2011年5月16日月曜日

世論は空気に支配されている?

特にこれといった話題がなければ、今日あたり「e-Learningは学校に対する創造的破壊なのか?」を議論しようと思っていた。

ところが各社世論調査が出てきて、先日のブログを補足する必要も出てきた。今日は<世論>の動きは理にかなったものかについて考えたい。

もしも<世論>なるものが、投票を通して明らかになる民主主義社会の意志のようなものであれば、世論は決して合理的なものではありえない。この点は、ずっと以前にノーベル経済学賞を受賞した大御所的理論家アローが「不可能性定理」という形で証明済みのことである。ここで合理性というのは、普通の理屈、たとえばAがBより好ましく、BがCより良いのであれば、AはCより良いに決まっている、こんな理屈が終始一貫して通っているかどうかで判断する事柄なわけである。

こんな風に厳密に合理性を定義すれば、社会全体と言わず、一人の人間をとっても完全に合理的に考えているものなぞいないのではないか?どこか人間は、理屈を飛び越えて、矛盾に満ちた行動をする。そこが「人間的」なのではないかと、普段の私は考えてもいるのだが、今日は世論調査に話題をしぼるとしよう。

菅首相による浜岡原発停止要請を評価する人は共同通信調査によれば66%に達するとのことだ。それにもかかわらず、内閣支持率は28%、不支持率は57%になっている。他社の調査でも大体同じ結果が出ており、目安としては原発停止は国民の3分の2が評価。しかし内閣を支持する人は支持しない人の半分程度にとどまる。こんな所だと推測される。

先日のブログで小生は、踏むべき手続きを省略して法的根拠もなく緊急に浜岡原発停止要請を行うほどの必要性は安全上の観点からは認められない。そんな話しをした。この結論は変わらない。

とはいえ、要請後に新聞紙上に掲載された各地域の地震発生確率をみると確かに東海地域は格段に高い。目だって高いと言われれば、なるほどそうである。しかし、目立つからいけないのか?目立つから緊急に停止しなければならないのか?他の原発は世論調査によれば58%の人が「停止の必要性はない」と判断している。その確率は無視できるほど小さいのか?目立たないだけではないのか?

目だって高いから危険で、目だたなければ安全なのか?

もう一度、30年以内に大地震が発生する確率は87%ということの意味を考えてみよう。これは30年、つまり360か月の間、何もない1月がすぎることの否定文(=排反事象)だ。ということは1月という長さをとれば大地震が起こる確率が約0.6%、何もない確率が99.4%としておけば、政府の計算結果と概ね一致するのである。これは先日も書いたことだ。(単純化の仮定を置いた計算ではある)つまり、今後1月に大地震が東海地域で発生する確率は政府部内でも限りなくゼロに近いと考えていたはずである。

では時間を少し長めにとって1年以内に大地震が発生する確率はどの位になるか?それは何もない1月が12か月続くということの否定になるわけだから、上と同じ計算をすれば6.6%の確率で大地震が起こりうるという推測になる。これでも十分小さい確率である。もし本日の降水確率は10%ですと天気予報が伝えるとき、皆さんは雨支度をして外出しますか?普通はしないはずだ。雨の降る確率は10%であり無視できる確率ではないが、仮に降られたとしても大したことではない。わざわざ傘をもって出るほどのことではない。つまり「雨が降るかもしれない」というリスクは許容範囲にあるわけだ。

リスクを許容するか、許容しないかは
リスク評価=確率×予想損失額
で決まってくるものである。

1年という期間をとっても東海地域に大地震が起こる確率は10%もないということは政府も承知していたはずである。(この辺、詳しい説明はなかったが)それでも緊急に停止要請をしたのは、大地震が発生した時の予想損失が非常に大きいと考え、それは許容できるリスクではないと考えたためである。それ以外に理由はない。

6.6%という確率は大きいと考えるべきなのか?たとえば自動車を運転中に交通事故に遭遇する確率は1年間で112人に一人、確率では0.89%である。交通事故は必ずしも人身事故ではなく、仮に事故が起こったとしても1件の事故の損失の波及範囲はたかが知れている。この交通事故発生確率よりも東海大地震発生確率はかなり大きいという計算結果は予想される損害を考慮すれば許容されるものではない。これは理にかなった判断だ。酒を飲んだ上で運転をしようとしている友人がいれば「やめろ」と忠告するのと全く同じことであり、確率は小さくともリスクを許容できる程の小ささではない。そう考えても理解はできるのである。

しかし、事情がそうなのであれば静岡県や御前崎町、中部電力、更には国民に広く説明しておくべきではなかったのだろうか?決して、定められた手順を無視して、法的根拠のない行動を総理自らがとる緊急事態ではなかったはずである。客観的なリスクが現実にあるとも言えるわけなのだから、むしろ詳細な説明を行っておくべき状況だった。

客観的な状況説明を行うことなく、単に危険があると感じられるという理由で、総理が超法規的な裁量を下しうるのであれば、総理が判断すれば法的根拠もなく国民の財産権を侵害することもできるわけである。事実、今回の総理判断によって中部電力株を保有していた人は10%内外の損失を被っているのである。上に述べたように、浜岡原発を停止するべき客観的根拠はあったのだから、停止要請をするための閣議決定、あるいは停止要請を可能とする法律、政令などを定める旨、先に説明があれば関係者は必要な対応をしておくこともできたはずである。

空気に支配される政治ほど恐怖をさそうものはない。

世論調査は浜岡原発停止要請を評価する一方で、菅内閣への支持率がほとんど上昇せず不支持率も変わらない、このような結果は事態の背後を察すれば世論というものの合理性を改めて見てとれる。<天の声>は文字どおり<世論>であり、<総理の声>ではないことが証明されていると思うのだが、どうだろうか?



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