2011年9月15日木曜日

脱官僚は見当違いの方針だったのか?

今日は久しぶりに日経の記事を話題にしたい。
本日朝刊の経済教室に伊藤之雄氏が寄稿している。本欄は言うまでもなく、仕事柄、小生が常に愛読しているコーナーである。掲載されている図が「歴代内閣の官僚との関係」を見ると、大体、どのようなことが述べられているのか見当はつくし、文章全体を通して戦前の大政治家である原敬の名前があがっているので、ますますその印象を強くした。
ロンドン海軍軍縮条約をめぐり、浜口首相らは極めて強引な手法で海軍に条約をのませ、条約を成立させた。陸軍と異なり、海軍はこれまで政党を背景とした内閣との協調を基本としてきたが、浜口首相らの手法に、東郷平八郎元帥が政党内閣を信用しなくなったように、海軍では強硬派が台頭する。
この結果、満州事変や、海軍青年将校が犬養毅首相を暗殺した5.15事件など、戦争と軍拡の道につながった。
こう記述されているのであるが、前後の文脈から趣旨を憶測すると、陸海軍も軍官僚であって、使いこなすことが肝要であり、批判するだけではコントーロールができない。政治家が官僚を批判ばかりして、使いこなすことを怠ったために、ひいては官僚集団をコントロールすることが困難になり、最終的に軍官僚の独走を招き、首相暗殺など軍国主義への道を開くことになった。一口に言えば、官僚バッシングの結果は、官僚独走につながりかねず、政治の混迷という結果につながるおそれがあるということであろう。

また最近の若手官僚についても印象論的描写が述べられている。
20年ほど前と異なり、最近の官僚には傲慢さがなくなり、給与が減らされているにもかかわらず、公に奉仕するのを喜びとする意識が強まってきている。
このように温かい視線がそそがれている。

昨日の投稿では、本質的に戦前期とほぼ同じ中央集権的な行政機構が継承されておりながら、そこで権力を執行することが想定されているタイプの人材が、戦後教育システムの下では養成されておらず、公に尽くすというより、むしろその人自身の「幸福追求」の観点から業務を遂行しているのではないか、と。そんな考えを記しておいた。

幸福追求というのは極めて広い概念である。それは必ずしも金銭的満足には限らない。だから金銭欲がそれほど強くはなくとも、個人的幸福追求動機が弱いとは言えない。求めるものは金銭ではなく、名誉であるかもしれず、多数の人から賞賛されたいという向上心かもしれず、ずばり他人に命令をしたいという権力欲かもしれない。要するに何らかの意味で一身上の価値に帰着することであれば、その人自身の<欲>となりうるし、それが<動機>となる。それを言ったつもりである。

いまはサムライがいなくなったと昨晩は書いたのだが、それは武士、つまりは家臣のスピリットを言ったつもりである。具体的には<葉隠>の精神をさしている。奉公を支える第一原理は上意絶対であって、自分の主人の命令に従うという気持ちである。その命令を遂行することによって、一身上の名誉が保証されることは必ずしも言えず、可能性としては犬死を強いられることもあるし、不名誉な汚れ仕事を命令されることも十分考えられる。しかし、主人の命令に従うことを自分自身が生存している根拠と認識している人間にとっては、いかなる命令も受容して実行するのである。であれば、主人が<公>を体現している人格を備えているのであれば、何を実行する場合であっても、自分が不徳義なことを実行することはありえず、たとえ一身上の次元では不名誉であるとしても、<公>に奉仕する人間として不名誉を受容できるのである。最上位の倫理レベルにおいて自分自身は常に救済される。その確信が公に尽くす覚悟を支えていた。たとえ世間に批判されたとしても、それを超える主体が公として存在し、それ故に救済されるわけである。概略、このような意味において、公に奉仕する気構えをもった人間はもやは消え去った。そう記したわけだ。

小生は、そのような人間を養成するには、徹底した教育が必要であると考えている。仮に、そのような人間が育てられたとして、付き合いやすい人間であるかといえば、それはまた別だ。<公>という存在は一点に凝縮されていると認識されるに違いなく、したがって一切の妥協なく業務を遂行することは間違いない。おのれ信じて直ければ、敵百万人ありとても我往かん、の志は公に殉じる、国に殉じる、崇高な理念に従うという確信がなければできないことである。公に奉仕することが全てであるから、金銭欲も名誉欲も物欲もない。西郷隆盛が言ったように、何も欲しくはない人間が一番始末がおえないのである。ま、欲から解放された人間は、不動の一字でありますな。

繰り返すがこのようなタイプの人間を戦後日本の教育システムでは、倫理的にも養成してはいないし、むしろ日本人全般は不必要と考えているのではあるまいか?

最近の若手官僚が給与が引き下げられているにもかかわらず、公に奉仕するのを喜びとする意識が強まっていると指摘されている。しかし、公務員の給与は民間と比較して同程度に下がってはいない。寧ろ処遇としては恵まれているのが現実である。また、公に奉仕することを喜びとする意識が強まっているとのことだが、<本当に公に奉仕する意識が強まっている>のであれば、何故国民は広く公務員を批判するのであろうか?なぜ脱官僚のスローガンが国民から肯定的に評価されるのであろうか?なぜ公務員人件費の公約を政府に迫るのであろうか?なぜ官僚が唱える増税論に対して、国民から広く賛同の声がわきあがってこないのか?小生には不思議である。

小生は、現在の公務員を批判したいという気持ちは毛頭ないのだが、事実とは違う点を事実であると信じる気持ちにはなれない。公に奉仕するつもりであれば、前内閣で公務員給与1~2割引き下げという法案が提出された時、澎湃としてそれを受け入れる現場の公務員の声が届かなかったのは何故か?それが廃案となった時、すぐさま再提出の機運が湧き起こらないのは何故か?国の財政が困難に陥った時に、一身上の境遇よりも公の利得を重視する官僚であれば、必ず給与の一部自主的返上を提案するはずであるし、あるいはまた、復興事業に充当するための寄付金を職場単位で率先して募っていなければならない。しかし、これらに類した行動は、全くないとは思えないが、官僚集団全体の広がりにおいて観察はされないのである。

これらの点を考えると、政治家、官僚をとりまく現状は、文字通り公益に尽くすというより、一身上の何らかの利益を追求するために公務員という職業を選んだ人たちが多数であることを暗示していると思うのだ - その辺の事情は政治家とて同じだと小生には思われるし、おそらくそうだろう。そして、この状況が現実であると想定し、そんな中でも普通の人間集団が公務を担っていく、それでいて日本国の意思決定が行われていく仕組みを再構築する必要がある。それが昨晩の投稿の趣旨である。

そのプロセスの中で所謂<脱官僚>は、広い言葉の意味において、日本が避けては通れない大きな課題なのではあるまいか?

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