2011年9月5日月曜日

今はデータ待ち。新政権の体制作りを見る。

本日の日経朝刊の1面ヘッドラインは、政府が検討しているという<企業の国内立地補助拡充>。狙いは、円高・空洞化に対応とのことで、どうやら経済産業省が三次補正で予算要求するそうである。昨日、都内某ホテルで開催されたという経済関係四閣僚会合で話に上ったのだろう。

元より、全ての補助金は企業利益を水増しするための財政措置である。戦後ずっと食糧管理制度が続けられてきたが米価公定は補助金の最たるものだった。政府(=食管特別会計)が農家から標準米を買い取る時には例えばキロ千円で買い取る。それを消費者に販売するときには低価格のキロ300円で売る。差額の700円は財政資金から食管会計に振り込む。その財政資金は税金であるわけだから、農家に米を作ってもらうために、本来なら儲けが出ず、農業をやめるところを日本人全体がお金を出して農家に提供することで、農家に利益が発生するようにした。これが補助金の基本ロジックだ。だから日本人は国内米を食べることができたわけであり、その後の自由化の下、ブランド米を育てる農業基盤も維持できたわけだ。どんな産業でも一度び消失すると、人的資源、技術資源は、たやすくは戻らないものだ。

本来なら日本で事業を継続しても損失が発生するから経営者は海外に移転したいと思っている。しかし、日本人はこれでは困ると思うので、税金を企業に支給し、会計上の利益を下支えする。税金を100だけ投入することによって、企業が国内にとどまり、そのお陰で500の就業機会と雇用者所得が守れるなら、差し引き国民全体にとってプラスである。そういう理屈である。米価補助と本質は同じである。

ただ、本来なら損失が発生するような事業を国内で継続するわけだから、日本の将来を開くものではないし、こんな制度を10年続けても、生産性も所得も上がらず、日本全体が疲弊していくことは確実である。このように補助金は、痛み止めのモルヒネのようなものであり、楽だからといって継続すると、国の経済は死に至ることを忘れてはならない。本筋は、伸びる事業を立ち上げること、この一点に尽きるのである。

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同じ1面にはシリーズ「野田政権」が連載されている。今日は「成長と財政両立、連携を」。
民主党政権は分配重視で、成長というパイを増やすことに冷淡という印象をなお拭えていない。「会議で何度同じことを言わせるのか。実現しないなら時間の無駄」。成長戦略を議論する政府の会議で、ある経営者は最近怒りを爆発させた。
確かに、分配オンリーの経済政策はあり得ない。一方がとる分は、片方から見ると、とられるのであるから、成長戦略と併せて推進しない限り、分配政策は常にゼロサム・ゲームになる。というより、客観的にゼロサム・ゲームであるかどうかというよりも、経営層と従業員という個別プレーヤー達がゼロサム・ゲームと感じているのかいないのか?主観的にそのゲームをどのように認識しているか?それが、各プレーヤーの行動を決めてしまうのだな。

成長軌道に復帰できないのは、規制緩和が不徹底であるのが根因である。こんな指摘を行うエコノミストは多い。本ブログ投稿者もそれは的を射ていると思う。しかし、全体の成長が、自分自身の生活水準向上につながるかといえば、確信を持てない。格差拡大が進行している中で予想すると、色々な改革が自分にも及んでくるとなると、自分自身の収入が低下したり、サイアク、所得基盤を失ったりすることまでをも意識する。

技術革新が社会に浸透し、全体の生産性が上昇する時期は、適応組と非適応組の差が拡大する。跛行性が広がる。格差が拡大するが、これ即ち、リスクの高まりであって、経済全体のギャンブル性が増しているという言い方もできる。新しい技術、新しい商品、新しい原材料、新しい売り方、・・・イノベーションが鍵になる時代というのは、経済=ギャンブルです、これってとても本質を突いていると思われませんか?実際、産業革命が各国に波及し、更に化学工業、電気という新エネルギーが登場したりした19世紀、所得分配は一貫して不平等化した。平等化へ進み始めたのは第1次世界大戦が終わった20年代からである。<科学の時代>と言われる19世紀は<格差拡大の時代>でもあったのだ。(参考文献:コーリン・クラーク「経済的進歩の諸条件」)

