2011年10月31日月曜日

日本の核家族化の始まりは?

以前にエマニュエル・トッド「世界の多様性」に基づいて「経済発展と自殺率」を本ブログで議論したことがある。そこでの議論は、日本は自殺大国であり、その背景として日本の家族構造が「権威主義的」と呼ばれるカテゴリーに入る点をあげていた。家族構成が共同体型である国家、民族は共産主義革命を引き起こし、絶対核家族原理に立つアングロサクソン諸国は競争を旨とする資本主義経済への適応が速やかに進んだ。他方、権威主義的家族構成をとる国は、自殺率が高いだけではなく、類似性よりも差異の強調、平等よりは不平等、普遍的な帝国ではなく継承を重んじる小国家分立を選ぶ傾向にあることが指摘されていた。

なるほどねえ、と。多くの事実を説明しているではないかと感心したのだが、昨日、パラパラと書棚を整理していると中村隆英「日本経済 ― その成長と構造」のある下りが目を引いた。
江戸時代の総人口は初期が1800万人くらい、幕末で3200万人前後というのが従来の定説であった。(中略)それに対し速水は、一石が一人を養うというのは根拠がなく、残存する人別改帳のデータから求めた人口増加率を用いて逆算すると、江戸時代初期には1000万人程度とみるべきだと推算する。(57ページ)
これだけでも中々興味をひいたのだ。そうか徳川家康の頃にはせいぜい日本の総人口はせいぜい東京並みであったわけか、と。

しばらく読み進めていくと、
次に諏訪地方の農村の人口動態をみよう。まず第一に出生率・死亡率はロングランに低下の傾向がはっきりしている。世帯の平均規模も初期の7人から幕末の4人余まで急速に低下しているが、とくに低下がはっきり表れるのは18世紀においてである。それは中世から近世までに多かった多数の作男・作女のような下人を有する豪農がこの間に急速に減少したことを物語っている。これは二組以上の夫婦を有する複数世代家族の比率が下がっていくことにも対応している。18世紀には、大家族制度は解体して、一組の夫婦を単位とする近代的核家族に変貌していったことが読み取られるのである。・・・それはこの地方で、新田開発が進み、耕地面積が増加し、分家等の形で農家戸数が増加しえたことを物語っている。(58ページ)
下が参照されている表である。



このように諏訪地方というランダムにとられた一調査対象地区のデータではあるが、はっきりと江戸期半ばにおいて、日本の農村社会で核家族化現象が進んでいたことが指摘されている。領地と役職が固定された幕藩組織内部においては、惣領が相続し、均分相続はとられなかったが、農村では分家の独立と新田開発が進行していた。それを武士社会も黙認していたわけである。

江戸期に核家族化が進んだという事実はトッドが日本社会を議論する時の建前とは矛盾している。そもそも鎌倉時代には武家社会も長子相続ではなく均分相続であったと言われており、日本の家族構成原理が韓国と同様、本当に権威主義的カテゴリーに入るのかどうか定かではない。

むしろ江戸期に国民レベルで進行した核家族化現象が、明治以後の自由資本主義への適応を可能とする基礎になったとも考えられる。何しろ、明治初期には関税自主権も領事裁判権もなく、国内産業保護政策などできるはずもなかったのだ。

いずれにせよ、江戸期の核家族化現象も生産プロセスの中で進行している。トッドが言うように家族構成原理が、資本主義、共産主義という生産のあり方を決めるというより、やはり生産プロセスで行われる問題解決行動が、社会の家族構成を変え、ひいてはそれが政治や文化までを変える。そう考える方が現実的ではないかと思うがどうだろう?

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