なるほどねえ、と。多くの事実を説明しているではないかと感心したのだが、昨日、パラパラと書棚を整理していると中村隆英「日本経済 ― その成長と構造」のある下りが目を引いた。
江戸時代の総人口は初期が1800万人くらい、幕末で3200万人前後というのが従来の定説であった。(中略)それに対し速水は、一石が一人を養うというのは根拠がなく、残存する人別改帳のデータから求めた人口増加率を用いて逆算すると、江戸時代初期には1000万人程度とみるべきだと推算する。(57ページ)これだけでも中々興味をひいたのだ。そうか徳川家康の頃にはせいぜい日本の総人口はせいぜい東京並みであったわけか、と。
しばらく読み進めていくと、
次に諏訪地方の農村の人口動態をみよう。まず第一に出生率・死亡率はロングランに低下の傾向がはっきりしている。世帯の平均規模も初期の7人から幕末の4人余まで急速に低下しているが、とくに低下がはっきり表れるのは18世紀においてである。それは中世から近世までに多かった多数の作男・作女のような下人を有する豪農がこの間に急速に減少したことを物語っている。これは二組以上の夫婦を有する複数世代家族の比率が下がっていくことにも対応している。18世紀には、大家族制度は解体して、一組の夫婦を単位とする近代的核家族に変貌していったことが読み取られるのである。・・・それはこの地方で、新田開発が進み、耕地面積が増加し、分家等の形で農家戸数が増加しえたことを物語っている。(58ページ)下が参照されている表である。
このように諏訪地方というランダムにとられた一調査対象地区のデータではあるが、はっきりと江戸期半ばにおいて、日本の農村社会で核家族化現象が進んでいたことが指摘されている。領地と役職が固定された幕藩組織内部においては、惣領が相続し、均分相続はとられなかったが、農村では分家の独立と新田開発が進行していた。それを武士社会も黙認していたわけである。
江戸期に核家族化が進んだという事実はトッドが日本社会を議論する時の建前とは矛盾している。そもそも鎌倉時代には武家社会も長子相続ではなく均分相続であったと言われており、日本の家族構成原理が韓国と同様、本当に権威主義的カテゴリーに入るのかどうか定かではない。
むしろ江戸期に国民レベルで進行した核家族化現象が、明治以後の自由資本主義への適応を可能とする基礎になったとも考えられる。何しろ、明治初期には関税自主権も領事裁判権もなく、国内産業保護政策などできるはずもなかったのだ。
いずれにせよ、江戸期の核家族化現象も生産プロセスの中で進行している。トッドが言うように家族構成原理が、資本主義、共産主義という生産のあり方を決めるというより、やはり生産プロセスで行われる問題解決行動が、社会の家族構成を変え、ひいてはそれが政治や文化までを変える。そう考える方が現実的ではないかと思うがどうだろう?
1 件のコメント:
エマニュエル・トッドは先に発表される恐れから、大して調べずに世界の多様性を出してしまった。当然、批判も受けたので、新ヨーロッパ大全で詳しく調べたと書いてる。
また、日経電子版で、速水融さんの研究(日本の家族構造分類と人口学)を認めて期待してると言ってる。
そして彼の協力のお陰で、こんな論文が出来上がった。
http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/download.php/0302-0000-0485.pdf?file_id=15056
これによると、日本には直系家族(権威主義家族)、修正直系家族、絶対核家族、平等主義核家族が存在してる。
現在は日本だけなく、各国共同のプロジェクトで家族構造を詳しく調べてる途中である。
しかし、地道な作業で時間が必要。
余談ではあるが、フランスで人口学が強い理由は、早くから少子化し、動員数が減って主導権を独に奪われたから研究が盛んなのだ。
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