その内、総合的な感想をまとめようとは思うが、ここでは印象的だった個別的な論点をメモしておきたい。
まず第3章「権威主義型」(=家族構成原理の一つ)から。
ひとりが選ばれ、もう一人は排除される。長子相続、末子相続、さらには父の遺産を分割せずに相続するその他すべての方法のメカニズムは、継承であると同じ程度に排除でもある。それは兄弟の不平等を意味しており、その結果として社会空間の非対称的なヴィジョンを含んでいる。この家族の中では、すべての個人は同等の場所と価値を持っていない。すると全ての人間が平等であるとは考えられないことになる。さらに先へ進めると、すべての民族が平等であるとは考えられないことになるのである。権威主義的家族の理想を実践している人間集団のリストは多くを語っている。そこには、あらゆる特殊主義、自民族中心主義、普遍の拒否が凝縮されている。
(中略)
東ヨーロッパでのドイツの失敗は、征服された民族に平等の原理を適用しない軍事的、文化的な拡大が引き起こした逆のプロセスを描き出す。ドイツは中世以来、商人、職人、言語、さらにはそのきわめて活性力の高い文化によって、オーデル河を越えて至るところに進出していたが、スラブ民族やマジャール民族を同化することは遂になかった。ドイツはヨーロッパのこの地域を文化的なモザイク状態のまま放置することで、それらの民族の文明が形作られることに貢献したのであった。千年の交流の末に、ナチズムはこれら東方の民族を劣等民族だと宣言する。1945年、悲劇は終わる。千年帝国は、権威主義的家族構造が内包する人間の不平等という原理の上に築くことはできないのだ。(108ページ)権威主義的家族構成原理の特徴としては、相続における兄弟間の不平等、結婚し相続する子供と両親が同居する慣習などが挙げられる。関連する主要な地域、民族は、ドイツ、オーストリア、スウェーデン、ノルウェー、スコットランド、アイルランド、更に日本、韓国・朝鮮、ユダヤ、ジプシーが挙げられている。
日本においては、現民法によって上のような長子相続は否定されているが、同居した息子(娘)夫婦に土地家屋など不動産を、その他の兄弟姉妹には金銭を遺贈する形は、今なお広くとられていると思われる。著者であるトッドは、これこそ権威主義的家族構成原理を特徴付ける行為であると、別の箇所で述べている。
市場経済とその地域の家族構成原理との相性は本書の要点の一つである。たとえば第4章「二つの個人主義」では絶対核家族と平等主義的核家族がとりあげられている。絶対核家族は、アングロサクソン世界で慣習的にとられてきた家族原理である。相続に明確な規則はなく、遺贈は遺言という親の自由意志によって行われる。したがって結果的に兄弟間で不平等が生じる。しかし絶対核家族原理の支配する社会にあっては、親世帯と子世帯は完全に独立していて、親と子が拡大家族を形成することはない。絶対核家族社会では、親子の間に世代的連結はない。故に、相続も親の意思によるのである。平等主義的核家族は、子は親の権威を否定するが、相続は平等である。
識字化、都市化、工業化の複合的なプロセスによるイングランドとフランス(北部)の伝統的社会の根無し草化は、両親と子供たちの補完性に固執する家族的理想によって統合された社会の根無し草化ほどには、苦痛を伴うものではなかった。農村からの脱出が世代を分離し、複合家族の核を破壊するのは、外婚制共同体モデルと権威主義モデルの場合である。核家族を特権化する構造においては影響がない。なぜなら、そのような社会システムでは家族の統一性の早期の分裂は、価値あるものとされており、個人的な自立が幼少期から始まる訓練によって準備されているからだ。スカンディナヴィアの福祉大国では歴史的に自殺率が高い水準にある。このこと自体は、これまで議論されたこともあり、その原因を行き過ぎた社会保障政策に求める意見が比較的多いようだ。トッドの視点は、福祉を志向する社会民主主義の浸透自体が、タテの統合を重視し、国家の役割を重視する権威主義的な家族構成原理からもたらされたものであるとして、その権威主義的原理に含まれている細分化の意識が現代社会のもたらす不安をむしろ増大させるという矛盾に、高い自殺率の根因を求めている。う~む、中々、深い認識であるなあと感じいったところである。
(中略)
きわめてデュルケーム的な変数である自殺の例は意味深長である。19世紀の近代化の段階を通じて、ヨーロッパのいたるところで、自己破壊の頻度が増大した。イングランドの場合はこの増大の現象が顕著に小さいのである。フランス北部の場合は、自殺の増大は大きかったが、20世紀の中葉からは減少が始まり、はるかに問題の少ない水準に戻った。ドイツ、スウェーデン、ハンガリー、フィンランド、オーストリアのような稠密な家族構造の国々では、20世紀は減少期ではなく、むしろ高い自殺率が安定化する時期となっている。(166~167ページ)
日本も戦前期までは、この国で連綿と続く<家の制度>を柱とした完全な権威主義的家族構成原理をとっていた。戦後に民主化されたものの、祭祀権は依然として長子が継承するものと規定されていたり、長男が特別視されたり(そもそも皇室がそうである)、嫡出子尊重の意識は払拭されてはいない。正統を尊び、本流を尊ぶ意識も日本人の潜在意識に濃厚に残っている。その意味では、日本はいまだ完璧な権威主義的な家族構成原理に立つ国だと見られる。
本ブログで、「なぜ日本人の幸福度は低いのか?」を以前に投稿したが、その中でOECDによる幸福度指標を紹介した。さらに、幸福度指標の低い国はいずれも自殺大国である点にも言及した。それらの国は、ロシア、中国、日本、韓国、フィンランド等々も含め、家族構成原理が共同体型であるか権威主義型である、核家族原理をとっていない国である点は、大変意味深いと思うのだ。
家族構成原理は、その社会の人類学的な特徴であって、いわば<社会のDNA>とも形容できるだろう。現在のグローバル経済を特徴付ける経済システムが、競争原理に基づく市場経済だとすると、流動的な社会組織を良しとする国は価値規範ととるべき行動とがマッチするため時代が求める課題を容易に解決できるはずである。しかし、それ以外の国では、市場経済に即した問題解決を図ると、社会的不安が増大する可能性がある。
ま、論点が多岐に渡るので、短い議論で全てを語ることは難しいが、一つあげておくと、社会のあり方を、市場メカニズムのもたらす利点に基づいて議論するやり方は、ひょっとすると特定の文化人類学的前提にたった、特殊な議論であるのかもしれない。
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