2011年10月21日金曜日

カダフィーの死 ― 独裁者の退場行動モデル

本日はリビアの最高指導者カダフィー死亡の報で持ちきりである。

リビアの最高指導者だったカダフィ大佐は20日、反カダフィ派部隊が大佐の最後の拠点、シルトを制圧した際に負傷し、その後死亡した。反カダフィ派の軍事委員会および政治指導者が明らかにした。 
カダフィ氏の死亡は、米国の外交政策をめぐる論争の一つに終止符を打つものでもある。オバマ大統領は、北大西洋条約機構(NATO)軍主導のカダフィ政権打倒のための軍事作戦を支援し、国内で批判を浴びていた。大統領は、米軍をリビアに派遣することなく、リビアの革命が達成されることを米国は支持してきたと指摘した。
リビアの反カダフィ勢力は、過去数カ月間カダフィ氏を捕まえようと追跡してきた。カダフィ氏は最後まで徹底抗戦すると言明していた。米国は9月にトリポリに大使館を再開し、同国の暫定政権である国民評議会を承認した。 
トリポリでは、国民評議会によるカダフィ氏死亡の正式発表前に、街に人々が繰り出し喜びを表し、イスラム寺院で祝賀の祈りが始まった。
 (出所:ウォール・ストリート・ジャーナル10月21日)
前独裁者の退場が大国の軍事介入によって実現されたことと、当のリビア国民が独裁者の死を歓迎しているという二つの事実が明確に伝わってくる。但し、リビア国民が大国の軍事介入のありかたまでを含めて、全面的に感謝しているのかどうか、分からないこともある。リビア国民が国家として、どのようにして自らを統治し、どのような外交戦略をとろうとしているのか、当人たちに聞いても、まだ分からないことは多いだろう。とにかく、集団的なプロテストに行動を起こした以上、あとは一直線。敵を殺すか、自分が殺されるかしかなかった。カダフィー側も反カダフィー側も同じ状況だったのだから。

結果としてカダフィーは死んだ。しかし、たとえば中国の王朝交代劇において前王朝の皇帝が殺害されるという例は実は頻繁には起こっていない。直近で言えば、清王朝の最後の宣統帝は子供でもあり、宮廷外に去ることで決着している。一つ前の明王朝最後の崇禎帝は、反乱軍李自成に攻撃されて城中で自害するという最期を迎えたが、更に一つ前の元王朝は最期は北方に逃走して北元を建国している。全体を眺めても、前王朝の皇帝は助命されている例が多く、しかも貴族として優遇されてもいる。最も悲惨な例は、モンゴルに攻撃された金王朝、南宋王朝あたりではなかろうか。これは、異民族による侵略に該当する点で他と違っている。皇室の家族を殺害するに至るロシアのボルシェビキ革命も、異なる思想を標榜する二つの集団の間で起こった悲惨な例に挙げられよう。

このように見てくると、武力抗争している集団がたどってきた思想、宗教、歴史的関係によって、ギリギリの段階において、殺されるまで抵抗するか、殺すまで攻撃するか。この判断が別れてくると思われる。

ゲーム論として考えると、これは<囚人のジレンマ>ではなく、典型的な<タカ‐ハトゲーム>である。囚人のジレンマは、わかってはいても相手が信じられないために、結果として当事者にとって最悪の事態に必ず陥るというものだった。タカ‐ハトゲームは、以下のような利得表の場合である。



タカ ハト
タカ (-1, -1) (2, 1)
ハト (1, 2) (0, 0)

相手に攻撃的に出るタカ派がぶつかり合えば、互いに傷つく。相手に対して受容的に対応するハト派どうしなら傷つけ合うことはないが、利得は得られない。相手がハトなら、自分は攻撃的に出るほうがよい。プラスの利得が得られるのは、ハトとタカ、タカとハト。一方が相手に従属的になるケースのみである。したがって、ナッシュ均衡は二つ存在する。自分が従うか、相手が従うか、だ。もちろん相手が自分に従うほうが利得は大きい。どちらの均衡を選ぶかという<均衡選択>は、ナッシュ均衡の概念だけからは決まらない。それには<フォーカル・ポイント>や<相関均衡>の考え方が必要だ。コインでどちらがリーダーになるかを決めてもよいし、第3者の調停をまってもよい。いずれにせよ双方がタカになるのは最悪。その最悪のケースを避ける誘因は、個別合理性の観点から、双方にあるので、普通は最悪の事態にはならないものである。自分から先にハトになってもよいのである。相手は「悪いようにはしない」 ― それが歴史的に定着している慣行なのであれば。

統治能力の喪失を自覚した前独裁者が自ら退場する(ハト宣言を行う)時に、少なくともプラスの利得を得るという確信は、その国の歴史を通して定着してきた共通の合意による。その合意が有効に働けば、流血の革命劇を避けることができ、多数の犠牲者の発生を防止でき、つまりは国民全体の集団合理性にかなう。

ところが第3者がオブザーバーにせよ、部外協力者にせよ、介入をすると過渡にタカ的な行動を取ることが合理的になる。それは相手を威嚇して、相手に譲歩を迫るほうが、自分の利得を最大にするという利己的動機にかなうからだ。無論、第3者の存在を無視して、自らが譲歩をしても、相手はモンゴルと金王朝、南宋王朝のように、決して自分を容赦しない。そのように状況を見る場合、やはり血の政権交代劇となる。

同じリビア国民でありながら、なぜ異民族間のようなタカ対タカの戦闘ゲームが繰り広げられたのか、小生もリビア社会の専門家ではないから、詳しくは分からない。ただリビア内部が独立したバラバラの部族から構成された国家であり、相手に譲歩することによって自分も助かり、結果的に社会全体の合理性が守られる。そんな歴史的基盤が形成されていなかったためではないか。そんな気はする。おそらくリビア特有の事情があるのだろう。専門家はリビアをケースとして行動分析をしておく責務があると思う。

どちらにせよカダフィーのケースは、独裁者の退場劇の一つのモデルであり、当然、予測しておくべきであったことは確かだ ― というか、介入した大国はそれが本来の目的であったのかもしれないが。

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