたい。
  1. The first reason for hope is that statesmanship is returning to Europe, even if in homeopathic doses. 
  2. A second reason to believe in Europe is that with statesmanship comes progress in governance. 
  3. Third, European public opinion has, at last, fully comprehended the gravity of the crisis. 
  4. The fourth reason for hope is linked to Europe’s creativity. Europe is not condemned to be a museum of its own past. 
  5. The fifth source of optimism is slightly paradoxical. Nationalist excesses have tended to lead Europe to catastrophic wars. But the return of nationalist sentiment within Europe today creates a sense of emulation and competition 
  6. The sixth reason is linked to the very nature of Europe’s political system. Europeans may be confused, inefficient, and slow to take decisions, but democracy still constitutes a wall of stability against economic and other uncertainties.
  7. The seventh reason to believe in Europe is linked to the universalism of its message and languages. 
  8. Beyond universalism comes the eighth factor supporting the EU’s survival: multiculturalism. 
  9. The ninth reason for hope stems from the EU’s new and upcoming members. Poland, a country that belongs to “New Europe,” is repaying the EU with a legitimacy that it had gained from Europe during its post-communist transition. And the entrance of Croatia, followed by Montenegro and a few other Balkan countries, could compensate for the departure of Greece (should it come to that for the Greeks). 
  10. Finally, and most important, Europe and the world have no better alternative. The Greek crisis may be forcing Europe to move towards greater integration, with or without Greece.
ギリシアを放棄しても西ヨーロッパは緊密な統合への道を辿るであろうし、それが望ましい、そういう立場のようである。その根底にあるのは、Universalismつまり普遍主義であるが、小生は国家の上に超国家をおく<帝国主義>を連想する。いかにユニバーサルとは言っても、ヨーロッパが一地域であることには間違いがなく、統合を深めれば深めるほどにヨーロッパはスーパーパワーとして行動するはずであり、多文化主義とは言ってはいても求めようとするのはヨーロッパの利益であろう。

かつて西欧は、ギリシア世界(=ビザンティン帝国)を放棄し、ローマ教皇とフランク帝国との歴史的絆をよりどころとする純化路線を選んだ。EU・EUROに参加して、いまギリシアは再び(まずはEURO圏であろうが)、そこから脱退しようかという瀬戸際にある。こんな風になるなら、そもそもギリシアがトルコを相手に独立戦争を戦った時から、ロシアの南下政策と連携しておけばよかったのである。イギリス、フランスがロシアと対立した時に、ギリシアはビザンティン以来の歴史的背景を重んじてロシアと協調していれば、西欧の大国に翻弄されることもなく ― 無論、共産主義の洗礼はくぐったことであろうが ― いまごろはロシア、セルビア、ブルガリアなどの国家群と外交を深め、強固な文化大国として活動できていたのではないかと、個人的には夢想している。もちろん、それは西ヨーロッパにとっては悪夢の展開であったろうが・・・。

2012年5月21日月曜日

議員など公職就任要件を厳格化してはどうか?

鳩山元首相が以下の発言をしたとの報道がある。
民主党の鳩山元首相は19日、テレビ東京の番組で、消費税率引き上げ関連法案について、「シロアリを退治しないで消費税を上げても、増税分もシロアリに食べられてしまう。(採決は)まだこのタイミングではない」と述べ、徹底した行政改革を行うことがまず必要だとして、衆院本会議での採決を急ぐべきではないとの考えを示した。

一方、自らが今月15日に首相退任後初めて沖縄県を訪問したことに関し、「今、(野田政権が)必ずしも沖縄県の側に立って闘おうとしていないことに対する(県民の)腹立ちや怒りを感じて帰ってきた」と語った。
(2012年5月21日07時08分 読売新聞)
自党と他党との識別がつかなくなったようであり、小生が楽しむ雑談の中では、このような発言行動を<政治的認知症>と形容している。

そういえば本日の日本経済新聞朝刊5面「核心」(芹沢洋一論説委員長)では「ポピュリズムよさらば」というタイトルの文章が掲載されている。その中で「政治家の劣化は目にあまる」と記されている。そりゃそうでしょう、と。この点だけは誰でもが納得するだろう。

古代の共和制ローマでも執政官などの要職は選挙によっていた。ただ立候補の資格としては一定以上の<年齢>を求めるだけではなく、<公務や軍務の一定以上の経験>を求め、誰でも実績なく自由に立候補できるというわけではなかったようである。また要職を経た人材は元老院を構成し強い発言力をもった。公職は私ではなく公に奉仕するわけであり、個人的な信念や願望のみが大事であるわけではない。公職を担うに十分な経験と熟練を有していると推察する根拠を立候補の時に求めることは、至極当然だと思うのだ、な。古代ローマが国家として長寿を保った理由の一つに、政治行政システムの設計が時代の変化に応じた巧みなものであった点を多くの専門家があげている。

我が国において国会は国権の最高機関だ。日本でも、国会議員に立候補する際、官公庁や地方議員などの公職あるいは「その他の社会奉仕活動」を一定年数以上経験していることを要件とするべきではないか。また、国政選挙立候補までに経験した公的活動の分量により、国から支給される選挙活動資金の金額に差を設けるべきではないか。

これが現職を不当に優遇する結果になるとすれば、それは社会に関心をもって公的活動にとりくんでいる人が政界に愛想をつかしている証拠である。もしそうならそれは仕方がない。現職が他界するまで現状を続けるのがまだましである。現職をデマゴーグ、泡沫、ジャンク等から防護し、腰を入れた政治活動を続けさせることも大切である。いずれ遠からず、人がいなくなった時点で入れ替えればよい。その時のことを想定した話しである