2011年5月27日金曜日

福島原発、現場の独走に思う

福島第一原発の海水注入を誰が中断させたかで官邸、原子力安全委員会、東電本社で発言が錯綜し、誰もが「何かを隠している」と感じつつあった。ところが事態は一転、現場の吉田所長の独断で海水注入は継続されていた。中断という事実そのものがなかった。これには皆開いた口がふさがらなかった。文字通り「想定外」の結末となった。

この所長の独断は、結果オーライとはいえ、本社の業務命令違反に該当し、それ故に処分する必要がある、その処分内容については慎重に検討したいとの東電副社長の弁である。さもありなん。結果オーライであれば命令違反の責任は問わないというのであれば、会社組織はもたないだろう。いささかでもサラリーマンとして仕事をした経験のある方であれば、宮仕えの苦悩はお分かりだ。東電経営陣の悩みには共感できるだろう。

この報道で思い出したのは別宮暖朗「帝国陸軍の栄光と転落」(文春新書750)である。著者の別宮氏は、経済学を学び大手信託銀行でマクロ経済調査・企画を担当してきたが、ロンドンにある証券企画調査会社のパートナーを経て、現在は歴史評論家をしている人である。極めて博学であることは、何冊かの著書を一読すれば直ちに伝わってくる。氏が運営しているホームページ「第一次世界大戦」からは、個性的かつ確実な歴史解釈が随所に散りばめられ、玉石混交のネット社会の中では小生の一押しサイトの一つである。

さて話が回り道になった。氏の「帝国陸軍の栄光と転落」は、最初から最後まで文字通り面白いのだが、こんなことが書かれている。

帝国陸軍の兵士は、どこの国と比較しても長距離を行軍してよく耐えた。糧食が途絶えることがあっても、不平をいわず、持ち場を離れなかった。数倍の敵に攻撃されても、背を向けることはなかった。参謀の作った「唯一の」作戦計画が実際の戦闘とかけ離れた場合、日本の将軍は東京や司令部の命令に反しても、敢えて独断専行し、適切な軍配で全軍を勝利に導いた。プロイセンでは参謀本部や司令塔が、日本では現場が優秀だった(76ページ)。

日本の旧陸軍はプロイセン(ドイツ)に範をとって建設されたのだが、上の引用をみると、組織の実態はドイツとは相当違っていたことになる。一般にこのような指摘は、主観的独断が混じることがあり、不用意に肯定するのは禁物だ。とはいえ、外国のアネクドートに「世界最強の軍隊は、アメリカ人が総司令官となり、フランス人を参謀にして、ドイツ人が部隊長を務め、日本兵が戦う軍隊である」という一話があり、昔から大いにうけている。これと考え併せれば、帝国陸軍という外国直輸入の組織にあっても、日本で運用すれば、やっぱり上が無能で下が優秀になる。そうなってしまう。こんな経験則、あるのですな。とすれば、別宮氏の論評はあながちウソではないわけである。今回の東電本社と福島第一の騒動を聞いてまずこのことを思い出した。

更にこんな一節もある。

・・・参謀本部の長とは、戦時になれば戦場に行く存在であり、実戦に参加すべきものであった。昭和の軍人のように三宅坂の参謀本部にこもり、ペーパーワークを主とする存在ではなかった。・・・ドイツ参謀本部とは、平時には事前戦争計画をつくる部局であり、戦争となれば大本営と名前を変え、戦場に陣を構えるものであった。(35‐37ページ)

言い換えると、戦争という国家にとっての窮極的リスクに対応する組織は、当然、戦場という現場に置かれているはずであり、指揮権も現場にあるはずであり、だからこそ現場は首都に所在する内閣からある程度独立した意思決定権限が付与されなければならない。でなければ、変化する状況に敏速に対応できない。そういう当たり前の理屈をドイツでは実行していたわけだが、日本の大本営はずっと首都東京に置かれた。全ての実行部隊は東京にいる大本営の意のままに動く建前であった。それが原理原則であったわけだ(日清戦争では、一時明治天皇が自ら移動し、広島に置かれた)。それがうまくいったかどうかは別として。

話しは変わるが、プリウスのリコール問題で苦闘したトヨタ。これについても米調査委員会の指摘はもう出ている。トヨタの経営は過剰に中央集権的であり、各国の現実に即応した意思決定が敏速にとられ難い社内体制にあった、こんな指摘がなされている。共通しているでしょ?

聞けば海水注入中断の際、東電本社では「海水注入について総理の最終確認がとれていない」、そんな理由で中断を指示したそうである(その指示に現場が従わなかった)。菅首相は、中断の指示は出していないという。しかし日本では「上の意向を忖度(ソンタク)する」という心構えが非常に求められている。言葉で明確に、あるいは他の形でエクスプリシットに命令せずとも、下は上の意を十分に汲みながら業務を進めるべしという、本当に全くもって実に日本的な組織原理というのがある。東電は菅首相の意向を忖度したことに間違いないだろう。実際、統合本部を置き、政府との密な連絡をとりながら、行動していくという体制にあったのだ。

そんな体制で生じた現場の独断専行、それが今回のケースである。

権限、必ずしも指導になりえず

適切な指導を行うには、適切な情報がなければならない。現場にいないのであれば、それだけで指導者失格ってことだ。情報一元化も何もないわけですよ。そこにいなくちゃ!それが参謀本部という組織の根底にある思想だ。そもそも遠くからリモートコントロールしながら、大事故を解決できると考えた方が大間違いです。

もしも総理権限を代行する特命相が、第一原発を目視できる地点に本部を設置し、そこに関係省庁の局長、課長級の担当官を配置したうえで、現地対策本部に事態収束への実行権限を行使させれば、はるかに筋が通っていただろう。定期的に、中央とテレビ会議、携帯電話等で連絡をとりあいながら、首相官邸は大局を練り、必要なら海外との意思疎通を図っておけば、事態ははるかに改善されていただろうと思う。その意味では、何度もいうが、菅首相は組織というものをお分かりになってない、人の選び方、人の使い方をご存じない。そう言われても抗弁はできないはずだ。

しかしながら、上の意向を忖度する精神構造は、日本という国家、日本人集団の国民性に血肉となり、変改不可能なほどに織り込まれている。そんな気もするのだ。もしそうであれば、首相が菅直人でなくとも、誰が首相であっても、やはり原発事故が起これば、対応は中央統制となり、現場にいない政治家や官僚が全ての権限を掌握して、今回のように試行錯誤するしかなかったのではないか。そう思ったりもするのです。

東電は、一体、吉田所長をどう処分するのだろう。例は古いが、満州事変で見事な独断専行をした関東軍の石原莞爾参謀をどう処分するかで悩んだ陸軍省と同じ立場でもありますわな。

先ずは東電経営陣が謝ってしまうのがいいのじゃなかろうか?「情報錯綜の中、本社経営陣と官邸に意思疎通の齟齬が生じ、不適切な指示を福島第一原発に行ってしまいました。結果として現場指揮者のご判断により、その判断ミスが重大な結果を生む事態は避けられましたが、誤りの責任はやはり誠に重大だと考えます。経営陣を代表してお詫びするとともに、このようなことが起こらないように、社内組織、決定の在り方、分担の在り方を考え直したいと思います」、そう謝ってしまうのが一番だと思う。

所長は処分するしかありますまい。しないわけにいかぬ。厳重注意?減給?それとも次長降格?お咎めなしには先ずなりますまい。

今日は本当に無責任な長屋噺になってしまった。金曜日は、隣の百万都市に出張出稼ぎに行く曜日。投稿が遅くなったが、井戸端会議ということで、ご勘弁ください。

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