マスメディア産業のあり方も、インターネットの拡大の中で、激変期を迎えている。新聞、テレビという伝統的なビジネスモデルが、実は崩壊していることは、随分前から指摘されている。実際、欧米ではマスメディア業界の再編成が進んでいる。
今朝の新聞朝刊には各週刊誌の広告も載っている。「欧州発金融恐慌 — リーマンショックより深刻な事態が来る」。これは週刊エコノミストだ。「日本車が消える」。これは週刊東洋経済。それから「読者のみなさんゴメンナサイ!野田内閣、屁のような醜聞10大ニュース」。これは週刊ポストである。北海道新聞の政治面には「野田首相、公明に接近」、「民主輿石幹事長、党内で求心力急低下」。同じ頁には、「道内12選挙区はいま(下)」がある。
日経朝刊には、首相「小説よりリアル」と。エッ、と思ってさらに読むと「現場を目の当たりにし、小説よりはるかにリアリティーをもって、こういう人たち、こういう仕事を支えていかなければならない」と、フンフン、それと「直木賞を受賞した小説『下町ロケット』(池井戸潤)を読んだことに触れ、夢と志を・・云々」。ああ、そうか。リアルというのはそういう意味だったのかと悟った次第。しかし、「中小の工場視察」と題をうって「首相、小説よりリアル」とサブタイトルをつけるのは、いかにも首相の呑気坊主振りを吹聴しているような書き方じゃなあ。首相がぶら下がりや記者会見に消極的であるので悪意でも芽生えたか?意図的に誤解を与えるつもりではないかと、突っ込まれても仕方がないと思うなあ。そう感じた次第だ。
週刊ポストの方の「屁の醜聞」は、おそらく代金を払ってでもそんな文を読みたいという需要があるのだから、付加価値をまったく生産していないわけではないのだろう。しかし、会計上の付加価値が計上されているからといって、本当にそれは価値なのだろうか?
マスメディア産業もつくづく<売文業>なのだなあと、そう感じるのは小生だけだろうか?事実の伝達、正確な情報の速やかな提供は通信社の役割である。<誤報>を流せば、社の代表者による謝罪が求められる。事実かどうかで通信社には経営規律が加わる。だから不確定な段階では、まだ未確認情報であることを付け加えて報道する。ロイター通信社を初め、通信社の情報販売事業は、電信の発明とともに成長したのであったが、同時にジャーナリズム部門も拡大して、事実をどう見るかを解説するサービスが商品価値をもつことになった。これらをマスメディア産業と呼んでいるのだが、マスメディア事業の原材料と販売商品は何だろうかと時々考えるのですね。
ま、一つ確実なのは広告。これは100%正確な情報だ。間違った宣伝をすれば宣伝をした企業が信頼を失うので、正しい情報を伝えようとする規律が自動的に働く。では、広告以外の記事については規律は、いかなる風に働くのだろうか?
少なくとも毎日印刷しなければならない新聞にとって、首相のぶらさがり、記者会見は、使いつぶしのきく原材料を提供して来た事は間違いがないだろう。その開催頻度が低下した、というより開いていないという現状は、中国政府によりレアアースを止められた日本メーカーの苦境と相通じるように思うのだな。マスメディア企業は、いまの状況を打破したいという誘因を当然もっているはずだ。
今朝のモーニング・ワイドショー「とくダネ!」でニューズウィーク日本支社の竹田圭吾編集長が、数年単位で政策を考えていかなければならないテーマについて、毎日ぶらさがりで取材して、その一言、一言をあげつらう。こんなことは必要ないと思います。ただ記者会見を2週間に一度とか、定期的に開くことは必要だと思うのですよね。こんなことを言っていた。まあ、常識的な見方でしょう。もっと取材コストをかけて、全国津々浦々の政治、行政、産業、国民生活の様々な断面を丁寧に伝えることが、購読者から真に望まれているのではあるまいか?
何を書いてもそれが<報道>に該当するとは限らない。嘘をかけば名誉毀損罪にもなる。本当に事実確認がとれていることのみをマスメディアは書いているのだろうか?そんな審査機関は、事前段階にも事後段階にも、マスメディア社内に公式に設けられてはいないのではないだろうか?まして一定の権威をもち指導権限を有した第三者による「報道内容調査委員会」などは、どこにもないと思っている。
偽装商品が経済犯罪であるのはどうしてだろうか?不当表示が処罰されるべき企業行動であるのは何故だろうか?それは、当該商品に関する正確な知識・情報が欠如している場合、市場による資源配分は適切なものではなくなる。これが経済学の大事な結論であるからだ。不正確な情報の流通が、社会経済の正常なメカニズムに対する障害になるからだ。医療、製薬はその典型的ケースである。それ故、上のような産業では特に正確な情報の開示が求められ、買い手がコンテンツについて十分な理解を得ることが権利として認められている。マスメディアが販売する商品は、文字通りの情報であり、知識であり、見方である。<情報>の伝達と<流言>の伝達は識別困難であることが多い。<情報>と<洗脳>も外見は類似している。正確な情報を得るには取材コストを要するが、流言の取得は低コストである。創作は更にコストが低い。社内統治が必須である理屈だ。
一定の労働と資本を投入すれば、何らかのアウトプットは必ず生産される。しかし、労働価値説は適用できないわけであり、頑張ったから出来たものに必ず価値があるわけではない。価値は<価値>として市場が受け入れることによって、初めて価値になる。価値の生産に市場規律は不可欠なのだな。マスメディア企業は、販売する文章に含まれている事実的要素と虚構的要素を自由にミックスしてよい。そんなことが言えるはずはない。日本語という壁と様々な保護行政に守られ、なすべき社内統治を怠っているという事は本当にないのだろうか?再販売価格制度によって価格が規制され(=保護され)、事業としての存立に国民的負担が投入されている以上は、報道活動、報道内容について、定期的に市場外の審査を受けるべきではあるまいか?
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