3分後に言うことを決めて、いまやる動作を決めているわけではない。決めているとすれば、それを<演技>という。
すべて人間は、その人の将来予測を前提に、期間全体から得られる満足度を最大にするような行動を選ぶ。経済学では、そんな仮定をおいた上で、消費理論、生産理論を体系化している。いかにも合理的だが、実はおかしな所がある。将来予測など的外れに決まっている — 予測が本筋をついていると分かっているならこんな楽なことはない。的外れの見込みに立って、理詰めで計画した行動など、はなから的外れに決まっている。だから人間、バカばかりするわけだ。大体、いつも先ばかりを読んでいる人間はつまらない行動をとるものだ。これではジョークにもならないので、人間が考える将来は基本的にその通りになる。経済学はそう仮定して理論を作っている。<合理的期待仮説>はそんな風にうまれてきた — ちょっと脚色が混じっているけれど。
今日の道新に、先日大臣を辞任した鉢呂吉雄氏のインタビュー記事が載っている。
「死の町」という言語表現は、本当に心からそう思ったから、そう話したということだ。放射能云々の場面だが(インタビュー記事によれば)議員宿舎に戻ると記者が5、6人いて、当日の積算放射線量が85マイクロシーベルトにもなった、と。そんな話しをした記憶があるが、他は何を話したかよく覚えていないそうだ。記者に近寄っていって、ホレホレという仕草をしたというのは、その場の人が大体話しているようだが、やりとりした台詞がどうだったか、報道自体もマチマチだ。記者の皆さんも、とっさでよく覚えていないのだろうなあ。
多分、何か定まった事を言おうと思って、意図的に近寄っていったのではないのでしょうなあ。何か言おうと思って、近寄っていったが、いい言葉が思い浮かばなかったので、動作でホレ、ホレと・・・これはありうるな。
ま、とにかく分からない。でも、こんないい加減なところ、よくあるでしょ。いい加減と言えば、報道も非常にいい加減であった。これって、第三者による<報道内容調査委員会>を立ち上げなくてもいいのだろうか?でも、人間、こんなものじゃないか、ギシギシ、詰めなくともいいか。
3月27日付け投稿で小生が暮らしている町の近郊風景を描いている絵の途中段階をお伝えして、枠線で囲んだ箇所には、たとえば犬と散歩する少年を書き加えようか、そんな抱負を記している。いやあ、そんなことを考えてたんだなあ、と。
結局、カンディンスキーが描いたミュンターをそのまま拝借してしまった。オリジナルは以下のとおり。
Kandinsky, Gabliele Muenter Painting, 1903
生身の(それも愛している)人間を描いているのと、描かれた絵を自分の絵の一素材に借用している違いが、生なましく出ている。ホント、情けないねえ。一筆一筆にこめる愛情のレベルが全く違っている。それとも事前の計画どおりに描くべきであったのだろうか?しかし、計画どおりにやるなんて、そんな風に決めてしまって、自由などないではありませぬか?自由なきところに創造なし。その位は小生程度のアマチュアも言ってよいのではないか。哲学者スピノザが言ったそうだ。投げられた石に自由意志があれば、自分は自由に空を飛んでいると考えるであろう、と。実は、その石はそのように飛ぶしかなかったわけである。
でもまあ、カンディンスキーの作品と自作が互いに接して上のように並べられるなどは、自分のブログでくらいしか、実現されえない。これまた一場の一興ということで。
0 件のコメント:
コメントを投稿