過去の日本が、一億総中流社会を維持したままで高度成長を成し遂げ、1980年代には経済大国にまで到達したのは、いわば<確認済み>の技術を導入したり、応用したり、精密化することが発展につながったからである。先進国へのキャッチアップを終えて、フロンティアに位置してしまったからには、何を研究し開発するかでも、高いリスクへの挑戦が避けられない。故に、勝ち組と負け組に別れてくるのは、ロジックからして避けられないのだな。

だからこそ、格差拡大≠ゼロサムゲーム化、ここをしっかり認識する、意識として日本人が共有することはとても大事だと思うのだ。国内外のライバル企業を含めて、ビジネスの自由を拡大して、イノベーションに挑戦する企業を日本でバックアップすることは、あなたの損には決してなりません。自分をとりまく状況を、正確に認識しておくことが、いまは非常に大事なことであると思うのだ。その意味で、次の指摘は(当たり前なのだが)確かめておくに値する。そう思うのだ。
改革実現への鍵を握るのが経済政策の司令塔。(中略)政治家たちが互いに矛盾した発言を繰り返し、経済政策が右に左にぶれる。そんな政策決定への不安感が企業活動や市場にも悪影響を及ぼしていた。気がつくのが遅すぎるという不満は残るものの、司令塔構築は歓迎すべき変化である。
実質的に、これは小泉政権時代の経済財政諮問会議の復活です。「いまは技術革新の時代、民間主導の時代、だから政府が経済政策をリードするという発想は過去のものなのです」。そんなことを平気で言う人が1990年代から2000年代にかけて、それこそ雨後の筍のように目立っていた。確かに、「経済資源を政府の定めた分野に重点投入するのはもう終わりにしよう」という、そういう民営化論は的を射ていたが、日本の国民とビジネス界が将来についての認識を共有し、経済戦略を共有することの価値までも否定したのは、たらいの水と一緒に赤子を流してしまいましたね、こんな指摘もできるわけであり、とても愚かなことであった、小生はそう思う。家族ですらも「これからどうする?」と話しあうことは大事だ。それは親が子に指示することが目的ではない。話すということが何より大事なのである。まして、誰が得をして、誰が損をするのか、よく分からない国民経済においてをや、ではないか。

認識の共有がなければ、人間集団は個々の小集団に別れ、組織は非組織化され、全体合理性は失われ、社会は囚人のジレンマに陥り、結果として全てのプレーヤーは利益を失う。

分け前をうるさく言う<初期民主党政権>が、より成熟した<本格化政権>への道を歩んで欲しいと願うのは小生だけではないだろう。

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と思いめぐらせつつページをめくっていると、タイミングよく、三井住友AMのチーフエコノミスト宅森昭吉氏のコメントが載っていた。
内閣府は7日、7月の景気動向指数の速報値を発表する。景気の現状を示す一致指数は4ヶ月ぶりに前月を下回るだろう。だが、これは東京電力と東北電力の管内で7月1日に始まった電力使用制限による一時的な生産抑制の影響だ。6ヶ月程度先の景気を映す先行指数は106.1前後に達すると見られる。そうなれば3ヶ月連続で前月を上回り、景気の先行きは明るい。
7月の数字に関する限りは、明るい判断でよいと思うのだが、にわかに雰囲気が変わってきたのは8月に入ってからである。
8月以降の指数がどうなるかは不透明だ。電力使用制限は9月上旬の前倒し解除が発表されたものの、米国債の格下げなどで、記録的な円高水準が定着しつつある。輸出産業は大きな打撃を受ける。
話は本日投稿の冒頭、円高緊急対策に戻るわけである。新政権の進める政策が、地に足の着いたものになるかどうか?野田内閣は正に文字通りの<離陸段階>にある。離陸成功を祈るばかりである。



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